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自己紹介

 はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


 現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

 しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

 機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

 このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


 賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

 さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

 要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

 人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


 現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

 他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


このようなシャカイのおはなし。

おはなし


どうしようもない人生のおはなし。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


 あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

 最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?

話を聞いてほしい、話を聞いてほしいのではないけれど

「誰か、誰かぁ、オレの話を聞いてくれよぉ」

「あなたは話を聞いてもらうために努力しましたか?オレがオレがと言うばかりでは、誰もあなたの話なんて聞きませんよ」

「ちくしょう、オレの話を聞いてくれよぉ、でも話を聞いてほしいんじゃないんだよぉ」

「何わけのわからないことを。そんなだから、誰もあなたの話を聞かないのですよ」

「ちくしょう、そんな話じゃないんだよぉ。そんな話じゃ、そんな話じゃないんだよぉ」

「そうやって甘えてきたのが悪いんです」

「だから、そんな話じゃないんだよぉ。そんなんで済む話じゃないんだよぉ」

「はあ?済む話じゃない?あなたは自己評価が高すぎます、あなたにそんな値打ちないんですよ?」

「だから、だからそんな話じゃないんだよぉ」

「そんなに自慢話がしたいなら、おカネを払って聞いてもらいなさい」

「そんなことの先に何があるんだよぉ」

「そんなに話を聞いてほしいなら、おカネを払ってカウンセラーの所に行きなさい」

「そんなことの先に何があるんだよぉ」

「そんなに愛がほしいなら、努力してパートナーを探しなさい」

「ちくしょう、ちくしょう!そんなんで誤魔化したらダメだろうがよぉ」

「それじゃあずっと一人で孤独に生きていくしかありませんね」

「みんな誤魔化しちまうから、何したって結局一人ぼっちなんだよぉ」

「そうやって人のせいにして生きてきた結果が今なんですよ」

「もう死にたいよぉ」

「死ぬのだけは絶対ダメです」

「オレはどこに行けばいいんだよぉ、どこなら受け入れてくれるんだよぉ」

「社会にはあなたが活躍できる場所が必ずあります!人は成長できます!夢は叶います!」

「ちくしょう、どこかに行きたいんじゃないし、受け入れてほしいんじゃないのに、なんでこうなっちまうんだよぉ」

「あなたと同じでも頑張っている人はたくさんいますよ」

「字面の上で“同じ”でも何の意味があんだよぉ」

「確かに、あなたが努力や我慢できないのはあなた自身の問題です、自己責任ですね」

「努力や我慢の先に何があるんだよぉ。ちくしょう、コトバにするとダメになっちまう、オレの話を聞いてくれよぉ、でも話を聞いてほしいんじゃないんだよぉ。オレはどこに行けばいいんだよぉ、でもどこかに行きたいんじゃないんだよぉ。どこならオレを受け入れてくれるんだよぉ、でも受け入れてほしいんじゃないんだよぉ」

「なるほど、お薬での治療が必要ですね」

「誰か、誰かぁ、オレの話を聞いてくれよぉ」

「話ならソーシャルワーカーが傾聴してくれます」

「話を聞いてほしいんじゃないんだよぉ」

「自分の問題を解決するには、自分の心をきちんと言葉にして、自分としっかり向き合わないといけません。社会の中で義務と役割を果たし、アイデンティティを確立する必要があります。つらくても逃げてはいけないのです」

「逃げるって、どこに逃げる場所があるんだよぉ」

「そうやって社会のせいにしていてはいけません」

「一人ぼっち、どこまでも、どこまでも、一人ぼっち・・・・・・たとえば、ボケ老人の面倒と延命にカネや人生が消えていく、喚いたり暴れたりで心身も壊れて限界だ」

「いきなり何の話ですか?しかし、もちろん、それでも、当然!相手のせいにしては絶対いけません!」

「消えてほしいよぉ、いっそ殺して楽になりたいよぉ」

「そんなこと言っては絶対にいけません!なぜなら尊い命だからです!」

「オレの人生は尊くないのかよぉ」

「死んでしまったら取り返しがつかないんですよ!?」

「オレの人生は取り返しがつくのかよぉ」

「まぁ所詮、たとえばの話でしょう?まったく、育ててもらった親への感謝の気持ちがあったら、こんな話しませんよ」

「ちくしょう、こんな苦しみの先に何があるんだよぉ。みんなが“その気”になりゃ、一瞬で消えちまうような、でもみんなが“その気”にならなけりゃ、永遠に燻り続けるような、苦しみに耐えた先に何があるんだよぉ。どいつも、こいつも、“その気”になるより、自分以外の誰かが貧乏くじ引くのをアテにする方を選ぶような世界で、それが賢い生き方になるような世界で、一体何をどうすればいいんだよぉ」

「ハイハイ、他人や社会のせいにしていては何も変わりませんよ?今のあなたに必要なのは、治療、仕事、自立した生活です」

「そんなことの先に何があるんだよぉ」

「家族という人間の幸せがあります!だから諦めないで頑張りましょうね!」

「ちくしょう、誰か、誰かぁ、オレの話を聞いてくれよぉ、うっ、うっ・・・・・・」


幸せは能力、文明は教育

「幸せになりたい」とヒトは言う
だから幸せになれず繰り返す
何をどうすれば幸せになれるかわからないから
“幸せ”のイメージをヒトは追う
綺麗なイメージでつくった“幸せ”に囚われる
“幸せ”でない苦しみに追われる
アタマとコトバに支配される

働かないといけない
普通にならないといけない
自立しないといけない
有名にならないといけない
称賛されないといけない
何者かにならないといけない
システムの都合とヒトの脳の都合
連動、適応、自縄自縛の二分法
アタマとコトバに従って
抽象的に、論理的に、演繹的に、世間的に
雁字搦めの操り人形のように
不協和に軋む関節を動かさないといけない

男と女、こちらとあちら
脳が動員されていく
承認と否定、嘲笑と序列
誰からも必要とされない恐怖
アイデンティティ
自分中心の物語
困難と向き合い、困難を乗り越え、社会を支えていこう
システムがつくり出す不条理に
試練を見出す滑稽な錯誤
全てをニンゲンに還元する作法
権力と権利、性と正しさ
誰が誰を支配するか
自動的にそこに吸い込まれていく
ニンゲンシャカイゲーム
カネと権力のゼロサムゲーム
その中におけるカネ勘定に基づく怒り
その中における損得勘定に基づく怒り

自分のアタマのイメージ
アタマとコトバで思い描いた自由
安易に没入するお仲間を見て深める確信
システムの都合とヒトの脳の都合
それらに基づく被害者意識に基づく怒りに基づく主張
自分たちを見る能力がない
幸せになる能力がない
幸せにする能力がない
能力を身に付ける環境も意欲もない
「内面をみてほしい」
でも誰にも見る能力がない
満たされない欠乏、肥大する願望、足りない能力、そしてみんな自分の都合ばかり
ひたすら外へ、外へ
自分たちを見ないための後ろ向きな前向きさ
カタチに執着
オモテに執着
思ってもらうことに執着
一向に上達しない思考
見るのも嫌なくせに
「人生は素晴らしい」とヒトは言う
死を拒絶しながら生から解放される瞬間を待ち望むように
今日も“自由”と“平等”を謳う
“幸せ”を追いかける


結局どうしたいの?

「ちくしょう、長時間労働がつらい、搾取されたくない、普通に働いて普通に生活したい!」

「長時間労働がつらい、搾取されたくない、わかります。だから、とりあえず、そこから抜け出すと決めませんか?」

「投資か、副業か、起業か、転職か・・・」

「だから、とりあえず、そういう自分の視点を一度やめてください」

「法整備、賃上げ、優良な雇用の創出・・・」

「だから、とりあえず、雇用を最優先するのをやめてください」

「はあ、でも、雇用を優先しないと生活費がなくなって死んじゃうよ」

「だから、とりあえず、そういう今の設定を一度脇に置いて、社会の中における仕事“というもの”から出発してください」

「仕事は生活費を稼ぐために必要なことでしょう?」

「だから、とりあえず、そういう自分の視点を一度やめてください。仕事は、社会の必要を満たすこと、ですよね?」

「はあ、そりゃあね」

「社会の必要、それを満たすための技術や知識、利用できるインフラ、資源の制約、そこから人力の必要が決まってきますよね?カツカツの社会ならたくさんの人力が必要になるし、逆に生産力が充実した文明社会では、ね?」

「はあ、でも、そうは言っても働いて賃金を稼がないと食っていけませんからね」

「カネは紙切れ・データです。生産力に応じて、つまり人力の必要に応じて配ればいいだけです。というか、配らないといけません。人力の必要が大して無いのにカネを配らないから、みんな生活費を求めて雇用に群がる、足元を見られる、つらい長時間労働、搾取、そこに頭を下げてしがみつかないといけなくなる、ね?」

「いやいやいやいや、ちょっと待ってください。それはつまり、タダでカネを配る?いや、ちょっと待って、ちょっと待ってください。さすがにそれはまずいというか、そんな過激なやり方ではなく、もっと穏健なやり方があるでしょう」

「何がまずいんですか?」

「いや、つまり、週休3日とか、一日6時間労働とか、賃上げとか、ブラック企業の取り締まりの強化とか、その前にやるべきことがあるということです。そんな、タダでカネを配ってハイ終わり自己責任というのは、強欲な資本家を利するだけでしょう」

「はあ、タダでカネを配るのは終わりどころか始まりでしかありませんよ?」

「でも、社会に必要な仕事を低賃金で担っている方々の待遇をよくする方が先でしょう」

「タダでカネを配った結果みんな辞めたら、賃金も上がり待遇も改善され万々歳じゃないですか。社会に必要な仕事でそれをやっていくのに人力が必要なら、必死になって人を集めますよね?」

「そうならなかったら社会が崩壊してしまう!あなた責任取れますか?」

「現代社会の人生、バカバカしいですよねぇ?生活費のためにやりたくもない労働やって、将来が不安で、みんなでやることを探して増やして、長時間労働、搾取、ねぇ?」

「何が言いたいんですか?」

「要するに、とどのつまり、自分が腹を決めるか決めないかって話なんですよ。現代社会の人生クッソバカバカしいんだけどなんで?簡単、システムが現状に合ってないゴミクズだからぁっ!!クソ!クソ!クソ!クソ!でもこれって現実の問題じゃなくて、我々ニンゲンが創ってるシステムの問題なんだなぁこれが。だからみんなで抜け出すと決めたら抜け出せるし、やめると決めたらやりようはあるんだなぁこれが」

「社会を崩壊させないためにみんなに労働を強制するつもりか!?社会主義、共産主義の悪夢再来だ!」

「本気で脱却する気があったら、んなことが“問題”になるなんてありえないけどね」

「カネは紙切れ・データなんて考え方も怪しくて危険極まりない!誰かの労働の成果であるおカネをそんな風に言うようになったら、この世界は破滅ですよ!」

「自分の視点に引きこもり、道徳に引きこもり、惰性に引きこもり、サラリーマン“的”人生物語に引きこもり、うだうだうだうだ責任がどうとか言って、自分の人生なんてこれっぽっちも真剣にやる気の無いクソ家畜に囲まれた、人生を浪費するだけのクソ人生。“働いてる・雇用されてる・やるべきことをやってる”世間へのクソ言い訳が最優先」

「みんなが働いて維持される社会のおかげで生活できているのですから、自分も義務を果たすのは当然でしょう?」

「ちっ、ムラや部族の発想をノコノコそのまま文明社会に使ってんじゃねーよ」

「子供たちの未来のためにも、働かないといけません!働いて稼いだ賃金で食べていく、家族を養っていく、人生の大前提ですよ!これが崩れてしまったら、取り返しがつかない、人間も社会もみんなダメになってしまう!」

「そんなアタマの“先”のイメージどうでもいいでしょ?不毛な労働の苦しみは徹頭徹尾“今”の問題ですよ?自動化技術がある、進歩させることができる、働かせていただくために頭を下げないといけないほど、既に人力の必要が無い。でも誰もやめようとしない。長時間労働?搾取?だから6時間労働?賃上げ?わざとらしい怒りをわざとらしく繰り返す。結局どうしたいの?」

「ちっくしょうっ!!普通に働いて、普通に生活したいだけなのにっ!!なんでこうなってるんだ!一体誰のせいなんだ!」

「“だから”こうなってるっていつになったら認めるの?コレどこまでやるの?って局面なんだけど」


目の前の自分の保身以外どうでもいい精神

「不幸な境遇でも自分が幸せになる道はあった」「自分の幸せを第一に考えて!」「何があっても暴力や犯罪に走ることは許されない」「苦しくても真面目に頑張っている人はいる」「せっかく高い能力があったのに、自分が幸せになることに使えなかったのだろうか?」・・・・・・障害があっても、貧乏でも、無能でも、毒親家庭でも、キチガイカルト宗教に足を引っ張られても・・・・・・で、自分が“幸せ”になって、それが何?自分がうまいことやって適応して“成功者”になって、だから何?

 カネ(自分の安定した雇用・収入)とモテ(自分の家庭・子供)以外何もなくなった、哀れな家畜の成れの果て。自分一人助かったとして、だから何だよ?意味無いだろが。わかんない?雇用と繁殖、みんな群がる、チンケな“幸せ”のイスにしがみつくために努力し続ける、で、いつまで続けるの?で、どこまで続けるの?骨の髄までサラリーマン根性に染まった家畜は、自分の雇用と繁殖以外何も見えない。

 自分がテストで100点を取れば後はどうでもいい、自分が志望校に合格すれば後はどうでもいい、自分が会社に選ばれて雇用を確保できれば後はどうでもいい、自分が所属する集団内で上昇できれば後はどうでもいい、自分が正しい人生を送れれば後はどうでもいい。“それなりの”偏差値、“それなりの”経歴、“それなりの”収入、当たり前の“幸せ”。クソったれな教育と学習の反復、サラリーマン育成牧場、家畜選別システム。

「みんな一生懸命生きてんだよ!」「大切な家族を守るために頑張ってんだよ!」「かけがえのない日常を奪う権利なんて誰にもない!」じゃねーんだよ。自分が何してるかわかってる?服従は肯定だって認識ある?自分はうまいことやれてるから、うまいことやろうと努力してるから、“邪魔”しないでくれ、“秩序”を乱さないでくれ?おとなしく服従して努力してれば保護してもらえる?救いようがない。たまにキレて爆発する人が出ると「社会に迷惑をかけずに一人で死ね!」「〇〇障害に違いない!」などとパニックになるが、突然ぶっ殺される覚悟もなく一生懸命生きてるの?

「尊い命を奪っていい理由なんてない!」ってか?現実は現実であって、そんなアタマの中のコトバのお話じゃないんだよ?お前らが(無自覚・無批判に)肯定する社会では必ず犠牲者が出る、割を食わされる人や虐げられる人が出る。あの手この手で収奪するクズがのさばる、クズを見過ごすクズがいる、クズにお追従するクズがいる、クズを称賛するクズがいる。そんなクズの犠牲になる人がいる、クズのクズさを目の当たりにして怒る人がいる、収奪されてクズの肥やしになり絶望する人がいる。で、何がどうダメなの?善良に生きてるだけで何の罪も無い世間一般の市民のみなさん、何がどうダメなの?

 たとえば、善良な市民のみなさんは、生産力が進歩した豊かな社会で、賃金分配制を肯定している。「カネは労働で生まれる」「助けたくてもカネが無い!」もしもし、カネは紙切れ・データですよ。「タダでカネを配ったら際限なく増長する!」「社会がダメになってしまう!」それで足りないカネ・シゴトの奪い合い、助ける時間も余裕も奪うシステムを選択している。要するにそういう優先順位(現実よりカネ勘定)を肯定している、そういう価値観(カネ・賃労働(の“価値”)が人や社会より上に“なってしまう”)を選択している。それらは今のシステムの中でシステムの都合に合わせて日々学習したものであり、したがってそれらを肯定・選択するということは、システムを肯定・選択するということ。道徳や物語で他人を押さえつけ、我慢を要求するということは、つまりそういうこと。社会は外から与えられるものではなく、そうやってみなさんが一瞬一瞬創出している。

 で、自分がうまいことやって地獄で勝って、だから何?それは何を意味する?その先に何がある?って話なわけ。努力して保護イスを確保して勝ったよかったとヘラヘラ笑って、ノコノコ繁殖して、尊い“当たり前の日常”をやって、「誰にも奪う権利はない!」いやいや、クズすぎでは?そんなサラリーマン根性の家畜だらけになったら社会は終わりなんだわ、というかそうなったから現に終わってるんだわ。自分の“幸せ”のために犠牲者はおとなしく犠牲になり続けろと言っている、“個”と目の前の自己保身に没入し切って自分が何してるか何言ってるかもわからない。人間舐めすぎ、お前ら家畜すぎ。

 他人のため、社会のため、そこに“自己犠牲(犬死)”しか感じ取れず、「自分の幸せを第一に考えて!」「(自分の)尊い命が一番大事!」と言う。家畜の、家畜のための、ピント外れの、傲慢で醜悪なやさしさ。人間は家畜か?おい、人間は家畜か?おい、他ならぬ、自分の人生のために、他人のため、社会のため、そこに命を使わないといけない、そういう局面があるだろうが。イジメから戦争まで戦わないといけない局面が厳然とある世界で、「暴力は絶対許されない!」「死んだら終わり!」で、オワリか?個人的欲望・個人的問題に還元して逃げ続けるか?骨の髄までサラリーマン根性に染まった家畜に、今更人間に戻れとは望むべくもないが、戦う人間がいることくらい、戦う人間にタダ乗りしてることくらい、せめて理解しろ。


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Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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