FC2ブログ

自己紹介

はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


言葉より思考を重視して書きます。

おはなし


思考より言葉を重視して書きます。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?
スポンサーサイト

笑顔の下には何が流れているのか

 ちょっとした用事で遠くの街に行く時は、必ずその街のラーメン屋を訪れる。きっともう二度と来ることはない街、そしてラーメン屋。見慣れない風景、地図を見ながらオフィス街に近い昼時の大通りを歩いた。目的地は目立たない横道を入ってしばらく歩いた所にあるようだ。見逃さないように、ソワソワと落ち着かない気持ちで歩いていく。すると横道の入り口に置かれたブラックボードが目に入った。脚立のように開いて置いて、両面使えるタイプだ。そこに白い文字で目指していた店への案内とおすすめメニューの紹介が書かれていた。

 ホッと一息ついて、周りを見渡してみた。けっこうな交通量、遠くにはビル群、通りには飲食店やコンビニが並んでいる。突然、わはははは!という笑い声、びっくりしてそっちを見ると、サラリーマン風の若い男たちの集団がいた。どこかに並んでいるのか、誰かを待っているのか、数人で固まっている。そのうちの1人がキョロキョロし、こちらに歩きながら、持っていた缶コーヒーをグイッと傾け飲み干すと、わざとらしい何食わぬ顔でそれをブラックボードの足の間に置き、そのまま集団に戻っていった。

 目的の店は綺麗だった。木の引き戸をガラガラと開けると「ハイ、いらっしゃいませ~」「いらっしゃいませ~」店員は2人、30歳前後の男性と中年の女性。店内は木材が基調でしゃれていた。先客はない。入って左の食券機の前に行き、千円札を与え、特製濃厚つけ麺のボタンを押し、案内されたカウンター席へ、座る前に「お願いします」笑顔の女性に食券を渡す。「特製濃厚つけ麺いっちょ~う!」「は~い」座って水を一口、目を閉じる。

 ぐつぐつと沸く音、食器同士が触れる高い音、カチャカチャと調理する音。後客はない。「ねぇ、ボードの位置、動かしてみた方がいいかな?」「いや、そんなことしたって変わらないよ」「でも、あそこじゃあまり人見ないんじゃない?」やり取りや見た目から推察するに、2人は多分親子なのだろう。修行して独立した息子、手伝う母親。「やっぱり、見てもらわないことにはどうしようもないから」母親はそう言って店を出て行った、息子は何も言わず調理を続けていた。

 チャッ、チャッ、チャッチャッチャッ、小気味よく湯切りし、シャコシャコシャコと冷水で締め、バッバッと水を切る。「どうぞ、特製の濃厚つけ麺になります」いただきますをして、中太の麺を一掴み、つけダレに半分ほどつけ一気にすする。心地良い風味、鶏とかつおのしっかりしたうまみ、舌を包むまろやかなタレの感触。鶏がメインの濃厚系は、えてして輪郭が曖昧になりパンチ力不足になりがちだが、これはかなり完成度が高い。麺をタレに深く潜らせると、箸にゴロゴロしたものが当たった。一口サイズにカットされた厚切りチャーシューと味玉だ。チャーシューと麺を一緒に掴み、夢中になって食べ進める。

 ガラガラ、ドアが開いた。厨房の店主と一緒に目を遣ると、ちょうど母親が後ろ手でドアを閉めているところだった。ガラガラ、という音が響いた。母親は黙ったまま厨房に入り、手を洗い、作業を始めた。私は味玉を掴んで口の中に入れ、目を閉じて咀嚼した。そこからは、麺をつけてすすり、麺をつけてすすり、麺をつけてすすり、思わず呟いていた。「うまい、うまぃ・・・・・・」麺とトッピングを食べ終えたので、スープ割りを頼む。「は~い、お待ちくださ~い」笑顔だった。女性は丼を店主に渡し、受け取り、カウンターに置いた。「スープ割りになりま~す、どうぞ~」笑顔だった。スープ割りを完飲し、口を拭き、水を飲み干し、席をたち、「ごちそうさまでした」と頭を下げ外に出た、「ありがとうございました」同じ笑顔に見送られて。

 帰り道、ボードは確かに少しだけ移動していた。足の間に空き缶はなかった。


薄氷は幻想の中の確かな大地

息が詰まりそうだよ
どんな結果も受け入れようと
覚悟を決めていたはずなのに
間違ったことをしたんじゃないかって
心がグラグラ揺れている
落ちはじめてから気づくんだ
覚悟なんて、所詮言い訳
ほら、まただ
“気づく”という言い方も言い訳で
本当ははじめから知っていた
期待と甘えの裏返し誤魔化し
いつも同じように
繰り返しだ
言葉で言葉を裏付けようと
前のめりになればなるほど
言葉が汚くなる以外
何一つ変わりはしない
電車の乗客たちの顔が怖い
その言葉はこの人たちを刺すから
いつものお店の笑い合いがつらい
その言葉は目の前の善人を刺すから
ならば自分も刺される覚悟を
あ~あ、またわざと的を外した
自分でやったことなのに
いつの間にか願っている
誰か許してよ
独りぼっちになっても
独りぼっちになる覚悟なんて
できやしないんだ
取り返しがつかなくなっても
独りぼっちであり続ける覚悟なんて
できやしないんだ
自信があるなら堂々と!
なんて、本気で思っているなら笑い話だ
怯え続けて、一歩も動かなかったおかげで
そこを固い地面だと思い込めてるだけだよ
本当は一歩踏み出してみることさえ覚束ない
薄氷のように孤独な世界
覚悟も自信も実に無力だ
決めるのは結局他人なんだから
“承認”とコトバにしてみれば
わかったような気になるけど
高を括ってもいいことないよ
“それ”はもっと切実なものさ
世界の底は薄氷のように簡単に抜けちゃうんだから
なんで“承認”が必要なの?
滑稽だ、何の裏付けもない、何の後ろ盾もない
宙吊りの“個人”
せいぜい“家族”がいるだけだ
だから縋るしかない、ならば縋ればいい
否定されない安心感、“正しさ”という拠り所
ただしせめて誠実に


“常識”はとてもキモチイイ

 最近、また引きこもりにスポットが当てられた。「引きこもりは犯罪者予備軍」とか「引きこもりの息子を殺しても仕方ない」とか。“肥大した自我”とか“現実とのギャップ”とか。もっとも、引きこもりに限らず“弱者”を叩いてバカにする言説はリアルにもネットにも溢れている。「いい仕事に就けなかったのは努力が足りなかったから」「無能なんだから諦めろ」「何も守るものがない無敵の人」「年収○万円以下は社会の足を引っ張っている」「生活保護受給者は税金にタカる寄生虫」

 こうした攻撃的な言説に対抗するやさしい言説もある。「必要なのは批判ではなく社会復帰(“まともな仕事”に就いて“自立”するための)“支援”」「“普通に働けば普通に生活できる”社会を」「“障害者”や“弱者”を社会(“たくさん稼ぐ優秀な労働者たち/賃金/税金”)で“支えて”あげないと」

 これら2種類の言説は一見すると正反対だが、実際は全く同じである。つまり結局どちらも“常識”に基づいている。“常識”に基づく攻撃は快感をもたらす。それは弱い者をイジメる快感というより(であると同時に?)、“常識”を使う快感である。“常識”に基づくやさしさは使命感をもたらす。それは弱い者を助ける使命感というより(であると同時に?)、“常識”に沿わせる使命感である。否定されない安心感、正しいことをしている満足感、そして他人や自分(具体的な存在)さえ“常識”に劣後するようになる。“常識”は実体のない寄生生物であり、宿主は陶酔や確信に導かれながら行動や態度や発言や文章で“常識”を表現し、“常識”を感染させていく。それで肝心の“常識”とは?一言で言うなら「現状は正しい」である。

 これについては何度も書いているが、現代社会は賃金奴隷制(働かないと食っていけないシステム)を採用しており、それが不毛な害悪をもたらしている。景気や環境の変化に生活が左右される不安からヒトは保護を求め、制度や経歴や人間関係によって守られる者と守られない者がつくられ、強固な奴隷のピラミッド構造が現出する。雇用の保護イスやカネを奪い合うゼロサムゲーム、労働は賃金をいただくための言い訳と化し、「他人や社会の必要を満たす」という仕事の第一義が忘れられる。イスを温存しようと効率化・機械化・自動化を渋り、有害無益なクソシゴトを増やし、訳のわからない“能力”や“正常/異常”をうみ出して絶えず誰かを仲間はずれにしていく。テクノロジーの進歩は労働の撲滅を志向せず、先人の積み重ねはフイにされる。

 “常識”に感染するとこれらすべてが“正しい”ことになり、不毛な害悪が“正しい”理由、その理由が“正しい”理由・・・・・・という方へどんどん前のめりになっていく。

「(保護イスに座る)高収入のヒトは有能で、それは社会に貢献している証」「不安定で収入の低い無能は努力しなかったから誰でもできる仕事をやっている」

 雇用の保護イスは実際の(他人や社会の)必要に基づくものではないし、その奪い合いにおける“有能/無能”に一体どんな意味があるのだろうか?また、社会を支える必要な仕事はある程度誰にでもできるようになってないと困るし、それと低賃金が結び付いているのは、“労働(力を供給)しないと生きていけない”せいで、低賃金のままでも人が集まってしまうから。

「たくさん稼ぐ優秀な労働者たちがたくさん税金を納めて社会を支えている、無能な連中の面倒をみている」

 実際に社会を支えているのは(ほとんど)テクノロジー。安定した高収入は非正規雇用の賃金調整や制度(つまり税金)によって確保される。富の実体はモノ・サービス(供給力・テクノロジー)であり、カネはデータにすぎないのに、ハイパーインフレだのモラルの崩壊だのと脅してカネの量・分配を制限することで、ピラミッド構造・ゼロサムゲーム(収奪システム)を維持している。

「苦しくてもみんなが我慢して働いているから社会が回っている」「進歩して文明が高度化したから労働も大変になっている」

 進歩すれば“普通は”働く必要が減るはずだし、仕事も楽になるはずだが、「働かないと食っていけない!」から常に逆の力が働く。本来であれば、満たすべき必要がある→進歩の度合いに応じて仕事量(人間が働く必要)が決まるという順番だが、今は“働かねばならない”が先にきてしまっている。したがって「苦しくてもみんなが我慢して働いているから」かどうかは実際の所“わからない”のである。それを明らかにするためには、働かなくても食っていけるようにして、退職や解雇を容易にするしかない。

「誰も働かなくなって社会が崩壊してしまう」

 狂った順番の正当化。本来であれば必要がある→働くなわけで、働かなくなるということはもうその必要がないということ。必要があるのに誰も働こうとしないならそりゃ崩壊するだろうが、生産手段もノウハウもあるのにそうなったら、知的生物として終了。

「働くのは当たり前」

 社会がカツカツなら働くのは当たり前、困っている人がいないなら働かないのが当たり前、困っている人をなくすためにも自動化(働かないこと)を目指すのが当たり前。

「働いて必要とされることで、社会に参加することで、人間の尊厳が保たれる」「働かないとやることがなくなる、堕落する」「労働は生きがい」などの労働を肯定する全ての言説。

 それがなんで“強制”労働制を続ける理由になるのかさっぱりわからん。

 “常識”に操作される宿主は構造やシステム自体を問題視することを避け、構造の犠牲になって割を食わされている人たちに責任を押し付け叩いてバカにするようになる。たとえば「AI・機械に仕事が奪われる(から規制しろ)!」とは、つまり進歩や利便性(他人や将来世代の便益)を捨ててでも自分(たち)だけが食っていければイイということだが、ここに至ってはもはや自分が何を言っているか/しているかさえわからないのだろう、その口で「働かないで罪悪感はないのか!」「○歳にもなってフリーターで恥ずかしくないのか!」「社会に寄生するな!自立しろ!」などと平気で言うようになる。

「仕事がなくなった(困っている人がいなくなった/自分抜きでも他人や社会の必要が満たせるようになった)のに食っていけないのはおかしい」と思えなくなり、「お前が犠牲になれ!」「自分以外がどうなっても構わない」と行動で表現するようになる。こうやって傷つけ合うことが“常識”の感染を促進するのだろう。「マジメに働かなきゃダメってわかってるよね?」「本当はみんなと一緒に働きたいんだよね?」といった“参加”を促すやさしい脅迫/善意の支援も結局同じように感染を促進する。人間なら当然抱くはずの罪悪感や疑念は“常識”によって快感や使命感に変換され、攻撃も擁護も悉く「現状は正しい」の言い換えにすぎなくなる。

 労働を中心に構造化された生活を“規則正しい生活”と言ったり、労働を減らす気もないのに過労を問題視したり、雇用にしがみつくためのクソシゴトを求めながら搾取だと怒ったり、テクノロジーの進歩に従って普通は仕事が減るはずなのに引きこもりやニートをバカにしたり社会復帰させようとしたり、買わせるために“必要なモノ”や“足りないコト”を次々でっち上げて心に穴をあけたり、人生をドブに捨てるだけの時間を“尊厳”と言ってみたり。自分たちで自分たちの首を絞め、犠牲者に追い打ちをかけ、犠牲者の方も“自己責任/無能/社会のお荷物”であると受け入れてしまう。「子供たちの将来のために~」とか言うわりに、このピラミッド構造・ゼロサムゲームを押し付ける。不安や孤独や人間不信や奇妙な高揚感(成長/生きがい/誇り/自尊心など)に塗れながら、せっせと“常識”に奉仕する姿は、寄生生物の宿主が体内を食われながらせっせと奉仕するような、不気味な倒錯を思わせる。



24時間爆弾

「まぁ要するにね、このボタンを押せば24時間前に戻ることができるんだよ。私も詳しいことはわからないし、これを私に渡した人も、その前の人も、きっとわからなかったのだろう。でも、24時間前に戻れるのは確かさ。自分が今存在する宇宙を消滅させる衝撃で、自分だけを24時間前の宇宙に飛ばす。前の所有者は私にそう言っていた」

 記憶はここから始まる。自分がなんでこんな話を聞くに至ったか、全く思い出せない。もっとも、あの時の精神状態を考えれば仕方がないし、むしろここからの記憶が鮮明であることを驚くべきなのかもしれない。

「信じられないのも無理はない。私だって、ボタンを押すまでは、ね。こんなちっぽけな、おもちゃみたいな装置が、まさかね・・・・・・。しかも、こうして手元に残るのだから、やろうと思えばきっといくらでも時間を巻き戻せる・・・・・・。うん、私がこれを受け取ったのは、ちょうど君ぐらいの年齢の時だった。今思えば、私が君を選んだように、あの人も私を選んだのだろう。若すぎても、年を取り過ぎていてもいけない、せっかくだから、有意義に使ってもらいたいしね。そのためには、まずこのおもちゃみたいな装置を所有してもらわないといけない。だから、もう半分気づきかけている人を探すんだ。半分では気づきながら、もう半分で自分はまだ・・・・・・と言い聞かせて、日々を生きていた人。その半々という均衡が、限界を迎えつつある人」

 ああ、確かに、よくある不幸の形だった。自分は特別だと思っていても、不幸の形はあっけないほど典型的だった。でも、自分が宇宙の中心なんだから、そんなありきたりな不幸でも、一番つらいのは自分なんだ。だから、目の前の怪しい人物を「あっちに行け!」と追い払う気力なんてとても湧かなかった。

「私の場合は、まぁよくある不幸の形さ。会社を辞めざるを得なくなって、離婚した。子供とはもうずっと会ってないし、今何をしているかもわからない。離婚してすぐに養育費が払えなくなってね、もう関わらないでくれって。そんな時だったんだな、この装置を受け取ったのは」

「なるほど、それで人生をやり直したってわけですね」

「いや、すぐには使わなかったんだ」

「え?」

「使ったのは最近、それも一回だけさ」

「はあ、しかしなぜですか?やろうと思えばいくらでも、それこそ子供の時まで戻れるわけですよね?やはり、宇宙を消滅させることへの罪悪感ですか?」

「ハハハ、しかし宇宙ごとみんな消えてしまうのだから、どうしようもない。でもまぁ、罪悪感というより単なる自分勝手だけど、他の誰かがこいつを押してくれれば、宇宙のついでに私も消してもらえるわけで、そういう願いが全く無いと言えば嘘になるかな」

「消えてしまいたいなら、そんな人生をやり直したいとは思わなかったんですか?」

「もちろん思ったよ」

「それじゃますますわからないですね」

「そうだね、“わからない”うちはわからない。それでいいんだ。つまり、気力なんだよ。やり直したいと思うことは簡単だけど、そのためにはやり直そうとして、実際にやり直さなければならない、当たり前だけどね。たとえば競馬か何かでカネを儲けて破綻した家庭を元に戻したとしても、結局そこからやり直さなくちゃいけない。一度ダメになったことを、もう一回、真剣に・・・・・・そう考えると中々決心がつかなくてね、まぁ装置が本物ならいくらでも戻れるんだからって、そのまま机にずっとしまっておいたんだ。それを思い出したのもわりと最近でね、それからはこう、取り出しては、酒を飲みながら何となくボンヤリ眺めていた」

 今は不幸が続いたショックで気力がなくなっているだけで、いつかきっと。そんな風に考える年齢と状況にある人を選ぶんだ。そうしていけば、この装置は宇宙から宇宙へと、いつまでも漂い続けるだろう。こうやってバトンを渡して、頑張れよ、頼んだよ、と。そういう時になってようやく純粋に笑顔になれる、それが自分の人生だった。

「私がこれを押した時は、電話の音で目を覚ましてね、二日酔いでとても気持ちが悪くて、どうせつまらない営業だと思ったら、もう全てが嫌になってしまったんだ。出しっぱなしにしてあったこれが目に入って、叫んで、次の瞬間には気分がよくなっていた。日にちを確認すると本当に1日戻っていてね、驚いたなぁ」

「だったらどうして他人に渡すんですか?」

「うん、私がその日何をしたと思う?ハハハ、同じように酒を飲んだだけなんだな。宇宙と引き換えにした1日でやったことが、既にみた番組をまた漫然とみて、同じように、酒を飲むことだったんだ。嫌でも悟るしかなかった、これが私という人間の全てなんだってね。無理だろ?そう、はじめから、やり直すだけの気力があったら、きっと今頃・・・・・・。はぁ、同じように酒を飲んで、次の日は同じように二日酔いになったのに、電話が鳴らなかったんだ。だからそんなはずないとわかっていても、あれはもしかしたらと思ってしまう。今となっては確かめようもないけどね」

 底無しの情けなさと、ちょっとした後悔。まだ最後まで諦められないのに諦めることを強いられている人には、恨みや憎しみや歪んだ野心が残り、もう最後まで諦めた人には、振り絞ったような小さいやさしさが残る。

「装置を私に渡した人の“一応言っておくけど”という言葉の意味が、その時の表情の意味が、ようやく身に染みてわかったんだ。「一応言っておくけど、君にはまだ可能性があるんだからね」私も同じことを言ってこれを君に託したい。見知らぬ誰かを根拠もなく励まして、心の底から背中を押すことで、自分を受け入れるしかないんだ」

 机の奥で眠っていたこいつを取り出すと、スルスルと糸がほどけるように、一緒に記憶も蘇ってきた。それからは、取り出すたびに、懐かしい思い出のように、かみしめる。今日もこうして、何となく眺めながら、いつものように・・・・・・。


プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

twitter
最新記事
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる