FC2ブログ

自己紹介

はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


言葉より思考を重視して書きます。

おはなし


思考より言葉を重視して書きます。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?
スポンサーサイト

どうにもならない

下を向いて踏切を渡ろうとすると、光の反射でレールがキラキラ輝いていた
目を閉じてノイズキャンセリング機能を使えば、多分震動以外何も感じない
悪くないなと思った
死に時というものがあるなら、きっとこういう気持ちになった時なのだろう

別に嫌なことがあったわけではない
むしろラーメン屋に向かう途中で気分はそこそこ上昇していた
ただ光が目に入った瞬間、ぎゅ~っとそこに吸い込まれるような感覚になり
あぁそうだったと思い出す、“どうにもならない”、日常の裂け目に潜む端的な現実

“どうにもならない”といっても、将来への悲観とか、成功の見込みがないとか
自分がいいように変われないとか、人生がいい方に進まないとか
無意味な日常が延々と続くとか、退屈だとかいったことではない
そんなことは“どうにもならない”の前ではどうでもいいことだ

事態は深刻だ、だって“どうにもならない”んだから
既に手遅れ、取り返しがつかない、本当に“どうにもならない”
この世界も、ヒトの生も、“どうにもならない”とみんな本当は知っている
それでも“どうにもならない”をそれゆえの行き過ぎた笑顔でやり過ごしていく

月旅行にワイワイ騒ぐヒト、要人の発言にパチパチ拍手を送るヒト
搾取だ団結だと扇動するヒト、音と一緒に意識が遠ざかり白くなっていく世界
愛や恋だのに奔走するヒト、幸せを追い求めるヒト
差別だ不平等だと怒るヒト、明日も明後日も来年もみることになる前のめりの世界
別に何もかもが下らないことだとか、やっても仕方のないことだとか
一生懸命に頑張っている奴はバカだとか
そういうことではなくて、ただただ“どうにもならない”だけなんだ

ヒトという種の牢獄
自分という個の牢獄
“どうにもならない”の中を生きるだけの生
周到に用意された牢獄
思考も知能も思想も態度も認識も生き方も感情も
何がどうなろうと、何をどうしようと、“どうにもならない”

“どうにもならない”をアテもなく拒絶し
呆けたようなヘラヘラ顔しかできなくなったヒト
“どうにもならない”を遠ざけようとするあまり錯乱し
人間にうまれてよかった!とか弛緩しきった顔の穴から垂れ流すようになったヒト
“どうにもならない”をどうにもできないまま再生産してしまうヒト
“どうにもならない”のに?から?また真っ白な罰を求めた“あなた”
“どうにもならない”のに?から?また先延ばして息をした“わたし”

ほら、やっぱりどうにもならないし、どうにもならなかった


よろこび

「あなたは将来どんな仕事がしたいですか?」

「仕事はしたくありません」

「そうですか、ではどういうふうに生きていきたいですか?」

「好きな時に寝て好きな時に起きて適当にゲームをしたりマンガを読んだりして生きていきたいです」

「なるほど、つまりゲームに携わる仕事がしたいのですね」

「いいえ、仕事はしたくありません」

「なるほど、つまりマンガに携わる仕事がしたいのですね」

「いいえ、仕事はしたくありません」

「しかし仕事は人間の喜びの源泉ですよ」

「いいえ、仕事は誰かの必要を満たすことです」

「仕事をして喜ぶことは間違っていると言うのですか」

「いいえ、誰かの必要を満たした結果喜びを感じるのは当然だと思います」

「ではあなたはどんな仕事がしたいですか」

「いいえ、仕事はしたくありません。誰かの必要があって私がそれを満たす必要があるなら仕事をしますが、これは私の“したい気持ち”以前の話です」

「仕事をしたいと思うことは間違っていると言うのですか」

「いいえ、しかし仕事をする必要があるということは、つまり誰かが困っているということです」

「困っている人を助けたいと思うのはいけないことなのですか」

「いいえ、自分の“したい”や“しなければ”を優先させるようになったら本末転倒ということです」

「仕事をして生きていくのが当たり前なのですから、前向きな気持ちで取り組みたいのが人情ではありませんか」

「いいえ、できる限り仕事をしたくない、困っている人がいない方がいいというのが人情であり、あなたの言う“人情”は奴隷根性の誤魔化しでしかありません」

「しかし仕事をして生きていくのは常識ですよ」

「仕事をする必要がなくなったらどうなりますか」

「仕事がなくなったら生きていけませんよ」

「自分よりうまく必要を満たせる存在や手段が出現したら、あるいは困っている人が誰もいなくなったら生きていけなくなるというのは常識的におかしいでしょう」

「しかし仕事をして生きていくのが常識だとみんな言っています」

「満たすべき必要がたくさんあるなら常識ですが、何かしてカネを稼がないと生きていけないだけなら常識ではありません、こちらはただの設定です」

「自分のために仕事をするのは間違っていると言うのですか」

「いいえ、自分のために仕事をするのは間違っていませんが、自分のために仕事にしがみついたり、仕事をでっち上げたりするのは間違っています」

「働けば豊かになる、働かないと豊かにならない、これが現実じゃないですか」

「働いてモノを生産して人々に行き渡らせれば豊かになる、これは現実です。働いて賃金を稼いで豊かになる、これはただの設定です。もっと言うとあなた方が日々口にする“常識”とか“これが現実”の集積です。人々の必要を満たせるだけのモノが生産できる、供給できる、この時点で問題は解決です。仕事がなくなったら上がりです、常識的には」

「しかし自分のために仕事をすれば社会のためにもなると教わりました」

「自分のために誰かの必要を満たせば社会のためにもなりますが、自分のために仕事にしがみついたりでっち上げ仕事をしたりしても社会のためになりません。そういうことをすれば今日のあなたは得をしますが、それで社会が悪くなれば明日のあなたは損をします」

「今日の私が得をするならそれでチャラです」

「いいえ、誰の必要にも裏付けられずその先に何も無いシゴトに人生を費やした結果の得ですから」

「しかし仕事をせずタダでお金をもらって喜べますか」

「ママゴトをして、つまり実際にはタダなのに何かやったことにしてお金をもらって喜べますか」

「誰かを助けてお金をいただく、これが人間の喜びです」

「崖から突き落とした相手を助けてお金をいただく、これが人間の喜びですか」

「そんなひどいことはしません」

「あなたがやらないなら別の誰かがやります」

「そんなひどいことする人知りません」

「誰もやらないならそういう仕組みや空気でやります」

「現実に困っている人がたくさんいるから仕事をするのです」

「なんで豊かな社会で困っている人がたくさんいるのですか」

「現実は厳しいからです」

「いいえ、わざわざ厳しくしているからです。追い込んだり、奪ったり、騙したり、不安にさせたり、焚きつけたり、煽ったり、心に穴をあけたり。自作自演、マッチポンプです」

「私を加害者扱いするのですか」

「いいえ、あなたは突き落とされました」

「そうです、私は被害者なのです」

「いいえ、あなたは加害者です」

「私は突き落とされたんですよ」

「あなたは突き落とされると同時に突き落としてもいます、少なくとも突き落とすことを肯定しています」

「肯定した覚えはないので私は被害者です」

「いいえ、あなたは突き落とされ助けられる側であると同時に突き落とし助ける側でもあります」

「互いに互いを助け合う、善い社会ではありませんか。素晴らしくかみあった社会です、仕事が喜びになる人間社会です、何一つ変える必要がない働き者の社会です」

「自分の小市民的生活のためならマッチポンプで構わない、それで犠牲者が出続けても構わない。徹底して目を閉ざし、仕事の喜びなどと言って誤魔化して。そんな醜悪なあり方を助長する社会です、何一つ肯定する要素がない賃金奴隷の社会です」

「なるほど、つまり政治に携わる仕事がしたいのですね」

「・・・・・・」


ママゴト

灰色の空から落ちる雨音をききながら街を歩き、ランドセルを背負い学校に向かう子供をみたり、足早に駆けるスーツ姿の労働者をみたり、自転車でお迎えに行く主婦をみたり、年金や健康がどうとか談笑する老人をみたり、すると自分がツクリモノの世界に配置された一構成要素であることを実感する。幼い頃楽しみにしていた日曜日の朝に放送されるアニメの合間、頻繁に流れていた自分の背丈ほどもありそうなおもちゃの家、のCM。憧れはとっくの昔に実現していたらしい。ただし自分は配置する側ではない、という違いに目を瞑ればの話ではあるが。

要するに全てママゴトなのだ。そうみえるのは当然じゃないか!だって現実の見立てがママゴトなのだから。しかしそれはあくまでも“見立て”であって、現実とママゴトは違うんだ・・・・・・どこが?そう、そうだよ、遊びかどうかという途方もない違いがあるじゃないか!母親に“なる”とか“なりたい”とか、父親に“なる”とか“なりたい”とか、君はそういう些細な言い回しをあげつらって現実をママゴトと断じるけど、現実には責任が伴うんだ・・・・・・“責任”って何?そうやって責任を解体したらみんな無責任になって・・・・・・“責任”とは無責任の隠蔽にすぎないのに?

“責任”という言葉によって責任を引き受けた“ことにする”。責任ってどうすれば取れるの?それがなんで責任を取ったことになるの?それがなんで責任を果たしたことになるの?嫌になっちゃうね、「責任なんて取りようがない(から仕方ない)」ことをアテにしやがって。「責任なんて果たしようがない(から都合のいいように“責任”の中身を決めていい)」ことを承認し合いやがって。そのせいで誰かが“責任”を引き受ければ、別の誰かがどこかでツケを払うことになる。“責任”によって責任から逃れながら、無責任を隠蔽しながら、他人を犠牲にしながら、責任が伴う(“ことになっている”)正しい生活を立派に送っている(“ことにする”)。だから“責任”という言葉の存在こそが、全てがママゴトであることの動かぬ証拠なのさ。

それにしてもよくできたママゴトだよ。確かに“特定の誰か/何か”にやらされているわけではないからね。問え、問え、じゃあなんで?そしてそのうえで問いを殺し、笑って頷けこれが自分の意志!後退に次ぐ後退の果てに逃げ込まされる“自律した自由な自己”なる堤にならない堤、境界にならない境界、単なるでっち上げ、“そういうこと”になっているから現実もまたそうであるというおもちゃの家の象徴たる概念。自分で自分に自分を了解させるために用意された“自分”なる前提。全部、“自分”で、“自分”を中心として、“自分”のために、選んだことなのさ。ねぇ、本当に?

子供は今日も様々な“義務”や“課題”をこなそうと学校に行く。この巨大なおもちゃの家で“自分”が下層に沈まないために。“自分の将来”のために。けど学校の勉強なんて将来役に立たないと言う、じゃあなんでそんなことに人生を費やしているのだろうか?そんなことよりカネ稼ぎの能力を身に付けろと言う、じゃあなんでカネ稼ぎに人生を捧げねばならないのだろうか?学校の勉強は人生を豊かにすると言う、じゃあなんでわざわざ人生を豊かにしなければならないのだろうか?ハイ、それらが全てママゴトであり、豊かにしないとやってられないほどクソつまらないからです。

大人は今日も“責任”や“職務”を果たそうと働きに行く。何の必然性も必要性もなければ自然法則があるわけでもない。働く必要があるから働くのではなく、ママゴトのために働く。ママゴトを続けなければならないから、ママゴトを続けるために働く、ママゴトを続けさせるために働く、ママゴトをママゴトであらしめるために働く。共感するから共感するのではなく、ママゴトのために共感する、ママゴトを優先して共感したと思い込む。理解したいから理解するのではなく、ママゴトのために理解する、ママゴトを優先して理解したと思い込む。ママゴトを続けさせるために他人を癒し、ママゴトを続けるために癒される。現実と何の対応関係もなくなったママゴト、現実の見立てでさえなくなったママゴト、遊離し肥大化していくママゴト。奇っ怪な独自の論理で回り始めたおもちゃの家。

苦しいのはなぜ?そういう役割を与えられたから。貧困に喘いでいるのはなぜ?そういう役割を与えられたから。運命論ではなく、文字通りの意味で。学校のお勉強を頑張れば将来役に立つナンタラ力(論理的思考力など)が鍛えられるらしく、IQが高く生育環境に恵まれ長時間おとなしく座っていられる才能を持ったヒトがお勉強を介してナンタラ力を鍛え相応しい学校に進み相応しいイスを確保する。ナンタラ力?優秀な人間?仕方ないよ、だってママゴトなんだから。本当は奪う必要もないし、奪われる必要もない。見下す必要もないし、見下される必要もない。有能に憧れる必要もないし、無能に絶望する必要もない。苦しむ必要も、貧困に喘ぐ必要もない。焦りに苛まれる必要もない。生存競争(ゴッコ)をする必要もない。じゃあなんで?ただそういうママゴトの設定、おもちゃの家の設計。

子育てが大変なのも、バカ親の下にうまれただけで大きなハンデを抱えるのも、家族の誰かが倒れただけで一気に窮地に陥るのも、そうである必要が何一つない。考える必要もないし、悩む必要もないし、心配する必要もないし、苦労する必要もないし、もがき続ける必要もない。だって、モノは充実し、インフラは整備され、機械は発達し、科学技術は進歩し、実際には働く必要のない人間もたくさんいるから。じゃあなんで?ただそういうママゴトの設定、おもちゃの家の設計。

したがって全てはママゴトである。有意義な一日も無意味な一日も、充実した生活も空虚な生活も、どんな一分も一秒も、思考も行動も一挙手一投足が、おもちゃの家のママゴトである。助けを求めてもママゴトを頑張れと言われるだけで、みんなママゴトがうまいヒトを称賛して、ママゴトが下手な奴をバカにして、頑としてママゴト自体には触れようとしない、触れてはいけないと“決まっている”。ママゴトに対する異議申し立ては悉く「ママゴトを頑張れ」「ママゴトをする努力が足りない」と“自分”の問題に変換される。だから決まりに従って“自分”の中に引きこもり、おもちゃの家で“自分”の人生物語を充実させることに努めねばならない。ママゴトに励み、心身を削っておもちゃの家に人生を捧げねばならない、何の現実的裏付けもなく。じゃあなんで?これが自分の意志!これが現実!一体何を目指してるの?もちろん自分の小市民的幸福さ!なるほど!現実的基盤を日々せっせと掘り崩しながら結構な目標をお持ちのようで!

つまり単調に鳴る雨の音だけが今における現実なのだ。


こっち側

今日もまたあいつらは石を投げる
“こっち側”をやめた人に向かって
「逃げた」とか「弱い」とか
要するに
知っていたけど知らなかった、知ることを避けていた
わかっていたけどわからなかった、わかることを遠ざけていた
そんな選択をされてしまったせいで心がグラグラしちゃったんだな
それで自分ができないからって、勇気がないからって、石を投げちゃってさ
でも“それ”を否定したからといって自分のその消極的選択が肯定されるわけでもなく
“価値”が必要になっちゃうほど劣悪な“こっち側”の生活は何一つ変わらない
相変わらず“理由”が必要で
相変わらず“意味”が必要で
相変わらず“目標”が必要で
相変わらず依存する対象が必要で
本当は何一つ肯定に値する要素なんて無いとわかっているのに
意志や行為以前の些細な過ち(誰の?)から“こっち側”になってしまったというだけで
取り繕う以外になくなってしまったんだ
その様がまたかわいそうで
滑稽でバカバカしい思考と行動の反復と恥の上塗りでしかないのだけど
やっぱりまた石を投げずにはいられないんだな
「“こっち側”をやめたら地獄におちる」だなんて
“こっち側”よりさらにもっともっと下の劣悪な世界を持ち出すことで
脅迫と“こっち側”の肯定
“こっち側”はまだマシなんだよ、悪くないんだよ、本当なんだよ
証拠集め、記憶の改ざん、現実の歪曲
たまたま“こっち側”になってしまったというだけで課されたあり方
「“こっち側”をやめることは○○に対する冒涜!」だなんて
“こっち側”が正しいんだって、でっち上げで正当付けて
満足ですか?
いやぁ、むなしくなっちゃうな!
石を投げられる人と違って
“こっち側”をやめる勇気がないから
“こっち側”を全うして解放される日まで
たまたま属しただけの“こっち側”を賛美し
消極的選択の結果として“こっち側”に奉仕し続ける
つまり堂々巡り
偶然、恐怖、妄念による束縛、産物たる選択、自動的な継続
惰性に身を委ねるか、決断するか
どっちが簡単?
どっちが楽?
考えるまでもない
あ~あ、今日もまたうんざりするほど積み上がっちゃうね
薄弱者共の言い訳


プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

twitter
最新記事
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる