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自己紹介

 はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


 現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

 しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

 機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

 このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


 賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

 さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

 要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

 人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


 現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

 他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


このようなシャカイのおはなし。

おはなし


どうしようもない人生のおはなし。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


 あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

 最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?

瞑想について

 ブログの更新を週一でやってきたわけだが、これからは不定期にしようと思います。というお知らせをするのに、なんでこんなタイトルなのかというと、多分これは瞑想の“成果”というか、結果だからである。

 最近では?、ブログでずっと同じようなことを言っている。それはもちろん“本気”なわけだが、もうその“本気”が枯渇していて、この一年くらいは“本気”を絞り出して書いていた。書くことだけではなく、何かをやる原動力になるのは、それ自体が楽しいってのが一番いいのだろう。しかし私の場合、書くこと自体を楽しむという境地に達することはできず、『自己紹介』に「不条理の言語化」と書いてあるように、基本的には不満の感情を言葉にして供養?することであった。

 要するに、週に一回2000字になる程度の不満の感情が生じなくなってしまっている。もちろんクソったれな不満はたくさんあるが、不満“の感情”は絞り出さないといけないぐらい、なくなってしまった。体の不具合、病気、衰え、ただただうんざりするが、逆に言えばただただうんざりするだけで、「治ってほしい!」「若い頃に戻りたい!」とならない。技術の進歩のおかげで苦労が減らせるのに“働かないと食ってけないシステム・現状”にしがみついてカネとコメと道徳の区別もできないキチガイには不満しかないが、こいつら家畜・原始人の類に期待するだけ無駄なので、「わかってくれよ!」みたいな不満“の感情”は生じない。

 不満はたくさんあるが、不満“の感情”は(そんなに)無い。幸せとは思わないが、不幸だとも思わないので、「幸せになりたい!」と思わない。基本的に、「はぁ~~~~~~、やってらんねぇ」「あ~あ、まぁ、仕方ないか」みたいな感情しかない。不満の感情を供養するのは楽しかったが、2000字にして供養するほどの感情はもう週一では生じない。あ~あ、まぁ、仕方ないか。何か発生したら書くということで。

 さて、瞑想といえば悟りとか真理なわけだが、私の瞑想はそういうのじゃないので、真理にたどりついて悟りを開きたい方はヒマラヤにでも行ってもらって。創造性を身に付けるとか、社会で成功したいとか、そういう方は自己啓発セミナーでスーパーキチガイになってもらって。

 私は10年くらい呼吸に集中する瞑想を寝る前にやってきた。最初は10分くらいから始めて、結局1時間弱やるようになった。この一年はストレッチに時間を使って瞑想は諦めていたが、最近寝る前のストレッチを大幅に削ったので、また再開した。要するに私の瞑想はそんな感じだ。

 瞑想の目的といえば、悟りとか真理とか、リラックスとか創造性とか、生きる意味とか、そういう“前のめり”なものばかりが巷に溢れている。欧米的な姿勢に汚染された、いかにも現代社会という風潮である。しかし、瞑想の目的をあえて挙げるとすれば、そういう“前のめり”をやめることなのである。何かに“なる”とか、そんな必要はない。ただやめるだけ。

 集中する対象は何でもいいが、呼吸が一番シンプルで楽だろう。楽といっても簡単ということではない。やってみればすぐにわかるが、集中なんてできませんよ。一呼吸集中するの、無理です。私は今でもできないし、10年やってできたことがありません。でも一回一回ちゃんとやるよう心がけましょう。

 10年やって基本ができない奴が偉そうに!と思うだろうが、むしろこれでいいのである(多分)。なんで集中できないかというと、途中で雑念が生じるからだが、瞑想ってのは要するにそれを“見る”練習だからである。「ちくしょう!また雑念が生じた!集中しないとダメだ!」と言って雑念を抑え込みたかったらそうすればいいが、ストレスになるからあまりお勧めはしない。仕方ないので、そんな苛立ちも含めて、ただ“見る”だけでいい。

 “見る”だけって、その先に何があるんだ!?はい、“見る”ことがうまくなり、いつでも息をするように自分を“見る”ことができるようになります。だから、その先に何があるんだ!?悟り、真理、自由、幸福、一体何が手に入るんだ!?はい、自分を“見る”ことができるようになるだけなので、そういった“前のめり”なものはそもそも方向性が違います。じゃあ一体何のために瞑想なんて続けるんだよ!?そんなの、やってらんないじゃないか!

 そう、「やってらんない」のである。ただし瞑想ではなく、ゲンジツシャカイの人生が。「はぁ~、やってらんねぇ」これこそが瞑想の動機であり、同時に瞑想の目的である。「はぁ~、やってらんねぇ」なぜか?なぜそんなにうんざりしているのか?“同じ”ことの繰り返しだからである。学校、会社、家庭、“同じ”ことの繰り返し。人間関係、恋愛、繁殖、“同じ”ことの繰り返し。成功失敗、満足不満、承認嫉妬、“同じ”ことの繰り返し。「はぁ~、やってらんねぇ」心底そう思った時、縋るように始め、続けるのが、瞑想である。

 自分を“見る”と言うと、ちょっとかっこいいが、そこにはかっこいいものは何も無い。ただただ“同じ”繰り返しである。“同じ”欲望、“同じ”プライド、“同じ”道徳、“同じ”価値観、“同じ”思考のクセ、“同じ”不満・・・・・・自分の頭の中で“同じ”ものがその日の出来事や過去の記憶と合わさって、“同じ”(ような)イメージ・コトバが発生し、“同じ”ように煩わされる。日々の瞑想を通して自分の頭の中の“同じ”繰り返しを散々見て、「はぁ~、マジでやってらんねぇ」心底そう納得した時、“やめる・捨てる”選択が可能になる。今までずっと没入し、人生を費やしてきたのだから、苦しみの原因といえども“やめる・捨てる”のは恐い。が、それ以上に「はぁ~、やってらんねぇ」場合、そこで終わり。その先には特に何も無い。幸福やら(多くのヒトが思い描くような)自由やらは無い。

 自分が“やめる・捨てる”選択をしたものは、今ではもう忘れてしまった。迷って結局選択していないものもある。ただ“選択”をしてみてつくづく思うのは、普通の人間にはせいぜい“やめる・捨てる”ことが可能な程度の自由があるだけで、“前のめり”な自由なんて無いということである。あ~あ、まぁ、仕方ないか。不満“の感情”が湧いてこない。書く動力がなくなってしまったなら、それを生み出すことはできない。読んでくださったみなさん、今まで本当にありがとうございました。

 ちなみに、瞑想は見方を変えれば?「はぁ~、やってらんねぇ」を高める作業なので、ゲンジツ適応的にはプラスに作用することはまずありません。気をつけてやってください。リラックス効果?的なのも一応あるかもしれませんが、シャカイ適応に役立つようなものではないので、だったら素直に職場で物理的に暴れたり、相手の股間を蹴っ飛ばしたりする方が確実です。私はリラックス?し過ぎてシャカイ復帰の動力が完全に枯渇しているので、仕方ありません。逆に「労働?ハハッ、誰がやるかよそんなもん、バーカ」みたいになってもいいなら、どんどん瞑想しましょう。


今のこの苦しみって一体何のためのものなの?

「中卒や高卒でもちゃんと就職できて食っていける社会がまともな社会」「昔は無能な人間でも真面目に働けば食っていけるだけの仕事があったのに」「働かなくてよくなったら、やることがなくなってしまう」「働かなくてよくなったら、新興宗教やスピリチュアルにハマる人が出てくる」・・・・・・こういうセンチメンタルな被害者意識が現代社会には溢れている。大半のヒトが、現実の制約や必要にかかわらず働いて賃金を稼がないといけない設定を何とも思わず、盲目的に没入・肯定を繰り返している。

 大半のヒトは懲りずに賃上げ・雇用創出を主張し、マスコミ・官僚・政治家はその世界観を共有・再生産する。研究者や弁護士やNPO活動家などの貧困ビジネスマンたちは、自分たちが一枚噛んだ会社・資本家との“闘いの成果”を引き合いに出し、労働者の権利主張やら団結やら人権やらの大切さを謳う。時給アップとか、着替える時間も労働時間に含まれるとか、未払い賃金がどうとか、“頭は悪いが純粋で善導されるべき素朴な労働者”たちはカスみたいな“成果”に喜び、エリート労働者のインテリはそんな弱者を法律や“知”の力で救って啓蒙すべく次の現場に向かう。お前ら、こんな繰り返しの先に希望があると本気で思ってるの?

 確かにヒトの脳にはタダ乗りを防止する機能が備わっているので、働いていない人には腹が立つし、みんな働いている中で自分だけ働かないような状況に罪悪感を抱く。しかし、じゃあ一体いつまでこの道徳感情の言いなりになり続ければいいのだろうか?技術が進歩すれば仕事を減らして楽できるようになるし、既に仕事自体はほとんどなくなっている。そんな千載一遇の好条件を無視して、“必要”をでっち上げて有害無益なシゴトを創出し、有限の資源を浪費する。ただの悪行をブルーオーシャンだのビジネスセンスだのと称賛する。完全に頭おかしい。

「〇〇の雇用を守れ!」「仕事がないと、必要とされないと、人はダメになってしまう!」新しい技術なんかが話題になるたび、そんなセンチメンタルなお気持ちを繰り返し、運よく保護される者と保護されない者が出てくる。みんなのお気持ちをうまいこと動員できた業界は守られ、動員できなかった人たちは放り出される。で、善良な市民のみなさんはどうしようもないクズなので、こんなバカな“選別”に加担しても何とも思わない。そもそも何かを思える程度の自我さえ無く、ただココロのハタラキに従って盲目的に同調してるだけの肉塊でしかないのだろう。だから、いつまでも、繰り返す。この先に一体何があるのだろうか?

 最近では反AIなんかがそうだが、文明に向いてないなら潔く文明社会から出ていけばいい。こいつら、“足を引っ張ってる”とかいうレベルじゃないからな。未来も可能性も打ち壊しにしているわけで、人類や進歩の視点からはただの犯罪者でしかない。文明社会の中でわざわざ反文明をやるな、さっさとどっか行ってそこで好きに原始人でもやっとけ。

 なんでこんな奴らに合わせてジリ貧の未来に耐えなきゃならんのだ。なんでこんな奴らの“幸せ(自我が無いのでアタマの中でコロコロ変わる)”の実現を目指さにゃならんのだ。ヒトの本性だから仕方ない、のはいいとして、だったらそれ一つ意識的に克服する意欲を持てないクズ原始人は相応の責任を感じてほしい。加害者である自分たちを被害者みたいに言わないでほしい。働いて納税して社会に貢献しているとか寝ぼけないでほしい。お前らは未来を打ち壊しにしている戦犯であると自覚し、恥の意識を持って日々のおシゴトや主張に励め。道徳や世間に引きこもって“善人”に安住してないでその程度の責任を感じられる程度の自我ぐらい持てよ。


今のつまらない生活がこのつまらない世界における最善手なつまらない人生

 RTA in Japan Summer 2023を見ていたら、東方風神録をみつけて、不意に大学生の頃を思い出した。東方シリーズを実際にプレイしたことはないが、音楽が好きでよく聞いていたのだ。それで急に懐かしくなって、プレイ動画を見たり、好きだった曲を聞いたりしているうちに、人生がしみじみつまらなくなって泣いてしまった。

 別にあの頃に戻りたいとは思わないが、大学生の時の精神状態や環境を思い出すと、やはりため息をつきたくなる。思いついたらすぐにできる。面白いと思ったらすぐにできる。一人でゲームをするのも、みんなでどこかに遊びに行くのも。ゲーム、音楽、マンガ、映画、そういうコンテンツの情報を漁り、いつも“何か”を探していた。寝る前はガラケーでニコニコ動画の実況プレイを20分くらい見て、そのまま寝落ちする。そんな生活。

 オトナは労働、子供は宿題と受験。設定と現実の区別ができない、道徳と現実の区別ができない、どうしようもないキチガイがこのシャカイを回していた。「人は仕事がないと、誰かに(労働者として)必要とされないと、生きてけねんだよ!」今日も自分勝手な被害者意識に塗れたセンチメンタルな文章を、マスコミもインターネットも垂れ流し、くだらない賛同を集めている。誰も現実を生きていない、仕事とは何か?なんて考えない。惰性、周りの目、同調、道徳、ヒトのアタマに備わった原始的で素朴なタダ乗り防止機能がつくるお気持ちにみんなで流され没入し、目的化したママゴト労働と、そのための教育に日々を費やし、繰り返し、結果、ジリ貧。

 今だってその気になればいくらでもゲームはできるが、もうそんな気にはなれない。積極的に色々な曲を聞きにいくこともできるが、もうそんな気にはなれない。つまらないなぁと思う。私の世界にはもう実質的に人間がいない。読書をして、文章を書いて、たまにラーメンを食べに行く生活。体重が厳しくなったので、ちょうど一年前から筋トレとダイエットを始めた。体重はすぐに戻ったので、ダイエットはやめ、筋トレが残った。せっかく続けるならということで、解剖学とか生理学とか栄養学を学んだ(学んでいる)。より理解するため、高校の化学からやった(やっている)。水酸化ナトリウム水溶液って何?みたいな状態だったので大変だった(大変だ)。

 東方の弾幕には一つ一つ題名があって、壮大で綺麗な音楽に乗せて炸裂する様子はまるで花火のようだ。見終わった後の、現実との落差。人混み、アルコールの臭い、ゴミ箱からあふれ出す濃い色のタレ、散乱した食べ残し、空き缶、浴衣姿の女性たち、途中で飽きる花火、スピーカーから響く流行歌・・・・・・あ~~~あ。『刻刻』というアニメでは、最後に時間が停止した世界に主人公が一人で残るのだけど、自分がそういう状況になったら、多分今のつまらない生活とほとんど変わらないつまらない生活を続けるのだろう。


存在して生きることの滑稽さ

 体の不調、痛み、異変、違和感。10代20代の若者なら、大体は休んで寝てれば治ってしまうし、多少の痛みや違和感なら、トレーニングしながらでも治ってしまう。しかし30歳を過ぎてくると、休んでも寝ても簡単には治らなくなるし、若い頃と同じ調子で放置していたら実はけっこう深刻な話だった、なんてことも起こるし、このぐらいトレーニングしながらでもなんて考えたら、悪化する一方になる。

 筋肉のない細い腕。水分が失われていく肌。弱々しい関節。骨の変形。動きが悪くなって聞こえる音。出所のよくわからない痛み、痺れ。休んでも休んでも、一向によくなる気配のない不具合。念のために病院に行けば、「問題ないですね!2、3日安静にしていれば大丈夫です!」ぐらいで済んでいた若い頃に対し、年を取るとちゃんとした検査や治療が必要になる。

 病院の最寄り駅から、うんざりするような日差しの中をノロノロと歩いていく。わけのわからない検査、検査、検査。五千円、五千円、五千円、クソみたいな出費。積み上がっていく一方の不具合が思考を蝕み、心底惨めな気分になる。健康そうな若者が羨ましいとか、しっかりと体を鍛えておけばよかったと後悔するとか、そういう感情ではない。存在する、生きるということ自体が、滑稽なほど惨めという事実を、逃れられないように突きつけられて「はぁ~」とため息をつくしかない。

 今目の前にある痛みや不具合が解消されたとしたら、きっと「わぁ!」と喜びに満たされ、一気に視界が開けた“ような気分になる”のだろう。しかし、そんなプラスの感情とは無関係に、“原因”は次の瞬間からも確実に、淡々と、積み上がり続ける。アタマの中の不安が吹き飛んだところで、現実には何の関係もないのである。

「苦しくても生きていれば必ずいいことがある」「人生はプラスとマイナスがちゃんと釣り合うようにできている」存在する、生きるということ自体が、滑稽なほど惨めだから、こういうインチキな思考が必要になる。こういうインチキな思考に没入するから、どんどん滑稽に惨めになる。そりゃいいことはあるだろうが、プラスとマイナスが釣り合うことは絶対に無い。なぜならそもそも“対応”していないからである。

 今目の前にある問題が解消され、アタマの中の不安が吹き飛んでも、現実の“原因”とは何の関係もない。努力して“幸せ”を手に入れても、承認や愛情を受ける喜びに満たされても、それと対応するアタマの中の・ニンゲン関係由来の欲望が一時的に満たされたというだけで、現実とは何の関係もない。存在する、生きるということは、年老いて衰え、病気になり、苦痛に耐えながら死んでいく、ということである。「プラスとマイナスが釣り合う」とか言ってアタマの中で帳尻を合わせたところで、「プラスはプラス、マイナスはマイナス」と切り分けたところで、存在する、生きる、という現実は丸ごと残る。

「人生は思い通りにいかないからこそ面白い!」などと言うが、病気になるから面白いのだろうか?障害を抱えるから面白いのだろうか?衰えて死んでいくから面白いのだろうか?大方ニンゲン関係とか学校・会社・労働の努力とかが念頭にあるのだろうが、実際の所、そんなもんどうでもいいのである。どこまでもアタマの中のお話でしかない。アタマの世界に没入し、アタマの中でアタマを使って滑稽な帳尻合わせを繰り返し、死んで終わるまで凌いでいく、ここに一体何の意味があるのだろうか?

 現実と比べ、アタマの中の・ニンゲン関係の浮き沈みや変化は激しいから、ついそちらに気を取られがちだが、そこでの勘定がどうなろうが、現実は確実に、淡々と進んでいく。「幸せになりたい」とか「幸せになるために生まれてくる」とか、最初の一歩から根本的にズレている。“幸せ”になっても、イイ感じに思考が蝕まれるというだけで、死に向かうジリ貧人生とは何の関係もない。どれだけ理屈をこねくり回して正当化しても、物語で飾っても、アタマの中の勘定で帳尻を合わせても、コトバと意味の世界で“幸せ・不幸せ”を反復しても、一瞬一瞬やせ細って衰えていく存在のあり方とは何の関係もない、悪臭を放つ生き物のあり方とは何の関係もない。世迷い言を並べてアハハと笑う、滑稽なほど惨めな生があるだけ。


プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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