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自己紹介

はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


言葉より思考を重視して書きます。

おはなし


思考より言葉を重視して書きます。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?
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恋愛や就職のような競争がとことんムリ

 以前、ザ・ノンフィクションという番組で、「婚活クルーズ」なるものをみた。その名の通り、豪華客船で数日旅行しながら、婚活に励むのである。確か男女共に20人くらい参加していて、代金は全て男持ち(20万円とか)、したがって?女性は面接で選別された人たち。つまり本気の婚活である。道中で主催者が用意したゲームやパーティーに興じながら、目当ての相手と仲を深めていく。

 なんで婚活クルーズの話を出したか。そこに私が最も苦手とする構図があったからである。食事の際にイイ席をとろうとしたり、「タカシ」「ミィちゃん」的なニックネームで呼びあったり、「あぁこれムリだなぁ」と思う所はいくつもあったが、一番つらくなったのはやはり婚活のクライマックス?、告白である。男と女が昔の合戦みたいに横並びで相対し、年取った藤森慎吾みたいな司会者が、年取った藤森慎吾みたいなノリで「じゃぁ~、まずタカシ、いってみようか」と指名する。男は一歩前へ。緊張しているのだろう、いかにも真剣ですというわざとらしい表情。「ミィちゃんで!」男に指名された女も一歩前へ、男と向かい合う。そして男は愛の言葉を伝える。ここまでは多分よくある流れ?なのだろうが、婚活クルーズには「ちょっと待った」という制度がある。意中の相手が被っていた場合、「ちょっと待った!」と言って前に出て、まあ要するに「自分と一緒になる方が幸せになれますよ!」的な雰囲気のメッセージを送る。

 私は昔からそうなのだが、ある種の競争が非常に好きである一方、ある種の競争がとことん嫌いである。中高生時代はゲーセンのオンライン対戦ゲームにどっぷりはまったし、大学生の時はポケモンのオンライン対戦に夢中になった。これらがまさに好きな競争である。つまり白黒がはっきりする、勝った/負けた要因がきちんと分析できる、自分の努力“だけ”が大切(ゲーム外で他人を動かす必要がない)、ゲーム内のことだけ考えていればいい(相手の“ゲーム上の”動きや癖や性格だけ考えればよく、他の情報はどうでもいい)、ゲームの中で完結する(その時勝った/負けた、その時の戦略・判断・運がよかった/悪かった、その時強かった/弱かったが全て)などなど。この辺からも何となくわかると思うが、嫌いな競争は恋愛や就職やポスト争いである。ちなみに私の「嫌い」は「どう頑張っても身体が動かない」とかそういうレベルである。

 話は「ちょっと待った」に戻り、私がギャーッとなったのはこの構図なのである。もし仮に私と相手とライバルの3人がいて、ライバルが隣で「自分と一緒になる方が幸せになれますよ!」「絶対幸せにします!」などと言ったら、私は即座に降りる。「それならあなたと一緒になる方がいいですね」と言って降りる。嫌味でも皮肉でも戦術でもなく、純粋に降りる。相手が私の方を好きだと知っていても降りる。そのぐらいムリ。理由はわからないが本当に嫌い、こういう奪い合い競争の構図がとことんムリ。就職面接の隣で「自分の方がこの仕事に向いてます!」「自分の方が成果出せます!」と言われたら、やはり「それならあなたがやる方がいいですね」と言って降りる。これはあくまでも理念型だが、しかし嫌いな競争はえてしてこれと似たような構図になる。そしてそのたび「ああ、もういいです。私やめます、降ります」と言って逃げてきた。やめます降ります譲ります。

 現代シャカイはジブンに執着させる。「私は降ります。本人が言うのだから、きっとこの人の方が向いています」なんてやっていては、安定した生活どころか生存もままならない。受験(はゲーム的要素もあったからギリギリ完走できたが)も就職も恋愛・結婚もポストも、“ジブンのシアワセ”のための奪い合いである。ジブンジブンと他人を蹴落とし、枠内・中心を確保してしがみつき、相手・地位を占有する。誰かがイスに座れば、他の誰かはそのイスに座れない。だから仕事も研究も能力と意志があって向いている人にやってもらうのが一番いいはずなのに、ジブンジブンとアピールして、嘘や汚い手を使ってまでイスに座ろうとする。オンライン対戦ゲームなら勝率や各種ランキングで一目瞭然だし、ポケモンバトルなら「じゃあとりあえず2戦先取で」「挑戦、いつでもお待ちしてます」で済む話である。選んだり選ばれたりするためにごちゃごちゃやらなくていい。

 現代シャカイに精神的に適応している方は、私をただの甘ったれとしか思えないだろう。しかし、私は半ば確信している。私のようなタイプの人間は、多数派ではないかもしれないが、おそらく今でさえかなりの割合で存在しているはずである。システムがつくる“食っていけない/幸せになれない”という“現実”のせいで、仕方なく我慢しているだけで、ああいった競争をするたび罪悪感や苦痛に苛まれている人がいるはずである。ジブンジブンに疲れ切っている人がいるはずである。

「甘えるな!これが人間の本質だ!そうやって競争して人類は進歩してきたんだ!」個体同士のタタカイという世界観を内面化した方はそう言う。しかし、雇用もカネも(現代の)恋愛・結婚も、わざわざ奪い合い・占有競争の構造をつくりだし、ヒトの“負”を刺激し、嘘偽りやデタラメや自己正当化や執着心や独占欲を引き出しているのではないか。たとえば自分(たち)が恵まれたイスに座り、他人をピラミッドの下に蹴落とすことを相手の属性で正当化する、逆にジブンジブンで向いてないイスに執着し、座れないことを“差別”と訴える。ジブンジブンの闘争を強いるシステム、闘争への闘争を推進する絶対的根拠としての人権。奪い合いも占有も、幸せになる権利だの夢だの自己実現だのと言えば聞こえがいい。我々はマッチポンプ的な、野蛮化のサイクルに前のめりにさせられているのではないか。なんて考えは妄言扱い、あるいは「全体のために個人を犠牲にするつもりか!」などと一喝されるのがオチ。というぐらい、このシステム-世界観-思想は現代人に浸透している。


死んだ人間が羨ましい

死んだ人間が羨ましい
ああ、うらやましい、うらやましい
身もだえしてしまうぐらいうらやましい
誰それが結婚した
子供ができて幸せ
夢を叶えた
年収1000万円
そんな話はちっとも羨ましくないのに
死んだ人間の話はどれも心底羨ましい

交通事故で死んだ人間のニュースが羨ましい
「きっと痛かったでしょうね!」なんて
それでも最後は死んだんだから羨ましい

溺れて死んだ人間のニュースが羨ましい
「きっと苦しかったでしょうね!」なんて
それでも最後は死んだんだから羨ましい

死んだらもういいんだ
あいつのこと考えなくていいし
あんなこと言われなくていいし
こんな自分を悲しまなくていいし
そんな眼を向けられなくていいし
将来のこと悩まなくていいし
カネの心配しなくていいし
空気読まなくていいし
疲れた体をむりやり動かさなくていいし
無意識に肩に力が入ってなくていいし
緊張してなくていいし
沈んだ気持ちで義務のように食べなくていいし
しんどいと思いながらマナーのように入浴しなくていいし
うまく寝られないことにイライラしなくていいし
死んだ人間が羨ましい

“未来”があるのに死んだ人間が羨ましい
「きっと幸せな未来があったのに!」なんて
それでも最後は死んだんだから羨ましい

死んだら“未来”なんてどうでもいいんだ
“未来”なんてあってよかったこと一度もない
アレヤレコレヤレ、アレナレコレナレ
“未来”なんていつも重圧だ、あればあるほど重くなるんだ、潰されてしまうんだ
そして、「弱い」と責められるんだ

大切な誰かを残して死んだ人間が羨ましい
「きっと無念だったでしょうね!」なんて
それでも最後は死んだんだから羨ましい
無念を感じなくていいんだから羨ましい

お前は言うか?「フキンシンだ!」と
今、痛くて泣いている人もいるのに
溺れたように苦しんでいる人もいるのに
“未来”に絶望している人もいるのに
無念で無念で発狂してしまいそうな人もいるのに
死んだ人間にばかり同情するお前は言うか?
死んだ人間にしか同情できないお前は言うか?
「死にたければ勝手に死ね」と言うお前は言うか?
「苦しいのは努力が足りなかったから」と言うお前は言うか?
「みんな我慢してるんだ」と言うお前は言うか?
「自分の力で頑張るしかない」と言うお前は言うか?

ああ、うらやましい、うらやましい

死んだらもういいんだ
あいつの顔見なくていいし
誰にも顔見られなくていいし
傷つけられることないし
傷つけることないし
嘘つかれなくていいし
嘘つかなくていいし
見て見ぬフリされることないし
暴力に加担することないし
“責任”を背負わなくていいし
“責任”を背負わせなくていいし
奪われなくていいし
奪わなくていいし
必死になって、自分を守らなくていいし
死んだ人間が羨ましい

“未来”は重いだけだった
“未来”がなくなって軽くなっても、その分今度は“現実”が重くなった
でも死んだらもういいんだ
部屋を牢獄のように感じなくていいし
ボーッと歩いている時に突然生じる「あ、逃げ場なんてない・・・・・・」
という思念に苛まれなくていいし
自分に価値があるとか無いとか気にしなくていいし
エコノミックアニマルみたいに損得計算しなくていいし
ケーザイにコーケンしてるなんてシュチョーしなくていいし
ジソンシンに縋らなくていいし
“当たり前の日常”のイス取りゲームしなくていいし
誰かを踏みつけてイキガイを感じなくていいし
知らない誰かを犠牲にしたシアワセを貪らなくていいし
ジブンのチカラで頑張ったクソヤローの養分にならなくていいし
そんなシャカイを結論ありきのリクツで納得しなくていいし
そんなジンセーをきれいなコトバで納得させなくていいし
そんな世界観に参加させられなくていいし
死んだ人間が羨ましい

死ぬのがこわいというだけで
別に生きたいわけじゃない
死ぬのがこわいから死ねなくて
結果的に生きている
死ぬのがこわいから、生きていくんだ
死ぬまでこうして凌いでいくんだ
死んだ人間を羨みながら
生きていくんだ


8月32日

 8月31日の夜、ぼくは布団の中で泣いていた。9月1日が日曜日であることは何の慰めにもならないどころか、むしろカレンダーの嫌がらせのように感じられた。8月31日で夏休みが終わってしまうと、いつも通りの日常が不気味な音を立てて動き出す。ぼくが望んだ日常ではない、ぼくが望む日常なんてどこにもない、もう大人なんだからそのぐらいわかっているんだ。

 今日、日常を人型の枠のように感じた。それは人間の形をしているけど、ぼくには合わない。一応年齢に応じた大きさにはなっているようだけど、ぼくには合わない。それでいつも怒られるんだ、「ワガママを言ってはいけません!みんな我慢しているんだから!それじゃやっていけませんよ!」って。“枠”は変わらない、ぼくらの義務は、その“枠”に適応していくこと。つまり自分を変えて“成長”していくこと。多少きつくても、体を無理やりにでもねじ込んで、多少緩くても、一生懸命背伸びして、“枠”を身に付けて生活できるようになること。

 もっとも、“枠”はあくまでも比喩だから、目に見えるはずないのだけど、この8月31日という日の夜になると、もしかすると見えてしまうんじゃないか?と思うぐらい、“枠”を感じるのだった。だって、昨日までと身体の感覚が全然違う。どこかぎこちなく、ギシギシ軋むような。お腹の辺りが強く締め付けられるような。そんな感じがして、耐えることができないのであった。

「去年だって耐えることができたのだから、今年も頑張れる」なんて簡単に言わないでほしい。耐えがたい無理をしていることが、外からはわからない。大切な何かを守るために別の大切な何かを犠牲にしていることが、外からはわからない。常にそういう閉塞的な選択に迫られていることが、外からはわからない。いや、きっとわかりたくないのだろう。わかったところで、どうにもできないのだから。だったらいっそ“枠”だけを見ていればいい、見ていることも忘れるぐらい見ていればいい。つまりこれが“枠”に合わせるということなんだ、全てを諦めることもなく捨ててしまって、話が通じない絶望も言葉にできない苛立ちもいい思い出ということにして。

 夏休みが終わったら次の夏休みを待つ、こうやって“枠”はどこまでも続く。“枠”の内にはまた“枠”があって、“枠”の外にもまた“枠”がある。自分、頭の中、関係、ふるまい、やるべきこと、生活、時間、空間、未来・・・・・・。「頑張っていればきっと楽しいことがあるから」、そうだね、頑張ってうまく“合える”ようになっていけば、楽しくなるし、うれしくなるし、喜びもたくさんある、それは本当のことなのだろう。迷惑そうな困惑したような顔、ほらまさに今だ、今のその瞬間だ、そこで自分に何が起こったかをよく見てよ、お願い!お願い!なんて言ってもぼくが余計に空回るばかりで無駄だった。その葛藤のない断定の一つ一つを思い出しながら、ぼくは8月32日にいくことに決めた。

 なんでもっと早くそうしなかったのだろう、それはずっとすぐそこにあったのに。「8月32日に逃げたって、何も変わらない」9月1日の住人はそう言うだろう。そうさ、8月32日の日常にだって枠があるのだから。「それみたことか!結局逃げ場なんてないんだ、9月1日に立ち向かうしかないんだ」そうさ、“枠”から“逃げる”なんて勘違いしているんだから、わかりっこないよ。ぼくたちには枠が必要なんだ、だからこそあまりにも致命的なのさ、この2つの区別ができなくなってしまったことは。“枠”は絶対の神を騙ったニンゲンで、枠はぼくたち人間だよ。9月1日にぼくはいなかった、こんなに簡単な話だった。


「人生は苦しい」からの「それでも」なんてない

 高層ビルの屋上。鉄網の前に立つ青年は思いつめた表情で伏し目がちに虚空をみつめている。少し離れた所に、いつからそうしていたのか、どこかの赤の他人が鉄柱部分に肩で寄りかかりながら、青年をジーっと見ていた。

「あの、申し訳ないのですが、そこで見ていられると気が散って一歩踏み出せないので、少しの間席を外していただけませんか」

「うん、なるほど、邪魔をしたならそりゃ悪いことをしたね」

「止めないのですか?」

「止めるって何を?」

「私が今から何をしようとしているか、見ていてわかりませんか?」

「そりゃ、ここから飛び降りようっていうんだろ?見ればわかるさ」

「なら説教の一つでもしたらどうなんです。ジッと見たりなんかして、要するに非難しているわけでしょう」

「そんなことしないよ、バカバカしい」

「それもそれで倫理的にどうなんですかね」

「倫理?ハハハ、君は正気?自殺はイケマセンってか。倫理道徳義務常識!君はなぜ飛び降りようと思った?え?」

「生きるのが苦しいから・・・・・・」

「なんで生きるのが苦しいんだい?君を苦しめているものの正体はなんだい?」

「これから飛び降りる人間を問い詰めないでくださいよ!」

「最後ぐらいやさしくして!って?」

「そんなこと言ってない!」

「自殺しようとした人を助けたら、その責任を取って助けた相手の面倒を一生見ないといけない、なんて決まりの社会がどこかにあったそうだ」

「はあ、それはとんでもない決まりですね」

「うん、とんでもない決まりだ。しかし、では君はとんでもなくない決まりに従っているのかい?」

「私が、従っている?」

「君が使った“倫理”という言葉がまさにその証拠じゃないか。自覚がなかった?だから聞いたんだよ、なんで生きるのが苦しいのかってね」

「今更そんなこと考えたってどうしようもないじゃないか!苦しいものは苦しい、苦しい人生がずっと続く、飛び降りるのにこれ以上の理由が必要ですか?」

「確かに飛び降りた先にある結果は同じだよ。でも君は嫌気がさしていたのだろう?大人たちの戯言に。生きるのは苦しいものだ、みんな同じように苦しんでいるんだ、それでも頑張って生きているんだ、だからそれでも頑張って生きなきゃいけないな、なんて、笑わせるなよ。“生きるのは苦しい”んだろ?これ以上深刻なことがあるかい?冗談じゃないよ、“それでも”で済まされてたまるかよ、なあ?本当に、真剣にそう思っているのかよ、クソ畜生共が。まぁつまりそういうことだよ、飛び降りるにしても、狂ったままおとなしく殺されていいのかと、矜持の問題さ」

「私も“それでも”なんてとても思えなかった。でも、“じゃあどうすればいいんだ!”とか“せっかくうまれてきたのだから”とか、連中のゲンジツシュギ的攻勢の前になす術もなく、こうして・・・・・・所詮私も同じだったということですね。“倫理”だなんて、自分をここまで追い込んだゲンジツの道徳に、そうと気づくこともなく従ってゲンジツ的言動をとってしまった。そして気づくこともなく、クソ畜生になり切れないだけのクソ畜生のまま・・・・・・」

「君も“既に決まっていること”になじみ切れず、向こう側にいけなかったんだろ。“それでも”、つまり道徳的結論が先立っているのだから、そりゃ腹が立つ。見ているのは君ではなく自分のアタマの中にある道徳なんだから、それで“向き合っている”なんて言われたんじゃたまらない。それで“相談して”だなんてぶん殴りたくなる。こっちはそういうゴッコ遊びに疲れ果ててこうしているわけでね」

「まさかあなたも・・・・・・ちくしょう!“それでも”じゃあないんだよ!みんながみんなそううまく諦められると思うなよ!ゲンジツに溶けることを、受け入れるなんてカッコつけて誤魔化すなよ!バカヤロー」

恋人ができれば変わる?
お勉強を頑張れば変わる?
お仕事に夢中になれば変わる?
愛や承認や充実で変わる?
幸せになれば変わる?
甘く見るなよ、高を括るなよ
そんなことで救われるなら
こっちだってとっくに頑張っているんだ
それで救われるなら救われていればいいさ
でも
ただただ苦しい
ただただ悲しい
ただただ悔しい
ただでさえどうにもならない気持ちに
“それでも”だなんて
つまらないカタチを与えて
つまらないコトバを与えて、済ました気になるなよ

 二人は両手で鉄網を掴んでガシャガシャやりながら、いつまでも泣き続けた。


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遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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