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自己紹介

はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


言葉より思考を重視して書きます。

おはなし


思考より言葉を重視して書きます。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?
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反射のような反復

私は疲れ切ってしまった
私は「疲れ切ってしまった」と思った
私は「これじゃダメだ」と思った
私は「これじゃダメだ」と思ってしまった
集まりかけていた私の意識は四方八方に飛び散っていった
私は、私は、私は、私は、怒った
私は「いったいどうすればいいんだよ!」と怒ってしまった
私は「いったい何回繰り返すんだよ!」と怒ってしまった
四方八方に飛び散っていった意識が怒りを中心にグルグル回り始めた
へホ、へホ、と息がうまくのみ込めなくなった
怒りと苦痛で顔が歪むのがわかった
いっそ泣き喚いてしまいたくなった
拳を握って足に何度も振り下ろした
私は「いったいどうすればいいんだよ」と思った、思った、思った、思った
私、私、私、私、言葉、言葉、言葉、言葉、私言葉私、言葉私言葉
すぐに言葉がやってくる、音楽が鳴りやまない、言葉が溢れてくる
私が言葉を連れてくる、言葉が私を追い回す、次から次へと纏わりついてきて
そして私がうまれる
私は私を救い出したい、この泥の海の底から
私はまだまだ沈み続ける、ただ身体に力を入れるばかりで、一切の動作もないまま
私は虚空に映る私の幻覚をみて悟ったと信じている
「私は同じ場所をクルクル回っているだけだ」
動くことができていたなら上等だ
「私はクルクル回ることに言葉を貼りつけていたにすぎない」
またこうやって言葉を貼りつけているにすぎない
私は私の幻覚をみて悟ったと信じながらギュッと力を入れて沈み続ける私をみて「私は本当にかわいそうだ」と思った
私、私、私、私、言葉、言葉、言葉、言葉
私は疲れ切ってしまった
私は「疲れ切ってしまった」と思った
私は言葉で創った問題を言葉を使って解決する
あるいは、私は言葉を使って誤魔化す
あるいは、私は言葉を使って私を動かし解決する
「言葉を使って」?
言葉がもたらす心の揺れを言葉で掴んで言葉に囚われる
掴んだのではなく、反射的に手を伸ばしただけだ
手を伸ばしたのは誰だ?手を伸ばしたのは私か?ならば原因は?
首を絞めて叫びを殺した
私は「いったいどうすればいいんだよ」と思った
私はまた言葉を使ってしまった
私は「また言葉を使ってしまった」という言葉の素が生じたことに気づいた
私は「また言葉を使ってしまった」と言葉でなぞろうとしている
私は「また言葉を使ってしまった」と言葉でなぞらなければならない
なぜ?そうしないと、とても気持ちが悪いから
ということは、つまり?
「言葉を使って」?
私はまた言葉を使ってしまった
私は「また・・・・・・


今の形の家庭をいつまで続けるのか

・「誰もが子供をうみ育てられる社会」があるべき社会の姿とされている。
・そのためにお父さんとお母さんが安心して働けるよう保育園や正社員化や働き方改革が必要だと言われる。
・子供がいなくなったら社会がなくなってしまうのだから、これは一見正しい方向のように思える。

・しかし、このような理想は(当然だが)“今現在の家庭の形”を前提にしている。
・即ち「夫と妻の片方あるいは両方が会社に労働力を売って賃金・カネを稼ぎ、それを基盤に家庭を運営していく」というものである。
・この形は“当たり前”で済ませられるほど当たり前なのだろうか。
・安定した仕事に就き、毎日規則正しく会社に行って諸々の作業をこなし、時に下げたくもない頭を下げ、稼いだカネを無駄遣いせずきちんと家庭に入れ、子供のために使い、収支を計算して食事を考え、仕事のストレスを家庭に極力持ち込むことなく、フルタイムで働いた疲れを1日2日の休みで回復させ、子供と遊んだり病院に行ったり諸々の手続きのため小難しい文章を読んだり・・・・・・。
・要するに、今の形には体力と精神力と様々なタイプの知的能力そして自制心が必要である。
・これを夫と妻の2人でカバーするのは相当な能力と運がないと無理だと思う。

・今の形は“賃金を稼ぐ”と“家庭を運営する”の二本柱になっている。
・メシを食う、家賃・ローン・水道光熱費・税金・社会保険料を支払う、子供に必要なものを買う、自分たちの好きなものを買う・・・・・・家庭を運営するには“メシを食う”とか“路頭に迷わない”という次元から賃金が必要だ。
・つまり“賃金を稼ぐ”の方が圧倒的に重要になってしまっており、基本的には家庭(というか生活)より働き続けることを優先しなければならない。
・だから、今のこの形を前提にすれば、保育園とか正社員化とか働き方改革といった話しか出てこない。

・さりげなく“~という次元から”なる表現を使った。
・家庭の運営においてカネが必要なことは様々あるが、そこには優先順位がある。
・まずは住む場所と食うメシが必要だ。
・ところで、私たちは“1円から賃金で分配するシステム”を採用している。
・働かないと1円も手に入らない、つまりメシが食えず路頭に迷う。
・1円から賃金で分配するということは、“メシが食える/食えない”とか“路頭に迷う/迷わない”とかの次元で人間を労働市場に誘うということである。
・メシが食えなくなったら困るので、多くの人間が労働市場に留まる、保護や安定を求める。

・このシステムを受け入れさせるための物語が至る所に用意されている。
・「誰かの必要を満たして対価をいただき、それで今度は自分の必要を満たしてもらう。こうして社会は回っている、一人ひとりが社会を支えている、だからあなたも」といった牧歌的なお話。
・「誰も働くのは嫌なんだ、消費するだけがいいんだ、楽をしたいんだ、でもそれを許してしまったら社会が崩壊してしまうんだ」といった恐怖を喚起するお話。
・「じゃあ他人に働かせて自分だけ税金で生活するのがいいのか、泥棒!」といった道徳。
・「働いて成長することが・・・・・・生きがいが・・・・・・社会参加による承認が・・・・・・」といった人生訓。
・1円からの賃金分配、“メシ”という次元で人間を動員するシステム、働かざる者食うべからずのシステム。そんなこと言ってない!と言っても、そう言っているシステムを肯定している。

・このシステムを採用するということは、社会全体の必要を満たすのにそれだけの人間・人力が必要だ、ということである。
・必要な人間・人力の数(や能力の種類/水準)は、テクノロジーの進歩・効率化の進み具合で決まる。
・少なくとも、必要な人間・人力の数が(希望者)全員の数を上回り続けなければならない。
・食っていけなくなるので、多くの人間は労働市場から退出できない。
・よって進歩・効率化する以上のペースで社会全体の必要=仕事が増え続けなければならない(さらに、仕事をするための能力を希望者全員が身に付けられなければならない)。
・仕事を増やすため、人口を増やし続けるか、欲望を煽り続けるか、有害無益なシゴトを創るか、自動車と道路のような関係をうみ出し続けるか。
・あるいは進歩・効率化しても人間・人力の必要が減らないことに期待するか、たとえば自動運転技術の登場で運転手が失業する分新しい仕事がうまれるといったような。
・はたまた進歩や効率化を諦めさせるか。
・この時点で既に、「社会全体の必要を満たすのにそれだけの人数が必要だから“メシ”の次元で人間を動員するシステムを採用する」のではなく、「食っていけないから(このシステムを維持するため)社会全体の必要=仕事が必要だ」という倒錯が発生している。
・しかし、そもそも無茶な想定や物語を使ってまでこのシステムに拘泥する必要があるのだろうか。
・これに持続可能性が無いから、テクノロジーが進歩しているのに生活が苦しくなり、それで保育園や正社員化や賃上げや働き方改革や女性の社会進出や雇用創出や規制を求めることになっているわけだが、これらは現状を前提しているので、結果的にこのシステムを肯定することになる。

・1円からの賃金分配で“メシを食う”とか“路頭に迷う”とかの次元で人間を動員するのではなく、テクノロジーの進歩・効率化の進み具合に応じてカネを配り、動員する次元を上げていく方がいいのでは。
・1円からの賃金分配を採用し続けるということは、それだけ多くの人間・人力が必要であり続けると想定しているということだが・・・・・・
・道を走るトラックやゴミ収集車、好きに使える電気や蛇口から出る水、工場や工事現場のどでかい機械・・・・・・文明の成果を何かしら思い浮かべてみれば、それが一体どれほどの人力に相当するのか、それがどれだけの人間を労働から解放しているか、テクノロジー・機械の巨大なパワーとポテンシャルがなんとなくわかる。
・機械の台頭で失業したとしても、一部の超優秀な労働者だけが働くようになったとしても、失業したのは“機械に代わってもらったから”なので、あなたを“食わせる”のは一部の労働者というよりはテクノロジー・機械(先人の積み重ね)である。
・“寄生虫”とか“社会のお荷物”というのは、分配を賃金と(賃金を原資とした)税金の再分配に限ることで生じる勘違い(お話)である。
・“養う/養われる”とか“支える/支えられる”といった関係性も勘違いである。
・“自立”や“自分の力”も勘違いである。

・今でさえ必要とされるため(恵まれた雇用の保護イスにありつくため)の能力やハードルは上昇し続けている。
・“カネを稼ぐ”のウェイトが上昇し続けている。
・一昔前と違ってじいさんばあさんに“家庭の運営”をサポートしてもらうことは難しい。
・しわ寄せは“家庭の運営”と子供にいく。
・夫と妻が吸収しようとすれば心身共にリスクを抱え込むことになる。
・ひとり親ならなおさら。

・家庭は閉鎖空間になっているから、他の家庭の情報は表面的なものしか入ってこない。
・逆もしかり。
・表面的な比較しかできないので、自分の家庭が異常をきたしていても、実質的に破綻していても、直視して検討する気力がなければ「こんなの普通」「きっとよくあること」で済ませられる。
・外面を最低限整えておけば他人にもバレない。
・家庭の異常や破綻=恥も、負担を家庭内で抱え込んで最後まで我慢することができれば、バレない。
・恥とか以前にそもそも人に頼れない、助けを求める相手がいない。
・閉鎖空間だからわかっていないだけで、成員が我慢しまくってるだけの家庭が多分既にたくさんある。
・今の形を続けるなら、増えることはあっても減ることはない。
・今の形は、負担を家庭=少人数の閉鎖空間で抱え込ませて表面的にはうまくいっているようにするだけの、持続可能性のないデタラメなものである。
・人間は苦しみを観念で埋め合わせ、「このために頑張っている」といった倒錯をしがちだ。
・意味や道徳や虚栄心や物語(単純なものから理論・レトリックで補強された難解で複雑なものまで)を排して、今の形の枠組みだけを取り出し、それが本当に望ましいものかどうかを考える必要がある。


それぞれの世界の底で「私だって幸せになりたい」と叫ぶ

私たちは幸せになりたい
私たちは私たちとしてではなく、私として幸せになりたい
私たちは私として幸せになろうと前のめりになって、あるいはさせられて
あれもこれも、“私”の領域に落とし込んでいった
子供という別個体、つまり私たちのメンバーさえも、落とし込んだ

受け入れては広め、広めては受け入れた、幸せのカタチ
自分の頭で考えて、自分の意志で努力して、自分の手で掴み取って
自分のものにしなければならなくなった
競い合う関係性、または非協調的な関係性
面倒に巻き込まれるのは嫌だし、迷惑をかけたくもない(借りをつくりたくない)
数人の個人に成り果てた家庭という閉鎖世界
世界の数だけ異なる環境、カネに性格に遺伝に知能に志向に人脈に教養に・・・・・・

子供の目線になって一緒に遊び、学び、認めてくれる人に囲まれた世界
子供よりも漫然とテレビやスマホをみることを選ぶ人に囲まれた世界
いるはずの人が誰もいない世界
気まぐれで対応が変わる人に囲まれた世界
貧しさに囲まれた世界
うまく表現できない重圧や小さな違和感に囲まれた世界
暴力や怒鳴り声に囲まれた世界
私たちが嘲笑や無視や暴力で傷つくのは
嘲笑や無視や暴力自体の痛みに加え
人間ひいては社会に対する信頼が失われていくからだ
「共に生きる人間を信じたい」という思いが目の前の現実に裏切られるからだ

“持っている者”と“持っていない者”との途方もない差
ちょっとした不運で失ってしまうリスク
「自分たちはうまくいっているから」という無関心と消極的肯定
全て引き受けますというお約束
もちろん責任は取りますと誓って引き受けそしてやはり
「○歳まで育てたらもう責任は持てない、自立してもらわないと困る」
「学費くらいアルバイトをして稼げ」
「もう大人なんだから後は全部自分次第」
その重さに耐えられなくなったら、あるいは耐えられなくなることを見越し
状況や時代の変化を無視して約束を“果たした”ことにする、“なかった”ことにする
仕事は他人の必要、社会の必要を満たすことなのに
それさえ“私”の領域に落とし込んだ体たらく

“持っている者”は持っているモノを手放すまいと、自分の手柄を主張する
あるいは時に同情を示し、結果以下の連鎖を肯定する
調子よく誓って引き受ける重さは
個人では到底背負える重さではないのに
私たちは私としての幸せから離れることができず
個人か社会かという二元論から離れることができず
どんどん重くなっていくそれを、“持っていない者”へと、次の世代へと、押し付けていく

私としての幸せに執着すればするほど、個人が蔑ろにされるようになる
個人が蔑ろにされればされるほど、私としての幸せに執着するようになる
落とし込めないのに落とし込んで、落とし込んではいけないのに落とし込んで
抱え込めないのに抱え込んで、抱え込んではいけないのに抱え込んで
あれもこれも、“私”の領域に飲み込んで、空虚な言葉を手にした私たちは
それぞれが落ちていった世界の底で叫んでいる

「私だって幸せになりたい」


いつからだっけ?

 目が覚めてため息をついた。「また続いた、また続く」起き上がれず、二度寝する気にもなれず、ボンヤリと天井を眺めた。そういえば、いつからだっけ?朝がこうなってしまったのは・・・・・・。子供の頃は確かに今と全然違っていたが、それは“生きる希望”があったからでは決してなく、むしろそういうことを何も考えなくてよかったからだ。“人生”も“将来”もなく、ただその日を生きるだけだった。

「いつからだっけ?」

 記憶の中の朝にあるのは、幼い私と子供向けのテレビ番組。いつからだっけ?目が覚めて見た天井は輝いていた、スーパーファミコンを買ってもらえる日の朝の記憶。いつからだっけ?目が覚めて飛び起きた、当時はまっていたゲームの大会がある日の朝の記憶。いつからだっけ?目が覚めて“起きなければ”ならなかった、部活や学校が続く日常の朝の記憶はすっかり抽象化され“しんどかった”印象だけが残っている。

 センター試験の日の朝。私は今でこそ「12月や1月は気分が落ち込みがち」と認識できているが、当時はそんな認識もなく、受験の重圧と解釈することしかできなかった。12月からずっと憂鬱で、自動機械のように勉強を続け、自動機械のようにその日の朝を迎えた。自動機械のように起き、自動機械のように支度し、自動機械のように会場に行き、自動機械のように手を動かし、自動機械のような点数をとり、自動機械のように出願した。

 自動機械のように“最後の追い込み”の日々を過ごし、自動機械のように電車に乗り、自動機械のようにホテルにチェックインし、自動機械のように迎えた二次試験の日の朝。パッと目が覚めたときのことは今でもよく覚えている、「意外と起きれるものなんだなぁ」と思ったから。ロビーには受験生とお受験ママが集まっていて、あるママは息子の手を握って何事かを語りかけていた、あるママは「ガンバッテ―!」とか「バンザーイ!」とか叫んでいた、私はママたちがつくるアーチのような空間をくぐって外に出た、よく覚えている、「出征かよ」と思ったから。

 自動機械のように席に座り、自動機械のように試験が始まった、よく覚えている、「あれ?本番になってもこの調子なの?」と思ったから。日程が終了し、自動機械のように街を彷徨った、よく覚えている、歩き回ったはずなのに何も覚えていなかったから。帰りの電車で景色を眺めているうちに涙が溢れてきた、よく覚えている、当時はフワフワしたまま試験を受けた後悔としか解釈できなかったから。家に帰ってから何もする気になれなかった、そして入学式になってさえ気分が晴れなかった、よく覚えている、「いつまで続くのだろう」と思ったから。そういえば入学式の日の朝は・・・・・・入学式の日の朝は?

 いつからだっけ?きっと、徐々に、徐々に、やるべきことをやっているうちに、気づくこともできないうちに、お受験ママに気を取られているうちに、こうなってしまったのだろう。でも、いつからだっけ?目が覚めることが嫌になってしまったのは。いつからだっけ?起き上がるのに“約束”や“義務”が必要になってしまったのは。いつからだっけ?ただその日を生きるのに“希望”や“責任”が必要になってしまったのは。いつからだっけ?朝が“一日の予定の起点”にすぎなくなったのは。いつからだっけ?アラームの音で目を覚まさせて、遅れないように自分で自分を起きさせて、身体を動かすために身体を動かし食べさせて、そういうふうに生きさせるようになってしまったのは。

「いつからだっけ?」


プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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