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自己紹介

 はじめまして、遊民と申します。この記事では当ブログの目的とカテゴリーの紹介を行います。その過程で私自身の考え方に触れることになるので、結果的にこれが(当ブログを読んでいただくうえで必要になる程度の)自己紹介になると思います。

目的

 

賃金奴隷社会に対するモヤモヤの言語化


現代社会という地獄


 現代社会は豊かで進歩的で自分の人生を自由に選択できると謳われていますが、みなさんも気づいているように実際はまるで違いますね。働いて稼がないと生きていけないからです。私たちは生存を人質に労働を強いられるカネの奴隷、賃金奴隷であります。もし仮に、労働が「必要」だがみんな他人のためには何もしたくないと言ってるような状態ならこの仕組みも仕方ないかもしれません。モノ・サービスが不足しているなら、みんなで働いて生産しないと困ることになるからです。

 しかし、現実はというと、モノが売れずに余っている。これには大きく分けて二つの面があります。一つは喜ばしいことで、モノを余らせることができるほど生産力が上がった、ということです。先人の頑張りのおかげで知識や生産技術が積み重ねられ、私たちはごく少数の人間で一国の人間の必要物を供給できるほどの巨大な生産力を手にしている。機械が私たちの代わりに働いてくれているわけです。

 機械が働いてくれる、これは「機械に仕事を奪われる」とネガティブに表現されています。しかし、なぜ「機械に仕事を奪われる」と困るのでしょうか?大変な仕事を代わりにやってくれるなら、これほど有り難い話はないはずでは?これがもう一つの面。生産されるモノ・サービスの分配を「賃金」に限定している、ということです。過去の積み重ねや自然資源の産物であるモノ・サービスを手に入れるために、社会的に必要かどうかに関わらずとにかく「働かせていただかなければならない」。こうした狂った仕組みは、私たちに「働かない」という選択を許さない。けど生産力はどんどん向上する。雇用のイスが減る。イスにしがみつこうと低待遇を受け入れる。社会にカネが回らなくなる。賃金分配への執着が、過酷な労働とモノ余りを発生させているのです。

 このバカバカしい仕組みを「現実」として受け入れてしまうせいで、「機械に仕事を奪われる」ことが「危機」になってしまい、人間にしかできないシゴトとか言って次から次へと有害無益なだけのシゴトが創出される。その結果、他人の上前をはねそれを巧みなレトリックで正当化し合う「上級奴隷」が恵まれた・守られた雇用のイスを占め、そこから弾かれた人たちは「社会的には必要だが退屈な/きつい仕事」にどんどん押しやられ、賃金が下落し、割に合わないと不満を持ちつつも、上級奴隷たちが弄する「その程度のことしかできない無能なのだから自己責任」といった「正論」で我慢させられてしまう。カネがなくてモノを買えない、精神的に余裕を持てない、将来に希望がない、こうした閉塞状態を我慢させられているのに、メディア・SNSを介して上級奴隷の優雅な生活を羨ましがる、ビジネスの心構えを拝聴する、そんなふざけ切った構図が現出しています。

私たちは誰のために、何のために働かされるのか


 賃金分配(賃金奴隷制)に執着する弊害はこれだけではありません。カネとは、投票権だからです。私たちはカネを払ってモノ・サービスを購入することで、そのモノ・サービスに対する支持を表明している。いくら口では「カール大好きだったのに!(泣)」と言っても、実際に購入=投票しなければ市場から消えてしまう。逆に大多数の人間が「こんなもんいるか!」と言っても、大量に購入=投票する人がいれば繁栄する。芸術なんかはこれでいいかもしれませんが、その他のモノ・サービスでも「一握りの富裕層のため」をやられたら困りますね。つまり、それなりのカネ=投票権が平等に分配されてないと、「大衆(私たち)のための」モノ・サービスが充実していかないのですね。

 さらに、労働とは「人間社会や他人の必要を満たす」ために行うものでありますが、賃金奴隷社会ではそもそもこれが許されない。なぜか?「人間」がいないからです。強制労働が支配する世界には「賃金奴隷」しかいない。会社に雇われている/いないに関係なく、みな等しく賃金奴隷。最近(2017年9月中旬)環境省が動物の「5つの自由」というパンフレットを発行しました。飢え・渇きからの自由、不快からの自由、恐怖・抑圧からの自由、本来の行動がとれる自由、痛み・負傷・病気からの自由。これは「就職したら失うものリスト」と揶揄されていましたが、しかし「就職」のための競争・準備はいつから始まるでしょうか?生活リズムの矯正、服従・協調の訓練、やりたくもない勉強の強制、授業という名の長時間拘束、嫌いな人間との共同生活・・・・・・賃金奴隷社会では「人間として生まれた瞬間に失うものリスト」なのです。

 要するに、賃金奴隷社会で提供されるモノ・サービスは「人間のため」のものではなく「賃金奴隷のため」のものにならざるを得ない。提供する側がどんな素晴らしい志を持とうが、狂った仕組みがそれを許さない。これは悲劇です。ボロボロになってカネを稼ぎ、それを明日の労働に備えるために、労働のストレスを解消するために、疲労回復・癒し・健康・娯楽・薬・栄養ドリンク・酒などなどに「投票」してしまえば・・・・・・。しかもボロボロになる人たちの賃金が低く抑えられてしまったままでは・・・・・・。私たちは「人間社会や他人のため」ではなく上級奴隷のために、生存費を稼ぐために、賃金奴隷社会の維持に貢献するために、身を削り続けねばならないのです。

 人間=労働者であれば、何の問題も無いかもしれませんが、みなさんはどう思いますか?結果的に「人間のため」になるモノ・サービスもたくさんあるかもしれませんが、しかし、それはあくまで結果論。はじめから「人間のため」を目指す方がいいとは思いませんか?

不条理の言語化


 現代の「厳しい社会」は賃金奴隷制という狂った仕組みの成れの果てでしかないにも関わらず、「人生について真剣に考えろ!」「自分の人生に責任を持て!」などと言ってくる人たちがいます。自らの言動を省みることなく「常識」に逃げ込んでいる人たち。今の仕組みが崩壊したら、自分がやってきたことの責任など取るはずもなく、「みんなやっていた」「おかしいと思っていたが仕方なかった」と逃げるであろう人たち。そんな獄卒で溢れる社会に頼んでもないのに誕生させられた私たち。人間を辞めることを強いられる毎日。奴隷以外の人生を許さない仕組み。いつの間にか「適応」し染まっていく私たち。

 他人よりうまく生きようと損得計算に明け暮れるようになり、「みんな他人のためには何もしたくない」「カネを与えないと必要な仕事さえ誰もしない」「みんなを強制的にでも労働させるから豊かになる」といった人間観や世界観を内面化している。人間不信、人心の荒廃。それでも生きようと、意味や愛に救いを求め、日々を凌ぐ。そんな不条理感や虚無感を抱えてはいませんか?

カテゴリー


考察


このようなシャカイのおはなし。

おはなし


どうしようもない人生のおはなし。

自分のためにモヤモヤを言語化していくことで、それが結果的に同じようなモヤモヤを抱えている人の役に立てばと思います。

ベーシックインカム


 あと、たまに文章の中にベーシックインカムの話が出てきます。私は、大きな生産力があって、しかもそれは過去の積み重ねや自然資源のおかげなんだから、その恩恵に与るためのカネは刷ってみんなに配れよという考えです。恵まれた・守られた雇用のイスを確保して、過去の成果や低賃金労働者に寄生し、税金補助金にたかってる奴らだけで独り占めすんなと。遺伝や環境や運や景気循環なんてものに(無駄に)生存を左右されるなんておかしいと。

 最近はベーシックインカムが必要かどうか議論されるようになりましたが、実はこの時点で終わってます。ベーシックインカムは「人間社会」を構築するうえで前提となる仕組みであり、これがないと「賃金奴隷社会」にしかならないからです。ベーシックインカムは「雇用のイス」を介して生産力に寄生し確保したカネの「再分配」でも「社会保障」でもなく、「共同体内における機械・技術・インフラの蓄積あるいはそれらの進歩の恩恵を正当に成員に分配する」ためのものです。「カネを配れ」といっても主眼は「カネ」ではなく「進歩の恩恵」です、カネを配るのはそれらと交換できるからにすぎない。まずは「カネ」と「進歩の恩恵」を分離してください。「カネ」に支配され、「カネ」が意識の中心になっているのに、「カネ」の奴隷である自覚さえ持てなくなっているから、「財源」とか「再分配」とかそういう話になるのです。「人間」を辞めさせられたことに気づいてないから「必要かどうか?」なんて話になるのです。みんなで「人間」を辞めさせられたことに気づき、「人間」に戻りませんか?
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どうせやるなら徹底的にやろう

「役に立たない奴は死ね」と言う
まったくもってその通り、心の底から賛同するので
“役に立たない”を、きちんと、誠実に、判定しよう
「マジメに働いている」だの
「カネを稼いで自立している」だの
「納税している」だの
子供騙しの茶番はいいから
“役に立たない”を、厳密に、誠実に、判定しよう
オートメーション技術が溢れる文明社会で“生産と供給”に貢献していない者
制度や経歴で守られている者
技術の利用や機械化を渋ることで雇用にしがみつけている者
創出されたシゴトをしている者
もちろん、全員アウト
今社会に貢献していても
役に立たない奴の役に立つことは役に立たないことなので
役に立たない奴のために働く者はもちろん全員アウト
役に立たない奴のために働く奴のために働く者も、もちろん全員アウト
役に立たない奴のために働く奴のために働く奴のために・・・・・・
もちろん、全員アウト

「生産性のない障害者は死ね」と言う
まったくもってその通り、諸手を挙げて賛同するので
“生産性のない障害者”を、きちんと、誠実に、定義しよう
実際、低知能はとても不幸であり、周囲も不幸にするだけだ
理解が遅い、努力してもできるようにならない
いつまで経っても本質や構造をみることができない
歴史から学ぶどころか経験から学ぶことさえできない
観察眼もなければ視野も狭い
足りない頭にお粗末な現実解像度
まともな対応ができるはずもない
忍耐力もない、“わからない”を抱える知的体力もない
表現力もないので、感情を吐き散らかして周囲に迷惑をかける
何をどうすればいいのか永遠に認識できないので、何一つ解決しない
自分と向き合えず、ワガママが通ることが自分の正しさと思いこむ
記憶力もなく、平然と後知恵で文句を言い、周囲に事前と事後で余計なコストを払わせる
負を飲み込んで芸術に昇華させることもできない
「生産性のない障害者は死んでいい」、心からそう思う
だから、自分が除外されるような、つまらないコトバ遊びはやめて
“生産性のない障害者”を、厳格に、誠実に、定義しよう
たとえば
IQ120未満の者、または優れた学術的/芸術的才能を有さない者
くらいからはじめて、どんどん徹底していこう

生きたところでよくて資源の無駄、大抵は余計な問題を増やすだけ
そういう連中は、“節約”のため、どんどん安楽死してもらおうではないか
「役に立たない奴は死ね」
「生産性のない障害者は死ね」
問題意識は完全に共有されているのだから
みんな、自分が“節約”の対象になった時には
「生きてマイナスを増やしてすいませんでした!速やかに死んで社会の役に立ちます!」
と、喜んで協力してくれるだろう


善意に溢れた労働宣教師

「早速ですが、私の話をさせてください。私はとても貧しい家庭の長男としてうまれ、家計を助けるために、10歳の頃から年齢を偽って工場で働きました。今と違い、どこも労働環境は劣悪で、仕事は見て覚えろ、使えない奴はクビ、過酷な拘束と長時間労働、ケガをしても知らんぷり、このようなひどい職場ばかりでした。それでも、汚れにまみれ血を流しながらも、歯を食いしばって働き続けたのです。なぜか?もちろん家計を助ける、という強い責任感はありました。しかし、私は思うのです、それだけでは決して耐えられなかった、乗り越えられなかった、と。では他に何があったか?少ないながらも労働の対価を得て、生活していく確かな手応え、そして何より社会の役に立っている自負、そう、労働の喜びであります。こうして私は、労働の喜びを糧としながら生きていく、人間本来の姿を悟ったのです」

「あのー、すんません、それ完全に話がひっくり返ってないスか?基本的には苦しい思いをしなくて済むように、労働しなくて済むように、働いて進歩を目指すんスよね?」

「それは、働きたくない、ということでしょうか?」

「は?」

「君は若いから人間の本質がまだわからないのでしょう。いいですか、人はメシを食っているだけでは生きていけないのですよ。もし仮に空からカネが降ってきたら、お給料の尊さを理解できるでしょうか?命がけで働いてきた先人たちへ畏敬の念を抱くでしょうか?労働者への感謝の気持ちを持つでしょうか?昔と同じように血を流せとまでは言いません、しかしせめて、ならば汗水を流しましょう。稼ぐ金額は問題ではありません、自分が義務を果たしている、使命を全うしている、社会に貢献している、誰かの役に立っている、その充実感こそが生きていくうえで何よりも大切なのです」

「でも、選択肢はある方がいいじゃないスか。どんどん機械に任せていって、そういう充実がほしい人は何かすればいいし、興味ない人は好きなことをすればいい」

「働いているのが機械なら、一体誰が誰に感謝するのです?」

「それこそ先人のみなさんじゃないんスか?」

「今、私は現実の話をしているのですよ。働かないなんて選択肢を与えてしまったら、人々から感謝の念が消えてしまう。いや、それどころの話では済まないでしょう。みんな働かなくなって、自分の殻の中に引きこもり、元から自己中心的な一部の人は空虚な趣味に人生を浪費し、そうでない多くの人々は生きる指針を失い、アルコールやセックスの刹那的享楽に溺れてしまいます。他者への感謝の念が消えてしまえば、奪うことや搾取することも平気になりますから、社会も街も荒廃し、犯罪者が跋扈する。いいですか、こうした堕落を防ぐためにも、みんなが働き続ける必要があるのです」

「それじゃあ死ぬまで働けってことスか!」

「そんなこと言っていません。君は、“死ぬまで自発的に働く”のですよ」

「いやだ!もうこりごりなんだ、毎日毎日不本意な生活に耐え続けるなんてよォ」

「そうした邪念に打ち勝つためにも、働き続けねばならないのです」

「ウへヘ、労働は素晴らしい!きちんと働き対価をいただく、大宇宙の法則を体現した日々は充実感に満ちております!」

「ええそうでしょう、これからも働き続けましょうね」

「ふざけるなよ?」

「もうちょっと、もうちょっとですよ。ここで諦めて、本当の労働をわからないままでいいのですか?」

「なんでわかる必要があるんスか?」

「先ほど話したでしょう、堕落ですよ。たとえば、タダでもらう一万円と、働いていただく一円とでは、まるで重みが違うのに、堕落して楽な方へ楽な方へと進んでしまうと、平気で一万円をもらうようになる。その背景にある意味にまで思慮が及ばなくなるのです。いいですか、働いて金銭的に報われるということが、人間にとって何より大切なのですよ」

「生存を人質に労働させるから堕落が問題になって、一生労働に縛り続けるしかなくなるんスよ。てか、努力が報われる経験なら勉強でもスポーツでもゲームでもよくないスか?」

「そうやって嫌々働いているかぎり、本当の労働の姿は見えてきません。お勉強して報われても、所詮テストの点数が取れただけ。ここが労働との違いです。働いて金銭的に報われたということは、誰かに確かな形で認められたということです。つまり、君は社会に受け入れられたのですよ」

「だから、こっちはもうこりごりなんスよ。賃金を受け取るための無理やり創ったような労働が、そうやって正当化されて、どんどん人生が閉ざされていく」

「我々は誰も見捨てたくないのです、君にもきちんと社会に参加し続けてほしい、君を受け入れ続けたい」

「自動化できる技術が、目の前にあるのに、何なんスか?この日々は一体何なんスか?」

「またそれだ。君はすぐ機械に頼りたがる、いけませんよ、そういう怠け心は働いてきちんと克服していかないと。これだから、労働がなくなったら困るのです。あっという間に堕落して、気づいた時にはもう手遅れ、取り返しがつかないでしょうね」

「宣教師さん、正直に振り返ってほしいんスけど、今まで生きてきて新しい物事に接した時、あるいは新しい環境や状況に入った時、自分の感情や価値観の変化を正確に予測できましたか?起こることを正確に予測できましたか?」

「問題を矮小化してはいけません。案外大したことないとか、そんな風に楽観的に考えて、もし私が言った通りになったら、君は責任を取れますか?みんなの苦しみを背負えますか?」

「知らねーよ、んなもんどうでもいいわ。お前のアタマのイメージなんかより、目の前の苦しみの方が大問題なんスよ」

「君こそ今まで生きてきて学んだでしょう?苦しいならなくせばいい、こうした短絡的な発想は、えてして悪い結果をもたらします。だから、働きましょう、社会に参加しましょう、死ぬまで成長し続けましょう。大丈夫、あなたが一生働き続けられるよう、みんな一生懸命サポートしてくれますから。みんな、“働きたい”あなたの味方ですよ」

「うっ・・・・・・うっ・・・・・・ちくしょう、ちくしょう」


命は軽いよ

「命は重い」とヒトは言う
「命は尊い」とヒトは言う
「命を守れ」とヒトは言う
「何よりも、命が大事」とヒトは言う

「子供がかわいいからほしい」とヒトは言う
「子供が好きだから」とヒトは言う
「育ててみたいから」とヒトは言う
「親になりたいから」とヒトは言う
「生きる支えがほしいから」とヒトは言う

軽い気持ちから重い命がうまれる、なんて
惰性と欲望に従うだけで尊い命がうまれる、なんて
そんな、ずいぶんと都合のいいお話
誰のための?とても都合のいいお話

賃金と税金がヒトの価値という価値観を喜んで受け入れながら
命の重さを謳う、笑い話
自分たちで掘った穴を中途半端に埋めながら
人類の進歩を謳う、笑い話
子供たちの人生をドブに捨てさせながら
命の尊さを謳う、笑い話
命を蔑ろにする服従と迎合を繰り返しながら
イノチがダイジと謳う、笑い話

うまれてきた障害者が、「命の尊さ」を教えてくれるのならば
障害者がうまれてこないヒトたちは、「命の尊さ」を知ることもなく
障害者と関わらないヒトたちは、「命の尊さ」を知ることもなく
障害者がうまれてくる前のヒトたちは、「命の尊さ」を知ることもなかった
今日も軽い気持ちから「尊い命」がうまれている

カネに目をくらまされ
「役に立つとは?」なんて考えもせず
「役に立たないお荷物」に散々敵意を向けておいて
惰性と欲望で「無能」をつくりだす
教育?愛?そんなもの意味ないよ
自分が散々「無能」に向けてきた敵意を
みんなも同じように「無能」に向ける、それだけの笑い話
「尊い命を守りましょう」「生きているだけでいい」
無理やりひねり出したような、不格好な答え
当事者になってから気づいても、とっくに手遅れでした
そんな笑い話

イノチがダイジ
ソレ以外なにもなくなっただけの話
ソレ以上の何も見出せなくなっただけの話
賃金(アメ)と不安(ムチ)でしつけられ
偶像としての空虚な道徳に
手を合わせ、頭を下げる、自己家畜化


“やるべきこと”をやる“気力”の枯渇

「人生がはじまった!」「人生が終わった」試験の結果に一喜一憂する受験生をみて、私は“気力”があるなぁと感じ入った。“人生が”、これは“今”に集中しきれているからこそ出てくる言葉である。その結果としての、大きな希望と大きな絶望。子供も、受験生も、就活生も、社会人も、そうやって“今”に視点を合わせることで、行動する“気力”をつくりだしている。

「将来について考えろ」とヒトは言う。これは要するに、都合のいいイメージ/不安で自分を駆り立てろ、そして“やるべきこと”をやれ、行動しろ、ということである。私たちは、「腹が減ったから木の実を拾って食う」というようなやるべきことではなく、学歴とかキャリア形成とか貯蓄とか、そういう“やるべきこと”を達成するために日々を積み重ねる必要があり、それを続けるために“将来”を考えるわけだ。大切なのはあくまでも“今”行動する“気力”を引き出すことであって、本当に将来を見てしまってはいけないのである。

 世の中には、ずっと“気力”を持ち続け、行動し続けることができる人もいれば、小学生くらいで“気力”が尽きる人もいるだろう。自分の場合は就職活動であった。私は、そこで“将来を見てしまった”のである。これは「どうせ自分なんてダメだ」「ここが自分の限界だ」ということではない。そういう感覚とは全く別次元の感覚で、“将来を見てしまった”人にはすぐに通じるだろうが、そうでない人にとってはただの甘えや屁理屈としか思えない、そんな感覚。みんなと共有してきた“将来”や“問題”が重要性を失い、世界がひっくり返ってしまったような・・・・・・。

 たとえば、頑張って就職して運悪く合わない職場に配属されたら、異動願いを出すなり、自分を変えて馴染む努力をするなり、転職を考えるなり、つまり自分で行動しなければならない。“こういう所”に打ちのめされたと言ったら、やはり「甘えるな!」「人生から逃げているだけだ!」と怒るだろう。頑張らない言い訳を並べてふざけているとしか思えないだろう。しかし大真面目の話なのだ。降りかかる困難は自然災害の類ではなく、人間関係の合う合わないとか、運の良し悪しでさえ、あくまでも人間環境・システムから生じる困難であり、どうしても「なんでこんなことで努力しなくちゃいけないの?じゃあいつまでやればいいの?」と思ってしまう。そして「いつまで?」の答えは、「死ぬまで」「ずっと」なのである。

 シャカイの設定、道徳、知能容姿性格ナンタラ能力病気や障害周りの人間・・・・・・自分ではどうにもできない所で勝手に発生し続ける穴を、自分が努力してせっせと埋めていく。起業・独立も資産運用も異動も転職も自己変革も、提案される“解決策”はどれも何の希望もない、シンドイものでしかなくなった。「めんどくさい」とか「自分には無理」とか、それ自体に抱く感覚ではなく、訳も分からずポコポコできる穴を、ひたすら埋め続ける不条理、途方もなさ、虚脱感、閉塞感。この構図・構造がムリ、人為であることがムリ、コレがどこまでも続いていくのがムリ。空間的にも、時間的にも、既に蟻地獄に囚われて詰んでいたのだと思ってしまった瞬間から、“気力”は急速に失われていった。「努力が報われないから嫌だ!」ではなく、「いつまで努力して報われればいいの?努力が報われても努力が報われても努力が報われても・・・・・・報われた?」という徒労感。

 “将来を見てしまう”きっかけは、多分裂け目に入ることだろう。たとえば学校のイジメで引きこもりになったとして、普通は「人が怖くなった、信じられなくなった」という思考に進むのだろうが、何人かはここで“見てしまう”のである。「勇気を出した、努力した、自分を変えた、問題を解決した、として?あと何回?」受験の失敗、就活の失敗、仕事の失敗、恋愛や家庭の失敗、あるいは困難を乗り越えて荷が下りた・・・・・・学校/勉強/受験/学生生活/労働/キャリア/家庭といったシャカイ生活の“大きな流れ”が切れた時、不意に“見てしまう”のである。

 私は就活で「学生時代に頑張ったこと」を話す自分が心底気持ち悪かったが、ここで「乗り越えよう!」と思うより先に“見てしまった”のである。乗り越えた、として?その後は?「社畜になりたくない!」でも「嘘をつく“成長”なんていらない!」でもなく、ただただ思った、“こういうこと(穴埋め作業)”いつまでやればいいの?あれ?一度“今”への集中がプッツンしてしまうと、“気力”が空気のようにプシューッと抜けてしまい、二度と元には戻れない。それでもシャカイでやっていこうとするなら、お薬などで誤魔化すしかない。

 アパシー、ウンタラ神経症、カンタラ障害、非精神病性ひきこもり、新型うつ・・・・・・シャカイは常に「お前(不適応者)が悪い、お前が異常」というスタンスだし、書いてきた内容からも、とても悲惨に思えるだろうが(実際シャカイ的には悲惨だが)、心理的には(周囲の説教や生活困窮がなければ)“以前”よりずっと快適で、将来不安もなくなる。もちろんこれは不安を克服したのではなく、不安さえ虚無に飲み込まれていっただけである。圧倒的な不条理を前にすれば、“将来”や“問題”は一切の重要性を失う。後は「もういいです、やめます」というだけ。「今を生きる!やりたいことをやる!」という前向きさではなく、“見てしまった”いじょう観念する以外ないのである。

「あ」「え?」「は?」と我に返る、その圧倒的な実感の後では、穴埋め作業をする“気力”も、自己肯定感など(穴埋め作業(のための穴埋め作業(のための・・・・・・)))で自分を奮い立たせる“気力”も、もう湧いてこない。力を入れようと思っても、体にも心にも力が入らない。といっても、“やるべきこと”をやる“気力”がなくなるというだけで、好きなことを楽しむのは何の問題もないし、「あれを理解するためにまずこれとこれを勉強しよう」と積み重ねるのも何の問題もない。要するに、生きること自体に何の問題もない。だから正直言うと、今まで優先順位の一番上を不当に占拠していた“やるべきこと=穴埋め作業”が、本来の場所(奈落)に戻っただけだと思っている。


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遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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