あなたの現実と「私」の言語的な現実

「結局甘えているだけ」「つらいのはみんな同じ」「他にもっと大変な人がいる」・・・・・・意を決して弱音を吐いたのに、こうした言葉を返されてしまい、あ~あ言わない方がマシだったと後悔する、なんて経験のある方は多いと思う。「お前が自分で選んだんだろ」「そんなことで弱音を吐いてちゃダメ」「君にも悪い所があった」と一方的に判断される。「なにが自己責任だボケ!」「ろくに知りもしないくせになんだこいつは!」「そういうことじゃねえんだよ!」などなど悔しい気持ちでいっぱいになり、これからは他人に相談なんてするぐらいなら我慢するぞと誓い、「他人なんて所詮そんなもんだよなぁ、わかってくれないよなぁ」と孤独に気づいていく。

言語を経由するいじょうこうなるのは仕方ないと思うかもしれない。自分が経験している現実をそのままトレースしてもらうことはできないので、24時間365日経験している現実を言語で表現するため抽象し、相手が理解可能な形=平凡な形にしなければならない。その甲斐あって相手も「理解」できてしまうから、その「理解」に基づいて発言してしまうのである。たとえば「毎日パワハラとサビ残でつらいです。死ねと言われます。もう耐えられません」といった言語表現を「理解」することは容易なので、その「理解」の正しさを疑えないと「世の中そんなもんだよ。それでもみんな我慢してるんだから」などと言ってしまいたくなる。「理解」して共感すると、「自分なら○○するのに!」と思ってしまい、「なぜ○○しなかったのか」と責めたくなる。

これは仕方ないことではない。というのも、私たちが「言語を経由している」こと、つまり現実を理解可能な形に矮小化している事実を忘れることで生じるからである。当人が直面しているのは「毎日パワハラ」という言語表現ではなく現実であり、常にそれに伴う苦痛・ストレス・重圧・不安に悩まされ、意識できないレベルで変調をきたし、家でも心が休まらなくなり、連鎖的に仕事や人間関係や日常生活がうまくいかなくなったりする。現実は一瞬一瞬の積み重ねであり、苦しみは表現できる部分よりむしろ表現できない部分の方にある。表現できる(理解可能な形にできる)苦しみより表現できない(理解可能な形にできない)苦しみの方が大きい。私たちはこうしたことを忘れてしまっているが、忘れているのはこれらにとどまらない。

たとえば「毎日パワハラ」ときいたとき、私たちは「私」に引き付けて考えてしまう。記憶や想像力を使い、「私」を基点に類推・推論してしまうのである。これ自体は仕方ないことであるとはいえ、ここでも私たちは「私」を基点に考えていることを忘れている。相手との感覚・精神構造の違いを忘れ、「私」が人間の代表であるかのように自然と思考してしまう。その思考の結果はほとんど「外れ」なのだろうが、「言語表現上は」当たったようにみえるので、それで理解したと自信を深めてしまう。しかし、私たちの「理解」とは、相手が相手の現実を他人にも理解可能な形に加工した言語表現を、さらに「私」を基点とした意識的・無意識的な思考で加工したものでしかない。それは少なくとも二重に矮小化されているのである。

こうしたことを忘れてしまうことで、ただひたすら我慢を強いるだけの言説が溢れ、「どうせわかってない/助けてくれない」といった不信の念を抱かずにいられなくなる。そうなると当然頑張るのがつらくなる。「あなたの気持ちはわかります。けどつらいのはみんな同じですから我慢して頑張りましょう」で頑張れたら苦労しないだろう。不信の念があったら助言がいくら「正しい」ものでも、実践し続けるのは難しい。しかし現実的には学校・会社システムが要求する「正しい」ことをして「適応」の努力をしなければならない。逆説的だが、この葛藤から手っ取り早く解放してくれるのが崇拝である。システムの勝者や教えを崇拝し、信じ切って身を預けてしまえば、「適応」もできるし、苦悩も棚上げされる。

苦悩を棚上げできずにそれに取り込まれてしまうと、悲惨な人間競争に参加することになる。相手がわかってくれないならわかるように表現すればいい、こうして(言語的な)悲惨さを(相手が理解できる範囲で)追求するようになり、「障害」「トラウマ」などなどがその文脈から離れ、普通の人にはない特別な経験・属性を示す言葉として使用されるようになる。しかし最近では「障害があっても頑張っている人がいる」「つらい過去にいつまでも囚われてちゃダメだ」と言われることからわかるように、それらも「平凡」の中に回収され、自分の現実をただの悲劇的ストーリーにしただけでわかってももらえず、そのうえ実際に困っている人の現実が矮小化される結果となっている。

私たちは「言語を経由している」ことを忘れてしまう。その過程で自分の現実を相手が理解可能な形=平凡な形に「せざるをえない」ことを忘れてしまう。「私」を基点に思考していることを忘れてしまう。理解したと勘違いしてしまう。「判断」を現実と勘違いしてしまう。私たちは単純な事実を忘れ、勘違いしたまま、(言語による)コミュニケーションへの信仰を深めている。言語表現による選別は日常に浸透し、言語的にうまく表現できる者が成功・支持・支援を手にする一方で、それができない者の現実は矮小化され、「みんな我慢している」で済まされてしまう。崇拝も悲惨競争もできない人は我慢するしかなく、崇拝や競争に走った人も救われはしない。私たちは誰とも人生を共有できていないから現実や自分自身を矮小化してでも言語で表現せずにはいられない、しかし単純な事実を忘れ勘違いしてしまう、その結果が互いに互いの現実を蔑ろにし合うという孤独であり、互いに互いを選別し合うという孤独なのである。


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『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んで


たまにはマンガ読むか、なんて軽い気持ちで購入したら、中学2年生の日常系ギャグの装いで、とんでもない一撃をくらわされた。読み終わって数日たっても、憂鬱が心にまとわりついてくる。別に悲劇の大事件が起こるわけではない。こぢんまりとした、小さな世界の日常、そのスケールに見合った小さな事件。しかし作品に引きずり込まれることで、ジワジワと心を蝕まれるような、不快感、憂鬱に囚われる。いよいよ耐えられなくなり、こうして言語化せざるを得なくなった。

千恵(ちーちゃん)は成績も悪く、落ち着きもない。欲求に忠実で善悪の区別もつけられない、言葉も考えも足りない、家も貧乏。「ちょっと足りない」?タイトルから物語の主人公はちーちゃんだと思うし、実際最初の数話はちーちゃんを中心に話が進む。

「いやっ あげねーよ!?自販機あるから自分で買え!」

「でも!8円しかねえ!」

「8円ってうまみ棒1つ買えないじゃない」

「あと2円あったら うまみ棒が買えるのに!」

「当初の目的と変わってるよ!」

「さて問題 80円あったらうまみ棒は何本買えるでしょうか?」

「!?えっと 10円が8個だから・・・うまみ棒8本買える!?」

「おっ 正解」

(中略)

「じゃあ次の問題 80÷10は?」

「えっ わる?急に数学の問題?」


物語の開始は女子3人の登校シーン。ちーちゃんに突っ込んでいるのがナツ。ちーちゃんとは小学校からの付き合いで、同じ団地に住んでいる。成績はちーちゃんよりはちょっと良い程度で、家は貧乏(全く何も無いわけではない)、他の人に比べ色々と「足りない」ことに悩んでいる。問題を出してちーちゃんをからかっているのが旭。成績が良く、家は金持ち、3年の先輩と付き合っている。二人とは中学からの付き合いで、家が近いから一緒に登下校し、学校でも行動を共にする。

ちーちゃんを中心とした日常の話が続く。宿題のプリント、中間テスト。学級委員長の奥島君や副委員長の如月さんに勉強を教えてもらう。ちーちゃんとナツの寄り道。お店にいたのは見た目が派手な藤岡さん、怖いから二人とも苦手。しかし彼女は祖母の介護のために仲間内で一番だったバスケを諦め、妹たちの面倒もみている。顧問へのプレゼント代500円を払えない人に代わり、自分が1000円出す、といった一面がある。

ある日、事件が起こる。プレゼント代3000円が教室で盗まれたのである。「ねえ取ったのって南山さんなんじゃない?」ちーちゃんが疑われる。「あいつはバカだけどそんなことは絶対しねえよ お前が千恵のこと盗っ人扱いするんじゃねえ」旭は相手の胸ぐらを掴んで激昂する。ナツは何もできない、言えない。翌々日の放課後、「なっ あいつらの金なんてしらねーよな千恵」「うん とった!」結局犯人はちーちゃんだった。

ちーちゃんは旭に引きずられ謝罪に向かい、旭は胸ぐらを掴んだ相手に「本当に申し訳ない!」と頭を下げる。旭に怒鳴られちーちゃんは嫌々金を返す。しかし既に誰かに「あげて」しまい1000円足りない。怒り狂う旭、抵抗するちーちゃん、そこで藤岡が機転を利かせ、その場をうまく収める。彼女の良い面が明らかとなり、事件がきっかけでみんなの関係が深まる。

実はここにナツだけがいない。中心がちーちゃんからナツに入れ替わっていたのに、肝心のナツがいない。どうしてもリボンが欲しくて1000円を受け取っていたのに、ナツがいない。昼休みにお金の話が出たので仮病を使い保健室に逃亡し夕方まで寝ていたから、ナツがいない。ナツのいない所でみんな成長し、関係を深め、世界が変わった。

さて、「ちょっと足りない」とはどういうことか。「足りない」のはモノか、点数か、恋人か。「足りている」をみることで、それがちょっとだけみえてくる。とはいっても、では「足りている」とはどういうことなのか。その内容をおぼろげながらでも掴むため、「足りている」人をみてみよう。

旭は胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた相手に頭を下げた。この点にかんしては「足りている」と言えそうだ。しかし旭も最初からそういう人間だったわけではないだろう。誰しも「謝る」に関する思い出はあるはずで、小学校に入るか入らないか、後から考えれば取るに足りない悪事だが、小さいあなたは全人生が凝縮したような痛みを胸に抱え、(わざとじゃないのに)(誤魔化せないかな)などと思考し、正直に謝るかどうか葛藤する。結果がまるでわからない不安。ここでちゃんと謝って償う方を選べば、大抵の人は許してくれるし、それによって他人に対する基本的信頼が生まれ、関係も深まる。謝らなければ、誤魔化しがうまくいったとしても、関係の発展はないし、罪悪感や不安が残り、正当化に時間を費やすことになる。ここで良い方に進むことができれば、次も良い方に進む可能性が高まるし、良質な経験を積める可能性も高まる。

今でこそ「足りている」旭も最初の方でどちらに転ぶかは多分「ちょっと」の差だった。ちょっとだけ勇気が出せたとか、そういう差。それをうまくものにしていき、良い方良い方へと進み、良質な経験を十分に積み、「足りている」状態に至る。「足りている」とはそんな積み重ねの結果であり、ここでの「足りている」をあえて言葉にするなら自己肯定感とかそんな感じだろうか。とはいえ、そんな旭も、そうなる過程や分岐点を突き詰めればちょっと足りたか足りなかったかである。

旭は学力も(多分)「足りている」が、きっと最初はちーちゃんのように割り算もできなかっただろう。しかし、参考書を買ってもらえたかもしれないし、親が教えてくれたかもしれないし、自分で努力できたかもしれないし、運よくわかるきっかけに出会ったかもしれない。対してちーちゃんやナツは、「ちょっと」お金が足りないと言われたかもしれないし、「ちょっと」教える時間がないと言われたかもしれないし、「ちょっと」粘れなかったかもしれないし、「ちょっと」運がなかったかもしれない。しかしそんな「ちょっと」の差によって、経験の質にも差が生じ始める。同じ授業を受けるなど一見「同じ」経験をしているようでも、実は全く別の経験になっている。ここでの「足りている」は良質な経験によって磨かれたセンスとか取り組む姿勢とかそんな感じだろうか。

些細なことでもちょっと足りたか足りなかったかで気分は大きく変わるし、気分が変われば他人への接し方も変わるし、粘る気力も変わるし、それによって・・・・・・。人生はそんな「ちょっと」の積み重ねであり、私たちは一瞬一瞬の「ちょっと」が織りなす因果連鎖の中にいる。あってもなくてもどうでもよかったと思う事も、忘れてしまった事も、確実に人生を構成するピースである。「足りている」が無数のちょっと足りたの積み重ねなら、同じように「ちょっと足りない」は無数のちょっと足りなかったの積み重ねである。

随分大袈裟だと思われるかもしれない。「ちょっと足りない」なんて、所詮は「ちょっと」の差じゃないか。誰だって何歳からでも謝れるようになるし、努力すればテストの点数も上がるし、自分を変えてリーダーになることもできる。確かにそうである。「足りている」を個別に捉えていけば、一見その差は「ちょっと」であり、頑張れば何歳からでも「ちょっと足りない」を克服できそうな気がする。

「もうちーちゃん おはしが武闘派シーフのダガーナイフの持ち方みたいになってる!」

「こうだこうだプチトマトのやろーは」

「おはしの持ち方ちゃんとしないと恥かいちゃうよ」

「まあ厳密にいうとナツもはしの持ち方間違ってるけどな」

「え?」

「ペンと同じ持ち方になってる よくある間違いだな」

「くわしいんだね旭ちゃん」

「いやまあそういう作法とかおかんがうるさくてな」

「僕もおはしの持ち方はよく怒られたなー」

「私もだよ どうでもいいよねはしとかマナーとか」

(みんな知ってるんだ 私のお母さんそんなこと教えてくれなかったな
 底辺だ
 バカで貧乏な私は品性まで欠けてて親の差まである どうしようもないな
 (中略)
 奥島くんは私やちーちゃんみたいな底辺とかかわるの
 恥ずかしくないのかな うざったらしくないのかな
 何か足りないものはないの?
 怖いものはないの?
 嫉妬するものはないの?
 なんでみんな 不満そうな顔すらしないの
 そんなのおかしいよ せこいよみんな)


「おはしの持ち方」ぐらいで気にし過ぎだと思うかもしれないが、ここにあるのは「おはしの持ち方」だけの差ではない。仮にナツが「おはしの持ち方」を直したとして、それで解決する話ではないのである。というのも、この背後には良質な経験が無数に積み重ねっているから。「おはしの持ち方」はその端的なあらわれでしかないから。格好だけコピーしたところで、良質な経験をトレースして品性や雰囲気や寛容さや心の余裕までコピーできるわけではない。自然と上に立とうとしてしまう、そんな生き方が変わるわけでもない。「足りている」と「ちょっと足りない」との間には、一度それを感じてしまったら、どうにもならないと途方に暮れる他ない恐るべき溝がある。

「足りない」ちーちゃんと、「足りない」ちーちゃんを(自分と比べ)「ちょっと足りない」と見ることで「ちょっと足りない」自分に安心する「ちょっと足りない」ナツ。二人以外はみんなそれぞれ100点満点の人たちだが、しかし世間の100点満点の人たちと同じで、そこまでなのである。しっかりと良質な経験を積み重ね、「足りている」が日常に溶け込んだ人たち、「ちょっと足りない」がどういうことかきっともうわからないだろう人たち、他人が「ちょっと足りない」かどうかなど気にする必要がない人たち。自分たちが「足りている」側として快適に生きていける世界・社会を当たり前のこととして受け入れ、しっかり適応し、充実した人生を歩む。「足りていない」人を見下すことはなく、頼まれれば苦しむ相手に優しく手を差し伸べる。しかし「足りていない」を「足りていない」たらしめる世界・社会に対してだけは、何も言わない。

「私らももう少しすれば大人だ。欲しいものは自分の力で手に入れられるようになる 楽しみじゃねえか。ちょっと足りなくたってどうだって楽しんで生きていけるだろ」


藤岡の100点満点のセリフ。彼女の成績や家の財政は不明だが、器の大きさを感じさせるし、咄嗟の判断力もある。彼女も「足りている」側だ。だからだろうか、この素晴らしい正論に漂う妙な圧迫感。素晴らしい人物の、素晴らしい発言。汚い所、間違っている所、悪い所が何一つない。受け入れなければならない(世界・社会と一緒に)、そんな圧迫感。

「足りない」ちーちゃんはモノ(ゲームなど)が買えないことしか気にしていないし、楽しんで生きていけそうである。というより彼女は傍からみたら色々と「足りない」が、そのことは気にしてないからむしろ「足りている」と言える。しかし「ちょっと足りない」ナツは違う。周りをみて、自分が「ちょっと足りない」と気づき悩みながら、その背後にある無数の「ちょっと足りない」に絶望し、行動を起こせず何も変わらないまま生きていく。あれもこれも何だか全てが足りない、何のせいにすればいいかわからない全てが足りなかったからこうなったけど何をどうすればいいかもわからない、そんな「ちょっと足りない」に囚われて生きていく。

件の1000円でリボンを買ったナツは、これで中学生活が変わると妄想しながら登校するが、それはみんなの無関心さによってあっさり打ち砕かれる。そういう表面的な「ちょっと足りない」ではないのである。モノではないし、はしの持ち方でもないし、テストの点数でも恋人でもない。仮にナツがこれらを全て望むようにできたとしても、ナツは「ちょっと足りない」ままだろう。モノが充実しても、作法をコピーしても、テストの点数が同じになっても恋人ができても、「足りている」側にはなれない。たとえば死ぬほど勉強して点数を上げても、良質な経験で磨かれた知恵やセンスの前ではそんな数字など取るに足りない。

思えば中2という設定が絶妙で、この時期は周囲をみて「ちょっと足りない」と認識し、その深刻さにも気づき始める頃だろう。未来を考えさせられ、自分が容赦なく足切りされる現実を突きつけられる。小学校の頃とはすっかり変わってしまったことに焦り、「足りている」人との差に戦慄し、生き方や自己に対する肯定と否定を繰り返す。これでいいんだ、いやダメだ他の人と比べて足りてないじゃないか。「足りない」ちーちゃんは社会科の中間テストで23点を取って喜び、奥島や如月はそれを屈託のない笑顔で褒める。ちーちゃんのように、他人と比べることなく、自分のささやかな成長を喜び生きればいい、と言われても、ナツにそれができるだろうか。確かにまだ中2で未来があるとはいえ、この作品はささやかな希望に縋ることさえ許さない。

「とったからお金 フジオガに返すからお金ためて」

「・・・・・・・・・・・・返さなくていいよ藤岡さんになんて あともう旭ちゃんとも遊べないから」

「?なんで!」

「なんでも いーい?」

「うん」


全てが捻じ曲がるようなやり取り。ナツは未来からも世界からも排除される方へとズルズル下っていく。そうとわかっていても、そうしたくなくても、「ちょっと足りない」からそうするしかない、そうなるしかない。ナツは「足りている」側にもなれないし、生き方を変えることもできないだろう。何の可能性も無い閉塞感。「ちょっと足りない」がブラックホールのように、自分の人生だけでなく他人の人生をも飲み込んでいく。

翻って、私たちはどうだろうか。あまり考えたくない?藤岡が言うような/ちーちゃんのような生き方ができるわけではないから。つまりナツと同じように・・・・・・。常に他人の目を気にし、比較し、自分より足りない相手には優越感からくる親しみや付き合いやすさを覚え、足りている相手には劣等感からくる不信や居心地の悪さを覚え、結局は広い狭いに関わらず似た者同士の「狭い」交友関係に安住し、互いが互いに自分よりダメな部分を見出してホッとしながら、自分が「ちょっと足りない」とわかっているのにどうすればいいかはわからない、「ちょっと」のくせにあまりに巨大で漠たるくせにあまりに確たる、そんな満たされなさをモノや恋人や子供に何かを期待し誤魔化しながら、行動できずに立ちすくみながら、世界の方が自分に都合よく変わってくれると妄想しながら、グルグルと思考し自分で自分を傷つけながら、生きていく。「あなたもでしょ?」とナツという鏡に突然「人生」を剥き出しで映される不快感。受け入れざるを得ない憂鬱。身も心も立ち上がることを拒絶するように、ズブズブ沈んでいく。そんな体験を提供してくれるお話。永遠に光差すことのない、泥の海の底のようなお話。


「コミュニケーション能力」とは何か

企業が就活生に「コミュニケーション能力」を求めるようになって久しい。「コミュ障」や「アスペ」といった差別用語?も広まり、「コミュニケーション」を重視する姿勢はすっかり社会に浸透した。こうした傾向に対し、識者たちは「コミュニケーション偏重主義」「空気を読むだけ」と批判し、グローバル化やら高度化する仕事やらについていけなくなると警鐘を鳴らしている。

しかし逆に言えば、ついていく必要を感じてないから「コミュニケーション」を重視しているということである。もし仮に我々が重大で切迫した問題に直面していたら、「コミュニケーション」なんて重視するだろうか?つまりそういうことである。実際にヤバかったら「コミュニケーション」のことを気にする暇など無い。問題解決に向け必死になって協力しようとするはずである。

要するに、暇になったのである。やることがほとんどない、しかし諸々の事情(「しょうがないだろ!オレたちは働いてカネを稼がなきゃいけないんだよ!」)でそれを素直に認めるわけにはいかず、意識的・無意識的に忙しくしようとして発見したのが「コミュニケーション」という広大なフロンティアであり、それが今日のコミュニケーション・ブーム?につながっている。(社会的には)頑張る必要がないのに限られた雇用のイスを巡って(個人的には)頑張らなければならない=競争しなければならないから、「コミュニケーション」で競争しているのである。

さて、学校なりサークルなり職場なりで何かしらの企画をやった時のことを思い出してほしい。新しい試みなど何もすることなく、そもそもわざわざ新しい試みをする必要などなく、「何となく決まっていたこと」を進めていくだけである。したがって大変な思いや苦労をしなくても構わないのだが、「それではいけない」ので、話し合い、対立し、「必要なこと」を増やし、友人や先輩に相談して友情や信頼を深め、残ったり徹夜したりし、右往左往しつつも「何となく決まっていたこと」の「枠」からは外れないようにし、大成功でもって成長や充実を得る。「何となく決まっていたこと」を進めるだけでは競争にも成長にもならないからといって色々と「らしさ」を加えることで、複雑さだけが無駄に増す。

複雑さが無駄に増すことによって脱落者が出る。対立に執着する者、「枠」から外れる者、従わない者、合理化しようとする者・・・・・・こうした人たちは集団から排除され、「コミュ障」「アスペ」と認定される。つまり、この「何となく決まっていたこと」を複雑に実現していくことに貢献する能力が「コミュニケーション能力」なのである。

この能力は当然個別の「コミュニケーション」でも重要になってくる。たとえば「志望動機は?」「本音は?」「本当は?」というやりとり。「動機」も「本音」も「本当」も言語化は極めて困難で、こうしたことを言葉にして表現する、言われた方がきちんと解釈する、これは非常に手間のかかる共同作業(コミュニケーション!)であり、どちらの側にも相当な知力と根気が求められる。考えるまでもなく、この作業を遂行している人間はほとんどいない。

それでは常日頃人々が行っている「コミュニケーション」は何なのかというと、これも「何となく決まっていたこと」の実現なのである。たとえば「○○ちゃんには興味ないよ」は「本音」と認められず、「実は○○ちゃんのこと好きなんだ」は「本音」と認められる。「本音」は相対的なもので日々流動するが、要は相手・みんな・社会が本音と認めているものが「本音」。本音だから言いづらいのではなく、言いづらいからそれが「本音」。「言いづらいこと」は社会的にかなり共有されているので(「何となく決まっている」ので)、個別の「コミュニケーション」ではそれを相手や集団や状況に合わせて調整し、いかに「本音」と認めさせるかの勝負になる。

「志望動機」も同じように「何となく決まっていたこと」である。これは当たり前で、相手を納得させるには「何となく決まっていたこと」に頼る方がいいし、面接する方も「何となく決まっていたこと」でないと納得できないだろう。しかしあまりにも典型的な「何となく決まっていたこと」だと印象が悪くなるので、「何となく決まっていたこと」の「枠」内でいかに好印象を与えるかの勝負になる。「枠」の範囲でうまくやるセンスは無駄に複雑な日々の労働をこなしていくには必要なので、「志望動機は?」という質問は理に適っている。

「動機」も「本音」も「本当」も、誠実に語ろうとすれば「わからない」「みんなやっているから」としか表現しようがなかったりするが、それでは競争にならないし、その責任を個々人に引き受けさせることができないので、「何となく決まっていたこと」を「お前の動機/本音/本当」ということにするのである。わからない?ならもっと内面を掘り下げろよ!みんなやっている?ちゃんと自分の言葉で話せよ!ほら!ほら!・・・・・・こうやって「何となく決まっていたこと」を当人の口から「当人の言葉」で語らせ、「お前の言葉」なんだからそれが「現実」そのものなんだよ!ということにする。「動機」「本音」「本当」と認めてもらうには誠実さを捨てねばならず、そうして絞り出される不誠実な言葉が「意欲/愛/信頼の証」とされる。「所詮は言葉遊びなんだから現実と一致するわけないじゃん」なんて態度は許されない。不誠実な言葉を誠実に語る狂気の競争、この途方もない滑稽さについていけない者は脱落し、例の如く「コミュ障」「アスペ」ということになる。

つまり現代社会における「コミュニケーション」とは(メディアや人間関係を通じて内面化した)「何となく決まっていたこと」を現出させる共同作業であり、「コミュニケーション能力」とはそれに貢献する能力である。単純なことを複雑に、簡単なことを難しく、不誠実な言葉を誠実に、この不条理に没入する能力。技術の進歩や機械化のおかげで社会的にはやることがなくなったのにそれを素直に認められないせいで「必要」になってしまった能力。オレは本心を話してるぞ、バカにしやがって!と怒る人もいるかもしれないが、まさにそれこそが「競争社会」に適応的なあり方なので、夢から覚めたくないならその気持ちを大事にしてください。


思考より試行

先日、「やりたいゲームを我慢し続け、大人になって買ったら全然楽しくなかった」といったツイートをみかけた。悲劇である。我慢しているうちに、年を取って楽しむ能力(体力や集中力)がなくなってしまった。感覚が変わってしまった。やる気がなくなってしまった。ふむ、しかし、そもそもそれは本当にやりたかったことだったのだろうか?

現代社会の生活は強制と義務の連続である。学校・受験・人間関係・労働税金労働税金・・・・・・我慢するばかりの毎日。しかし人間はただ我慢し続けることができない。そこで「先延ばし」である。「これ面白そう!」と思ったら、早速やってみるのではなく、目の前にぶら下げるニンジンにする。さらには「自分は○○な人間だからきっと××が好き/向いているに違いない」などと思考してイメージ・幻想=ニンジンを創出してしまう(就職活動ではこれができるかどうか試験される)。

幼少の頃から大量の「やるべきこと」を押し付けられる社会には、色々と自由に試す余裕が存在しない。となると「やりたいこと」「好きなこと」には少ない試行で辿り着か「ねばならない」が、当然そんな簡単に当たりを引けるわけもなく、したがって「これだ!」と思い込み、それを試さず先延ばしにすることになる。「いつか○○したい」「退職したら××するのが夢」と先延ばしにし続け、いざやろうとしてみたら/やってみたら・・・・・・思ってたのと全然違う!はて、自分は一体何をしていたのだろうか?日々の苦しみに耐えるために、合う/合わない感覚よりアタマ・思考(思い込みやイメージや幻想)を優先してしまうことで、えてしてこうした悲劇が起こる。

かつて私がまだ奴隷社会に適応しようと奮闘していた頃、私は海外に大きな幻想を抱いていた。理由は不明だが、当時の「理由」としては、「自分は好奇心旺盛だから、きっと海外旅行が好きに違いない」みたいな感じだったと思う。一人で海外旅行をすれば、価値観がひっくり返るような経験ができるのではないか?海外が何かを変えてくれる。海外が灰色の毎日を変えてくれる。いつか、働いてそれなりにお金が貯まったら・・・・・・。私もまたアタマを優先して幻想を創り、日々の苦痛、延々と続く強制と義務に何とか耐えようとしていたのである。

今思えば、大学在学中に無気力になったのが僥倖であった。感覚よりアタマを優先させる生き方が嫌になったのだろう。だが当時の私にはそうした認識もなかったので、幻想に従い海外に救いを求めた。

カネを貯めるためにアルバイトをやったのも良かった。一か月弱で辞めたのだが、初めての給料の数値を眼前にしたとき、ATMを破壊したくなるような衝動にかられた。心身ともに消耗しまくって、これっぽっち!?「自分で稼いだカネ」に対する感動は微塵もなく、あったのは賃金労働に対する憎しみだけ。こんなはした金を「お給料」とか言って有り難がれ?人間を舐めるのもいい加減にしろ。たった一か月弱の経験ではあるが、この賃金労働への幻滅がなければ、「働けばどうにかなる」といった労働万能幻想に囚われていたかもしれない。

海外旅行に出発。たった十日だったが、一人での旅行。海外旅行が好きな人からすれば十日程度で、と思われるかもしれないが、私はこの旅行のおかげで他国の文化・絶景・人々・食べ物・空気などなど、どれにもあまり興味が無いことがわかった。別に好きでもなんでもなかったのである。日本に帰ってきたとき抱いたのは「もう日本の・・・・・・いや、住み慣れた地域の外には出たくない。安住したい。外出は好物を食べに行く時だけで十分」という思いだった。海外に行ったことで何かが変わったのは確かだが、それは私が思い描いたような変化ではなかった。幻想が破壊され、胸に穴が開いたような、「自分は何をしていたのだろう?」と我に返ったような感じだった。

私は毎日読書をして文章を書いてたまに好物を食べに出かける、というだけの単純な生活を送っているが、この生活に「これだ!」と一発で辿り着いたわけではない。私もまたありきたりな幻想を色々と信じ、アタマを優先させる生活を送っていた。ただ人より早く脱落し、学生だったことが幸いして色々と試行でき、幻滅を繰り返し、合う方合う方に進んでいるうちに自然とこうなっていたのである。だからこそ満足度も高いし、「合っている」という感覚が正しさへの確信にもなっている。

現代社会では幼い頃から将来の職業を「考え」させる。早期に自分の道を「発見」することが称賛される。学校・人間関係・労働・税金といった強制と義務の連続が時間を根こそぎ奪い取る。このような環境に適応する中で習得するのは、「これが自分のやりたいことだ」と思い込み、それを目の前にぶら下げ自分を鼓舞して日々の苦痛に耐える、そんなスキルである。「あれをやれば何かが変わる」、こうしたイメージや幻想で自分を駆り立てるスキルである。しかし、所詮はアタマの中の思考。自分が「○○な人間」かどうかは時と場合によるし、○○な人間だったとしても××が好きとは限らない。いくら根拠を積み重ねて論理的に思考したところで、××を好きになるわけでもない。自分が「これがやりたいことだ」と信じていても、実際にそれがやりたいことかはやってみるまでわからない。

私は海外への幻滅を通じ、自分(人間?)が幻想を強固に信仰できてしまうことを思い知った。あの時行ってなければ、私は今も奴隷社会の要請に従ってアタマを優先させていたかもしれない。試行して「好き」や「やりたい」が現実と違ったとしても・・・・・・幻滅による空虚感と無気力、それでも容赦なく畳みかけてくる義務、義務、義務。結局は明日を生き延びるため、別の幻想に縋らざるを得なくなり、欲求と一緒に破局も未来に先延ばしする。幻想から幻想へ、そして訪れる大幻滅。現実とアタマの不一致が顕在化し、自分が何をどうしたいのかわからなくなる。

負のスパイラルをどこかで絶つ必要がある。ニンジンをぶら下げて自分を駆り立てる、バラ色の幻想を創って縋る、そもそも人間に合わないことを無理やりやらされ続けるからこうしたスキルが必要になるのである。思考を優先させ続ければ大抵の人はどこかで潰れるが、義務と強制は待ってくれない。精神的に借金漬けにして逃げられなくするシステムである。このシステムには必死になって消耗してまで従う価値がないことを認識し、アタマが創った幻想を試行による幻滅で地道に潰し、合う/合わない感覚を取り戻していく必要がある。思考より試行である。


他人の背景はわからないということ

いじめによる自殺といった話を耳にすると、結構な数の人が無意識のうちに犠牲者を責めてしまう。本人が弱かったから、いじめに耐えられなかった。コミュニケーション能力が低かったから、いじめられた。犠牲者に原因を帰属させ、責めるのである。「どうして相談しなかったのか/逃げなかったのか」「大袈裟に考え過ぎだ」などと言う人もいるが、これらもまた「できなかったこと」や「考え方」に焦点を当て、犠牲者を責めている点では変わらない。

いじめはいじめられる方も悪い。そう、「悪い」のである。悪いから責める。逆に、いじめる方は、悪くないから責められない。「いじめはいじめられる方も悪い」に代表される「責め」の言説は、いじめる方を免責し、いじめられる方に「悪い」を移行させるものである。

いじめ、不登校、自殺・・・・・・。こうした話を聞くとき、私はある種の「気持ち悪さ」に気づくことがある。「どうせ本人のせいにされて終わるんだろうな」という諦めが圧倒的ではあるが、片隅には確かに幾ばくかの「気持ち悪さ」がある。しかし、自分とは全く関係のない人間の話を聞いて、なぜ「気持ち悪さ」が生じるのか。

「本人が悪いから悪いことが起こる」、私たちは悪い知らせを聞くとこう考えてしまう。因果応報、信賞必罰。このように考えるのは人間の本性かもしれないが、私は人間関係ゲーム(上か下か)と「競争」の浸透がこの本性を過剰に引き出していると思う。人間関係ゲームに支配されたコミュニティでは、成員は地位を守るため「減点」を回避しようとし、何かあれば(自分より弱い)他人に責任を押し付ける。「競争」で利益を得る人間は、「努力できなかった奴が悪い」と有無を言わさぬ形での正当化に飛びつく。また、こうしたことをされた方は「次こそは・・・・・・」と執念を燃やし、地位や利益を手に入れれば強く執着するだろう。そのためゲームと「競争」が支配する世界に没入し続けると、「責任は犠牲者の方にある(ことにする)/負けた方が悪い(ことにする)」といった「常識」を身に付けることになる。

つまり、「気持ち悪さ」の正体は矛盾なのである。報道では(一応)いじめる方の責任を問うので、日常生活で身に付けた「常識」と矛盾する。「当たり前」から逸脱している不快感。それで無自覚・無意識のうちに、自動的に、「犠牲者が悪い」ことにする。犠牲者に原因を帰属させ、責める。知らない相手を勝手に判断して、責める。犠牲者が悪いから責める。責めることで犠牲者が悪いことにする。自分の「常識」に合わせるためなら、見ず知らずの他人を「弱い」の一言で切って捨てることも躊躇わない。

私たちは「常識」を深く内面化しているため、「他人の背景はわからない」という当たり前のことを都合よく無視してしまう。他人がどうやってある決定・状態に至ったのか、わかったことにすることはできても、わかることはできない。たとえばヘマがきっかけでいじめられるようになって最後は自殺した人がいたとして、その人がたまたまある行動を取ったことで周囲の反応がちょっと変わり、神経伝達物質の出方もちょっと変わって、それが別の行動に結び付き、うまくいっていた流れが一転してヘマに結び付いたのかもしれない。これは極端な作り話だが、ちょっとした偶然は結果を大きく左右するし、その結果がさらに現実に作用し、未来を大きく左右する。

偶然だけでなく、遺伝・環境・状況に依るところも大きいし、個体差があるから何をどう感じていたかもわからない。こちらからでは他人の背景の断片しかわからない。その断片を言葉にされたらもっとわからない。しかし言葉にされることで、わかったことにすることは容易になる。たとえば「いじめを苦に自殺した」と聞けば、なぜか「わかった」と思ってしまう。残念なことに、それで自分がわかったことにしていることがわからない。自分の都合で判断してしまっていることもわからない。それどころか、本気でわかったと思い込み、本気で正当な判断だと思い込む。自分の背景(のごく一部)さえわからないのだから、他人の背景もわかるはずがない。

遺伝子、置かれた環境・状況、訪れた偶然、こうしたことの積み重なり=人生を蔑ろにし、無数の「わからない」を無視し、「弱いから死んだ」といった判断を具体的な個人に適用する。それも、自分の都合で。これはかなり残酷なことだと思うが、人間関係ゲームと「競争」に没入し続けてきたためか、多くの人が慣れてしまっている。「他人の背景はわからない」「これは勝手な判断にすぎない」「自分の都合で犠牲者を悪者にしようとしている」、いじめ自殺ばかりでなく、何かを知って/聞いて件の「気持ち悪さ」を感じたときは、こうしたことを思い出し、陥穽にはまらないようにしたい。


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