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自己紹介

はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


言葉より思考を重視して書きます。

おはなし


思考より言葉を重視して書きます。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?
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人生がつまらない、ということの意味

いいことがあっても、楽しいことがあっても、人生はつまらないままだ
何かに必死で取り組んでいる時だって、ただ気にする余裕がないというだけで
人生がつまらない、という事実は何も変わっていないのだけど
カタチにならない断片ばかりの文字列で今日もノートを埋めていく

君は生きがいを感じて人生を楽しんでいるヒトをみたら、羨ましいと思う?
まさかね、むしろ怖くなっちゃうだろ?生きがいを感じるには“反転”が必要だから
不可逆的な“反転”、意図的な“反転”、考えただけでクラクラしちゃうね
そんなこと続けたら、もう帰ってこれなくなっちゃうのにさ

たとえば「仕事のおかげで自立できる、社会の一部になれる」みたいな“意味の世界”
まったく逆で、実際は「仕事しないと自立できない、社会の一部になれない」って設定
そもそも機械や自然や蓄積の力におんぶにだっこで何が“自立”“社会の一部”だって話
つまり、この設定もまた“意味の世界”の産物ってわけ

意味に意味を探し、意味を意味で塗り、意味で意味をひっくり返し、意味で意味に耐える
人生がつまらないのは人生が空虚で無意味だからではない
君が今苦しいのは君の世界が空虚で無意味だからではない
人生も世界も意味にまみれている、君を追い詰め押し潰す灰色の意味に

人間は口に突っ込まれる灰色の意味を咀嚼して飲み込んで、オトナに“成長”していく
「人生に意味のないことなんてないんだから!」とか、ほんと参っちゃうよなぁ
「生きていくために“好きな”意味を見出せ!」とか、どうせなら喜んで食えって?
意味で意味を誤魔化せなくなったら次の意味、意味に苦しめられても性懲りもなく

意味意味意味意味!

この一見前向きな前のめりの姿勢を身に付けて
現代社会を覆い尽くす灰色の意味に慣れていくんだ
勉強なんて嫌だ!働かされるのなんて嫌だ!そんな君の現実感覚も
“自分”“将来”“義務”“優劣”“損得”“○○のため”そんな灰色の意味に染まっていく

たとえば“生産性”のような個人に押し付けられる奇っ怪な指標なり能力は
悉く灰色の意味にすぎない、というのも“個人”自体が灰色の意味だから
灰色の意味に好きな意味を塗って、それもすぐ灰色に染まって、また塗って
そういう強迫的反復の結果が灰色の意味(クソ)にまみれたこの世界ってわけ

「そんなんじゃ負けちゃうよ」「バカだ!バカだ!」「これが人間の本性だろ?」
“意味の世界”に没入する現実主義者のみなさんが君を逃がさないんだ
学校、明日のテスト、成績、受験、課題、期限、雇用、収入、競争、肩書、人間関係、日常会話、みんなの目・・・・・・「反転せよ!反転せよ!」
もう忘れちゃったかな、昔のこと

草花に風の流れ、川の音に山の小道、無意味な世界では常に“そこ”で意味が生滅した
おもちゃやゲームに夢中になれたろ?ぬいぐるみと一緒にいつまでも遊べたろ?
でも今は?要するに灰色の意味で塗り潰されて固まっちゃったんだよ
君は灰色の意味“しか”感じられなくなった、君の世界にはそれ“しか”なくなった

無意味であることは自由の前提条件である

君が現実的な必要もないのに苦しんでいるとしたら
それは灰色の意味に苛まれているだけなんだぜ
「あれもこれも現実的に必要なんだ!」と顔を青くしているとしたら
それは“意味の世界”に囚われているだけなんだぜ

君は悪くないよ

人生がつまらないのは灰色の意味に人生を乗っ取られているからだし
人生が楽しいのは灰色の意味に絶えず意味を塗りたくっているからだし
君がもし「人生がつまらない」と泣いているとしたら
それは君に残された現実との最後の接点かもしれないんだぜ


「死にたい」をみたらムカつきませんか?

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「死にたい」
「うまれてこなければよかった」
「人生に何の意味も感じられない、生きててもしかたない」
リプライ欄
「だったら誰にも迷惑をかけずに勝手に死ね」
「そんな風にしか考えられないなんて、残念な人ですね」
「つまらないのはお前がつまらないから」

「ネガティブなことを言う人がいれば、それ以上に怒る人がいる」

「うん」

「言葉にしなかった人たちも、大半は同じように思ったんだろうね」

「そうだろうね」

「君はどう?やっぱりムカつくかな?」

「まぁ場合によるんだろうけど、基本はムカつくよね」

「なぜ?」

「さぁ、なぜだろう?」

「心配とかより先にムカつくでしょ」

「うん」

「先日部屋を片付けたんだ」

「うん」

「昔の思い出の品から最近のモノまで、たくさんのゴミがでたよ」

「ずっと片付けてなかったんだね」

「うん、やっぱりめんどくさいからね」

「うん、めんどくさいよね。それで?」

「そのままのカタチで残っていたんだ、小さい頃によく使ったおもちゃ、空想世界で一緒に遊んだぬいぐるみ、絵の具、習字セット、授業で作った工作物。埃をかぶって傷だらけになっていたんだ、CDにゲームに子供向けの本に参考書、買ってもらったモノたち・・・・・・。積み上げられた入門書や教科書や専門書を整理した、千切れた本の帯をしゃがんで機械的にゴミ袋に投げていった、“知”がどうとか“本質”がどうとか、そんな勇ましい文句の断片が目に入った。ぐしゃぐしゃになったサークルの勧誘チラシ、“一緒に楽しもう”とか“充実した生活”とか、笑顔でピースの集合写真とか。大学の授業で使ったプリント、数式とか図式とか形式ばった文章とか。会社のパンフレット、“社会人”とか“プロフェッショナル”とか、デキるビジネスマンのイメージを体現したスーツ姿のイケメンが遠くの方をキリッとみている写真とか」

「・・・・・・なるほど」

「うん、その瞬間、なんとなくわかった・・・・・・わかって“しまった”んだ。いっぱいになったゴミ袋を運び出そうと立ち上がった瞬間、今までの記憶が一気に流れ込んできて、ごちゃ混ぜになって、一つの塊になったと思ったら、二つになって、一つが離れていって・・・・・・というより吹き飛んでしまって」

「糸が切れてしまったんだね」

「記憶が分裂して、いや剥離して、全て“向こう側”で起きただけのように感じられて、手元に残ったのはただの抜け殻で。同じ言葉を何度も繰り返した時の「あれ?なにこれ?」という感覚が世界全体に広がっていった」

「所詮は醜悪な“意味”にすぎなかった。本気で取り組んできた“現実”なんて、所詮“ふざけ切った世界によって押し付けられただけのクソ塗れの何か”にすぎなかった、傍からみれば滑稽でさえない何か。そんな世界に従って、たくさん我慢してつらい思いをするうちに、いつの間にか没入してしまって、抜け出せなくなっていたんだ」

「意識が遠のいて、少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうで、そしたらもう二度と起き上がれない気がして、必死にしがみついてしまった」

「それで、君は何がわかったんだい?」

「なんとなくだよ」

「うん」

「みんな、ギリギリなんじゃないかなって。一見そんな悩みなんてなさそうに溌剌と生きている人たちでさえ、こっちが思う以上に、いや多分本人が思ってる以上に、ギリギリなんじゃないかなって。今にも倒れてしまいそうなところで、つまりこの世界が底無しにバカバカしいクソ塗れの世界とわかって“しまう”寸前のところでギリギリ踏み止まってるから、ひと押しになりかねない言葉は拒絶して防衛するしかない、そのぐらいもういっぱいいっぱいなんじゃないかな」

「みんな、動き続けてないと倒れちゃうんだろうね。倒れて、全部壊れて、これまでの自分も崩れて、けど実はもうとっくに壊れてる、そもそもの始まりから崩れてるって、薄々わかってて、それでも・・・・・・クソをクソと知りながらしがみついて喰らい続けるしかないんだ」

「うん、現実と何の対応関係もない奴隷ピラミッドの世界で・・・・・・「偏差値」「経歴」「スキル」「大企業」「年収」「エリート」「優秀」「無能」「個人」「自立」「責任」「自分の人生」・・・・・・あっはっは、あっはっは・・・・・・わっはっはっ!笑っちゃうね、笑っちゃい過ぎて、涙が出てくるね」

「ひどい世界が、ひどい世界をつくった」

「ひどい世界が、ひどい人生をつくった」

「ひどい人生、それは無意味でさえなかった」

「無意味であることが許されなかった」


笑い話

やってオッケーつくってオッケーポイポイポイポイハイオッケー
だってこれって人間本性生産性、当たり前の姿勢真性奴隷性
「みんな頑張れば幸せになれるよ!」「さあ前を向いて幸せになろうよ!」
空虚も過ぎると皮肉みたい、お前の吐き散らすバカもの語

甘ったれた戯言に吸い寄せられる薄弱者、自制節制喪失セッセッセ~の末路
みろよ、最低なお前が逃げて縋って続けた地獄の連鎖
「厳しい社会」とかぬかしてんなら知ってたんだろこの世のこと?
「家族持つってほんと大変!」ではなぜ?つまり××だってよ!

無様な生だよ“自分”の措定
もう戻れないなんて眼球も干乾びちゃうね!
あまりに惨めな“自分”なる現実、何年生きてもわからないんだ?
遠くに見える明かりに群がる諦められない賢い生命

そんなお前が崇める幻想
権利自由幸福マネー
限られた資源だ!殴って蹴落とし奪えよゼロサム、裏切り貶め笑えよゼロサム
「この世は戦い!それが資本主義社会の現実」って、どうかしてんだろお前のココ

不正な制度に正しくご奉仕充実してるね奴隷の日常
不正な成長を正しく見守る充実してるね獄卒の日常
「何を根拠に不正だなんて!」?
何を根拠に「正しい」だなんて?

努力如きじゃどうにもならない劣等知能視界不良
何をみたって何もみえないなら生きてたってしょうがないだろ?
無い未来無い将来な罪人の遺伝子まき散らすお前の罪一生焼かれて贖え業火で
恋や自尊で地獄に拉致する悪人の遺伝子まき散らすお前の罪一生裂かれて贖えその手で

当然だろ?ふつうのこと

せめて悪いことしたら謝りなさいよ、それがお前たちのルールだろ?
せめて産み落としたら謝りなさいよ、だってお前たちのルールだろ?
知ってたんだろ?
動き回っても食い込んでくるだけのこの世界のこと
じっとしていても蝕んでくるだけのこの世界のこと
ああ!ほんとやってくれたよな!うまれてこなければ!うまれてこなければ!
また拒絶して信仰統制?

模範的小市民向けに垂れ流された謳い文句にお約束通りノコノコ釣られて
ハイ“幸せの可能性”と“生きる意味物語”お買い上げ!子供!子供!
「代金の方は子供払いでお願いします」負債!負債!
ポンポンポコポコハイオッケー!みんなやってるからハイオッケー!

地獄の掟に従いみんながみんな“よりよい自分の生活”に執着し行動することで
地獄がますます地獄になっていくだけの取り返しのつかなくなった世界で
“よりよい自分の生活”の筆頭条件と宣伝されているのが奴隷の再生産で
なんといいますか、まぁ
底無しに腐りきった心性で善人ぶって被害者ぶって人間ヅラしやがって、で、で、で?
嘘もみんなで重ね続ければマコトになるノデ!?

クソったれどものクソったれた世界におけるクソったれた人生だ!

不意に刺さった棘の痛みみたいな罰に溢れた一瞬一瞬
お腹にあいた空洞みたいな自我に塗れた一瞬一瞬
どうにもならない濁流みたいな怒りに満ちた一瞬一瞬
雨に濡れた窓みたいな両の視界溶けて流れて干乾びてただの汚れになって

わかってるよ!「それが人生」だろ?ならしたがって

お前の意味“奴隷の再生産”笑い話だろ?本当のこと!
お前の使命“奴隷の思想教育”笑い話だろ?本当のこと!
お前の生きがい“奴隷の成長”笑い話だろ?本当のこと!
お前の罪悪“その生の全て”笑えないだろ?本当のこと!


空虚感ではない空虚感

「空虚感」という言葉は一般的にいい意味では使われないし、私もいい意味では使ったことがなかった。「空虚感」はやはりできれば避けたい経験なのである。お腹の辺りから黒いものに侵食されていくような恐怖。身体が押し潰されそうになって、叫び出したくなる。そこから逃れようと、耐え難さを“書きたい”という衝動に変え、なんとか凌ぐ。私にとっての「空虚感」はこういう経験でしかなかった。

しかし、今回の「空虚感」は明らかに質が違っている。というかこれを「空虚感」と呼ぶこと自体全くしっくりこなくて抵抗があるのだが、お腹の辺りに文字通り“何も無い”のだから、とりあえず「空虚感」と呼ぶことにする。そう、“何も無い”のである。おかしな話だが、“本当に何も無い”という点が私の知っている「空虚感」との違いなのである。いや考えてみればそもそも「空虚感」と言いながら“実は何かあった”ことの方がおかしいわけで、ならこれまで私が「空虚感」と呼んできた経験の方が「空虚感」と呼ぶに相応しくない別の不愉快な経験だったと認識すべき・・・・・・今はこの話は置いておこう。

感情や気分の変動はまずお腹の辺りに表れる。気分がよくなることがあればお腹を中心に明るいものが広がっていくし、気分が悪くなることがあれば黒いものが広がっていく。そういった広がりが波を発生させ、衝動や沈滞をもたらす。私の知っている「空虚感」は要するにそういうものの一つ、お腹の辺りにある自動装置が生み出す経験の一つだったのだが、今回の「空虚感」は完全にその外側なのである。そもそもお腹にあるはずの自動装置・異物が全くない、したがってその後に続くはずの波も衝動も全くない。

感覚としては“目が覚めたばかりの一瞬”に近いかもしれない。まだ“自分”が起動していない状態、何も思い出していない状態。“今日の予定”とか“やるべきこと”とかを思い出すとともにやってくるアレがない、お腹から広がっていくはずのアレがない、お腹にいつもいるはずのアレがいない。“何かしなければ”も“何もしたくない”もなく、ただ“何かしたければ何かすればいいし、何もしたくなければ何もしなければいい”という事実だけがある。他人に対する怒りとかまでがなくなるわけではないが、“自分”に対する不満の類はほとんど感じなくなる。“意欲”はなくなるが、同時にそれを問題視する意欲もそれを正当化しようとする意欲もなくなっているから何も感じない。波がなく穏やかで、とても心地よい。

この「空虚感」には特にきっかけもなくいつの間にか漂着していたので、すっかり慣れて当たり前になっていた耳鳴りが突然スーッと消えてしまった時のように、私は「え?え?あれ?」と戸惑っている。しかし耳鳴りが生まれた時からずっとあったわけではないのと同じように、この“何も無い”状態も長い間忘れていただけで、むしろこっちの状態の方が普通のような気がしている。だって、いちいち“自分”を意識して、お腹にいる自動装置に鞭打たれて生きるなんて、あまりに惨めで苦しいから。

思えば私たちは義務やら不満やら不安やら恐怖やら期待やらによってお腹に常駐する装置を動かし、波を発生させ、やりたくもないこと(競争だの労働だの成長だの)に自分を駆り立てる生き方に没入しすぎてはいないか。そのせいでそれ以外の状態を想像することさえできなくなってはいないか。少なくとも私はできなくなっていた。「現代人は恐怖や不安に駆り立てられている」とか散々書いてきたわりには、いざ“そうでない状態”に漂着したら「こんなことがあるのかよ?」と驚き戸惑い感動せずにはいられなかったのである。今の生き方は自分が自明と考える以上に遥かに自明だった、自分が没入していると認識する以上に遥かに没入的だった。

しかしみんながみんな“何も無い”状態になって不満や意欲がなくなったらどうするのか。なるほど確かに「みんな“そうなってしまったら”進歩も成長も志向しなくなる」かもしれないが、しかしそれの何が問題なのだろう?私たちが生存しているかぎり「生存をよりマシなものにしたい」という単純な思いはなくならないから、その必要があれば努力・協力するのは当然だし、結果的により人間に望ましい形で進歩も成長も達成できてしまうだろう、志向するまでもなく。そう、志向するまでもなく。(今の生き方に没入しながら)外側を“想像”するときの抵抗や反発は、生き方への没入が原因で発生する。外側を考えているようで、外側を考えていると信じながら、全て内側だけで起こっているのである。

いちいち“自分”を意識したり人間関係や将来について常に自分のアタマで考えたり義務を果たすため自分を駆り立てたり、私たちは途方もなく複雑で抑圧的で矯正的な生き方に没入しきっている。この生き方の核になるのがお腹に常駐する自動装置だから、こいつのいない生活自体をすっかり忘れてしまっている。別の生き方もこの生き方の中でしか捉えられなくなっている。この生き方は自分が自明と思う以上に自明になっていて、(今の生活を続けるうえで)必要不可欠な要素が、実際にも必要不可欠であることになっている(無くても全然大丈夫かもしれないし、実は無い方がマシかもしれないのに)。遅かれ早かれ「空虚感」は埋まって私も元の状態に戻ってしまうのだろうが、今の生き方の外側が確かにあることはちゃんと覚えておきたい。


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遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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