中途半端な善人

某氏の2つの発言「過労死は自己責任」と「(イジメや過労で死んだ場合に備え)子供3人でリスクヘッジ」が炎上した。過労死は使用者の責任だ!強欲な経営者に殺されたんだ!子供を代えのきくモノのように扱って計算の対象にするなんて!自分の子供がその発言をみたらどう思うか考えろ!というわけである。いかにも炎上しそうな発言ではあるが、今回2つの発言を取り上げたのは批判に加わるためではなく、むしろ「この発言を批判するのはズルいな」と感じたからである。以下この感覚について説明していく。

まず「過労死は自己責任」から。ちなみに私は「過労死は自己責任」とは全く思っていない。じゃあなんで?一緒にブラック企業と自己責任主義者を批判しようよ!・・・・・・それはできない。そもそも私は「自己責任」に「企業/経営者の責任」を対立させることに、因果連鎖の一番手前にだけ意図的に焦点を合わせているような、そんな欺瞞を感じている。確かにそこに絞れば「ブラック企業に洗脳された被害者が視野狭窄して正常な判断ができなくなり働かされ過ぎて死んだ(ブラック企業が悪い)」といったそれらしいストーリーを創ることができるから。

しかしではなぜ「正常」な時に辞められなかったのか?当たり前だが、仮に「正常」でなかったのが本当だとしても、いきなり「正常」でなくなるはずはなく、そこに至るまでの日々の積み重ねがあったはずである。少なくともそれまでは常に「辞める」という選択肢はあった。つまり裏を返せば当人は「それでも辞めない」と日々選択し続けていたのである。じゃあ自己責任ということ?違う。ブラック企業に巧みに誘導されていた?違う。いやいやいや、というかなんで「生活を安定させたい(不安定な生活に陥りたくない)」と考えて雇用のイスにしがみつくことを「異常」扱いするの?世間体メンツ将来キャリア結婚しがらみ他人の期待・・・・・・そんな現実的問題を考えてしがみつくのって、極めて理にかなった正常な判断だと思うのだが。

それでも死ぬまで働くなんて?しかし考えてみてほしい。たとえばあなたの前に「身体や精神を壊してヤバイと思い過労死する前に会社を辞めたがうまく再就職できず困窮しつつある人」がいたら、どうする?「自己責任/頑張るしかない」と言って就職活動/就労支援に誘うだろう?「納得いかない待遇で再び働こうとする人」がいたら、「働くのは当たり前だから、仕方ない」と思うだろう?このような世界で「それでも辞めない(絶対辞められない)」と自分を追い詰めるのは「視野狭窄」だろうか?

被害者はこの世界における正常な判断をし続けたから死んだのであって、むしろ自分が今のこの世界で死んでないのは単に運がいいだけなのでは、と考えることもできる。というよりこう考えないと「洗脳されていた」とか「異常な精神状態だった」とか、被害者を観念的に操り人形のように想定しなければならなくなるのだから(「無茶」をしなければならなくなるのだから)、まず最初にこう考えるべきだろう。しかしなぜか多くのヒトが「無茶」をしたがる。「無茶」をしてブラック企業に全ての責任を帰属させようとする。

「子供3人でリスクヘッジ」だなんて、自分の子供を・・・・・・ちょっと待った、じゃあ「自分の“子供”」じゃなかったらいいの?「少子化で労働力=賃金奴隷が足りなくなる」はひどいと思わないの?他人の子供や大人のことは散々「そういう目(そろばん勘定・損得計算)」で見てきたよね?モノ扱いと言うけど、「子供が欲しい」はモノ扱いじゃないの?「生きる意味を感じたい」とかそういう自分中心の見方をして子供を道具扱いするのはいいの?子供が「稼げる大人」にならなかったら何て言う?ところで、「子供3人でリスクヘッジ」の何がどうダメなの?みんな言わないから?確かにひどい発言にみえるけど、本質的には大して変わらないことを日々実践しているよね?やるのはよくて言うのはダメってこと?

つまりこういう所である。過労死は自己責任じゃないけど、その前に辞めたら自己責任。「子供3人でリスクヘッジ」はひどいけど、みんな言ってるやってる「同じようなこと」は日々実践します。「死ぬまで働け」とは言ってないけど、「働かないと死ぬよ?将来困るよ?人間として終わりだよ?恥ずかしいよ?」というプレッシャーはかけます。「そういう世界」に適応し、「そういう価値観」に従って行動し、「そういう姿勢」を身に付け、「そういう目」で他人をみてきたくせに、都合よく線を引くのはズルいだろ。子供はかけがえのない存在と言うくせに、そんな「かけがえのない存在」を賃金奴隷に仕立て上げて労働界に供給し、有害無益なクソシゴトで人生をドブに捨てさせる。どこにどう線を引こうが、こんなシステムを熱心に支持し、肯定し、過労死した人や自分の子供より「そういう世界」と順応者たる自分たちを優先している、それが全てじゃないか。

自分も自己責任の重圧の一部のくせに、被害者を「異常」扱いして「ブラック企業のせいでおかしくなっていた」と企業のせいにする。自分中心に考えて子供をつくり賃金奴隷に育てようとしているくせに、「子供をなんだと思っているんだ」と批判する。これはズルい。「過労死は自己責任」も「子供3人でリスクヘッジ」も今のこの世界・システムの価値観を「そのまま」表現したにすぎない。その世界・システムに適応して価値観を内面化・実践しておいて、線を引いて某氏を「向こう側」扱いするのはズルい。そしてひどいと非難しても結局大本にある価値観を肯定し、それに従って行動し、ダラダラ地獄を維持していく。某氏の発言を非人間的と言いながら、非人間的なシステムには適応しろ!従え!と熱心に奉仕する。こういう中途半端な善人もまた「そういう世界」の立役者なのである。


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「私」なんていらない

頭がボーっとしていて何も浮かばなかった時、可能なかぎり刺激を断ってみたことがある。本を読まない、音楽を聞かない、パソコンをつけない、会わない、話さない、テレビをみない・・・・・・ただ寝っ転がっているだけ。目を開いたり閉じたり、天井が見えたり見えなかったり、何か考えようと思っても何も考えられないし、それが「考えねばならない」に変わった所で考えるのを諦めた。空気中を漂う埃が肌の露出部分に触れて、むずむずして「あ」と思って、触れ、むずむずして「あ」と思って・・・・・・なるほど私は文字通り考えさせてもらっているのだなと理解した。

外気になでられる、風にふかれる、陽の光に照らされる、地面やモノがあたる、足音やリズムがきこえる、誰かの表情が目に入る、においがやってくる・・・・・・常に周囲を流れる無数の情報、それらが刺激する感覚の一つ一つがうまい具合に組み合わさって、思考や感情が生じる。無限の「海」に溶けてしまったような、あるいは流れに揺らされているだけのような、はたまたある場所・時間に「私」という点がたまたま配置されただけのような、要するに「何も考えられない」といった思いは誤った認識のせいで生じていたのだ。それは「私」の都合でどうこうできるものではないし、そもそも「私」が生み出すものでさえないのだから、「自分のアイディア」とか「絞り出す」とか「枯渇する」とか、傲慢な言葉だと思った。「自分の中に何もなくなってしまったのではないか?」なんて怖れる必要なかったのだ。

「海」の流れに生じる様々な現象のうちの一部がたまたま「私」という点で結ばれただけだから、「私」という記憶・志向は淀みであり、それもまた「海」の流れである。「私」は「海」の中にいると同時に流れでもあり、「私」を経験する私自身も「海」の中にいると同時に流れでもある。「私」も私自身も流れの中にいると同時に流れそのものでもあり、個体=点であると同時に世界=全体でもある。私が「私」のものとして経験する思考も感情も流れの中の点であり、淀みであり、同時に大きな流れそのものである。他の人も「海」の流れであり、関わり(会話も読書も音楽も)もまた「海」の流れであり、つまり社会も「海」の流れであり、したがって一見他人や社会から独立している意識も個体も、他人や社会そのものである。

人間や他の生物の個体同士の区別があるのはもちろん当然の事実だが、そうした区別があるからといって確たる境界があるわけではない。たとえば一緒に歌って踊る、までもなく文字情報だけという大きな制約があってさえ私たちは容易に同調(シンクロ)することができてしまうし、他の生物やモノにまで自分(たち)と同じような魂があると感じて「しまう」のである。それが思考・感情につながる、というよりそれこそが思考・感情そのものになる。確かに個体同士の区別はあるが、しかし境界は常に曖昧で、私たちは「この個体」であると同時に他の人・生物・モノでもあり、社会・世界・全体でもある。個体として画然と区切られているようで、実は周囲や環境や現象と連続しており、全体そのものでもあるのである。

にもかかわらず、私たちはシステム(賃金奴隷制)の都合によって「私」という境界に執着するよう教育され、観念的に設定されただけの境界を絶対視・自明視させられている。そして自己利益追求という「動機」を与えられ競争を強いられる中で、順応して「自分のアイディア/手柄/成果」に執着するようになり、成員が悉く孤独な奴隷に変わってしまうことで、「ちゃんと境界をつくらないと他人は際限なく侵害してくる」「自分のアイディアや成果を主張して認めさせないと尊重されない」といった前提が蔓延し、それに基づく権利やマナーや生き方が現実的にも妥当なものとして受け入れられていく。

私は世界・社会の一部であると同時に世界・社会そのものでもある、だとしたら私=社会に何か困ったことがあれば行動するのが当然なわけで、わざわざ「動機」を与えられる必要もなければ「意欲」を掻き立てられる必要もなく、権威や暴力や道徳を笠に管理される必要もなく、命令されて「社会のために」行動させられる必要もないのではないか。私=社会の困難が克服されればそれでよく、「自分のアイディア/成果」に執着する必要もないのではないか。それだと誰も何もしなくなる?蔑ろにされる?そうかもしれない。自分がやりたくないことを自分がやりたくないような条件で他人にやらせるよう勧めるシステム、「自分のアイディア/成果」を主張しないとうまく生き残れないシステム、「自分の手柄」のために他人を蹴落とさせるシステム、この抑圧的なシステムを維持したままでは確かにそうなってしまうだろう。

しかし、みなさんはこんな生き方がしっくりきているだろうか。「私」に執着し続けること、させられることに嫌気がさしていないだろうか。たとえば「君のおかげで」と言われたら「ただのまぐれです」「いやみんなの力です」と自然に言いたくなる。これは謙遜ではなく、事実そう感じているからだろう。世界やみんなが織りなす大きな流れの中でたまたま「私」という点にアイディアや行動が発生したというだけで、「自分の手柄」でもなんでもない。肥大化した(させられた)「私」への執着を捨て、「私」も私も点であると同時に全体でもあると認識することでもたらされるのは、「じゃあ他人を侵害してもいいんだ!」「それお前の力じゃないから!」「全部偶然なら頑張っても意味ないや」といった精神崩壊・無気力ではなく、等身大の関わり・生のはずなのである。


「友達」とは何か

憂鬱な気分が続く時、中学高校の頃の記憶がごちゃ混ぜになった夢をよくみる。部活動、ちょっとした対立、他愛もない会話・・・・・・日常。笑えば笑うほど、困難を乗り越えれば乗り越えるほど、憂鬱になっていったのを思い出す。たまたま身を置くことになった環境と合うかどうか、物事がうまいこといくかどうか、こんな運任せの綱渡りを独りでずっと続けていかなければならない。受験、テスト、入社試験、競争を繰り返して、「同じレベル」の人間同士集まって、その中でまた関係を構築していって・・・・・・。

自分に友達はいたのだろうか、とふと思うことがある。うん、確かにいた(と思う)。友達になってくれた人たちに失礼だからあらかじめ断っておくが、私は「みんな友達ではなかったのでは?」とか「今は付き合いもないのだから本当の友達ではなかったのでは?」などと思っているわけではない。友達は確かに友達だ、しかしこの世界の友達は「友達」になってしまう(させられてしまう)、というだけの話である。

「友達」とは何か?もっと言うと、孤立して生きることを強いられている個体同士の間に成立する「友達」という関係とは何か?そうなのだ。一生の友達でずっと付き合いがあると言っても、実は気が合うといった条件以上に「互いに運良くうまくいっている」ことが必要なのである。たとえばどちらかが経済的に困窮したとしても、深く頼ることはできない、助けることはできない、話をきいて「頑張るしかない」と励ますしかない。それでうまいこと復活できればいいが、できないとズルズル困難にはまり、忙殺され、転落し、少しずつ疎遠になってしまう。「友達」とは互いの小市民的生活の成功・安定の上に成立する関係である。

仮に頼ることができたとしても、それは一時的にならざるをえない。なぜなら手を貸す方は「ずっと続けても相手のためにならない」と思うし、頼る方も「相手に迷惑はかけられない」と思うから。お互いになんだかなぁと感じてはいても、何かが邪魔をする。システムの掟が既に関係の中に浸透しているのである。「自立」「自分で稼いで生きる」というイメージ、「自分の人生なんだから自分で何とかする」というルール、そうしたシステムの命令に互いにうまく従えている状態(問題化して表に出てこない状態)があってはじめて「友達」が成立する。私たちは深刻な問題を「ないこと」にして背景に退かせることで「友達」を成立させており、だからいざそれが表に出てくるとギョッとして、困惑しながら「最後は自分で頑張るしかないね」などと「そこから離れる」ことを考える。システムに屈し、目の前の「友達」よりシステムを優先させる。というよりはじめからシステムを優先させていたことが顕在化する、と言った方が正確か。

「友達」とは何か?相手がどんなに追い詰められていたとしても、いやむしろ追い詰められていればいるほど、私たちは何もできない。システムに従い没入すると、「助けたい」という気持ちより「こいつと深く関わったらこっちまで沈んでしまう」「手を貸したら結局相手のためにならない」といった気持ちの方が強くなる。そしてそれはやむをえない判断・もっともな判断だと認めてもらえる、自分の力で解決できなかった相手が悪いのだからと正当化してもらえる、なにより「現実」がその正しさを保証してくれる。しかし相手が深刻な状況に陥れば陥るほど助けることができなくなる「友達」とは、一体何なのか。相手も空気を読んで迷惑をかけまいと去っていき、孤独に困難に立ち向かう。困窮した?なら頑張って働くしかない。病気になった?なら頑張って克服するしかない。偏差値が足りない?なら頑張って勉強するしかない。もういやだ勉強したくない会社にいきたくない働きたくない?でも頑張って生きるしかない。みんなそうだから、自分もそうだから、頑張ろう。システム内の序列・生活水準・生死に直結する部分ほど、私たちは互いに触れることができないのである。

そんな世界における「友達」とは何か?損得計算や合理的思考、つまらない小市民的価値観、ささやかな小市民的生活の安定・・・・・・システムへの服従の上に築かれる「友達」という関係は何か?人間の本性の発露?まさか。「本音」を語り合えることが友情の証だとか、カミングアウトできることが信頼の証だとか、深刻な問題を「ないこと」にしてどうでもいいことを「重要問題」にして、そうやって制度化された関係が本性だなんて・・・・・・。互いの生活に干渉しないというと洗練されていて都会的進歩的に聞こえるが、そもそも私たちは深刻な場合ほど関わることを「しない」のではなく「できない」のである。

かつて「親友」と紹介された時、私は妙な感覚を覚えた。嬉しさよりも切なさの方が大きかったのである。そうか、友達の中でも「親友」なんだ、ずっと一緒にいたもんな。けど、互いの関係が「親友」になったところで、共に生きていけるわけではない。結局はシステムに屈せざるを得ない。どんな絆があったとしても、システムに立ち向かえるわけではない。二重の屈辱。相手が窮地に陥っても「相手のためを考えたら」助けることはできない。逆にこっちも助けてはもらえない、いざとなったら一人で何とかするしかない。二重の寂しさ。互いの小市民的生活を称え、ヘラヘラ笑い合う関係。相手が困った時ほど手を引っ込めねばならない関係。紙切れ如きに断ち切られる関係。この世界における「友達」とは、一体何なのだろうか?


あなたの現実と「私」の言語的な現実

「結局甘えているだけ」「つらいのはみんな同じ」「他にもっと大変な人がいる」・・・・・・意を決して弱音を吐いたのに、こうした言葉を返されてしまい、あ~あ言わない方がマシだったと後悔する、なんて経験のある方は多いと思う。「お前が自分で選んだんだろ」「そんなことで弱音を吐いてちゃダメ」「君にも悪い所があった」と一方的に判断される。「なにが自己責任だボケ!」「ろくに知りもしないくせになんだこいつは!」「そういうことじゃねえんだよ!」などなど悔しい気持ちでいっぱいになり、これからは他人に相談なんてするぐらいなら我慢するぞと誓い、「他人なんて所詮そんなもんだよなぁ、わかってくれないよなぁ」と孤独に気づいていく。

言語を経由するいじょうこうなるのは仕方ないと思うかもしれない。自分が経験している現実をそのままトレースしてもらうことはできないので、24時間365日経験している現実を言語で表現するため抽象し、相手が理解可能な形=平凡な形にしなければならない。その甲斐あって相手も「理解」できてしまうから、その「理解」に基づいて発言してしまうのである。たとえば「毎日パワハラとサビ残でつらいです。死ねと言われます。もう耐えられません」といった言語表現を「理解」することは容易なので、その「理解」の正しさを疑えないと「世の中そんなもんだよ。それでもみんな我慢してるんだから」などと言ってしまいたくなる。「理解」して共感すると、「自分なら○○するのに!」と思ってしまい、「なぜ○○しなかったのか」と責めたくなる。

これは仕方ないことではない。というのも、私たちが「言語を経由している」こと、つまり現実を理解可能な形に矮小化している事実を忘れることで生じるからである。当人が直面しているのは「毎日パワハラ」という言語表現ではなく現実であり、常にそれに伴う苦痛・ストレス・重圧・不安に悩まされ、意識できないレベルで変調をきたし、家でも心が休まらなくなり、連鎖的に仕事や人間関係や日常生活がうまくいかなくなったりする。現実は一瞬一瞬の積み重ねであり、苦しみは表現できる部分よりむしろ表現できない部分の方にある。表現できる(理解可能な形にできる)苦しみより表現できない(理解可能な形にできない)苦しみの方が大きい。私たちはこうしたことを忘れてしまっているが、忘れているのはこれらにとどまらない。

たとえば「毎日パワハラ」ときいたとき、私たちは「私」に引き付けて考えてしまう。記憶や想像力を使い、「私」を基点に類推・推論してしまうのである。これ自体は仕方ないことであるとはいえ、ここでも私たちは「私」を基点に考えていることを忘れている。相手との感覚・精神構造の違いを忘れ、「私」が人間の代表であるかのように自然と思考してしまう。その思考の結果はほとんど「外れ」なのだろうが、「言語表現上は」当たったようにみえるので、それで理解したと自信を深めてしまう。しかし、私たちの「理解」とは、相手が相手の現実を他人にも理解可能な形に加工した言語表現を、さらに「私」を基点とした意識的・無意識的な思考で加工したものでしかない。それは少なくとも二重に矮小化されているのである。

こうしたことを忘れてしまうことで、ただひたすら我慢を強いるだけの言説が溢れ、「どうせわかってない/助けてくれない」といった不信の念を抱かずにいられなくなる。そうなると当然頑張るのがつらくなる。「あなたの気持ちはわかります。けどつらいのはみんな同じですから我慢して頑張りましょう」で頑張れたら苦労しないだろう。不信の念があったら助言がいくら「正しい」ものでも、実践し続けるのは難しい。しかし現実的には学校・会社システムが要求する「正しい」ことをして「適応」の努力をしなければならない。逆説的だが、この葛藤から手っ取り早く解放してくれるのが崇拝である。システムの勝者や教えを崇拝し、信じ切って身を預けてしまえば、「適応」もできるし、苦悩も棚上げされる。

苦悩を棚上げできずにそれに取り込まれてしまうと、悲惨な人間競争に参加することになる。相手がわかってくれないならわかるように表現すればいい、こうして(言語的な)悲惨さを(相手が理解できる範囲で)追求するようになり、「障害」「トラウマ」などなどがその文脈から離れ、普通の人にはない特別な経験・属性を示す言葉として使用されるようになる。しかし最近では「障害があっても頑張っている人がいる」「つらい過去にいつまでも囚われてちゃダメだ」と言われることからわかるように、それらも「平凡」の中に回収され、自分の現実をただの悲劇的ストーリーにしただけでわかってももらえず、そのうえ実際に困っている人の現実が矮小化される結果となっている。

私たちは「言語を経由している」ことを忘れてしまう。その過程で自分の現実を相手が理解可能な形=平凡な形に「せざるをえない」ことを忘れてしまう。「私」を基点に思考していることを忘れてしまう。理解したと勘違いしてしまう。「判断」を現実と勘違いしてしまう。私たちは単純な事実を忘れ、勘違いしたまま、(言語による)コミュニケーションへの信仰を深めている。言語表現による選別は日常に浸透し、言語的にうまく表現できる者が成功・支持・支援を手にする一方で、それができない者の現実は矮小化され、「みんな我慢している」で済まされてしまう。崇拝も悲惨競争もできない人は我慢するしかなく、崇拝や競争に走った人も救われはしない。私たちは誰とも人生を共有できていないから現実や自分自身を矮小化してでも言語で表現せずにはいられない、しかし単純な事実を忘れ勘違いしてしまう、その結果が互いに互いの現実を蔑ろにし合うという孤独であり、互いに互いを選別し合うという孤独なのである。


『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んで


たまにはマンガ読むか、なんて軽い気持ちで購入したら、中学2年生の日常系ギャグの装いで、とんでもない一撃をくらわされた。読み終わって数日たっても、憂鬱が心にまとわりついてくる。別に悲劇の大事件が起こるわけではない。こぢんまりとした、小さな世界の日常、そのスケールに見合った小さな事件。しかし作品に引きずり込まれることで、ジワジワと心を蝕まれるような、不快感、憂鬱に囚われる。いよいよ耐えられなくなり、こうして言語化せざるを得なくなった。

千恵(ちーちゃん)は成績も悪く、落ち着きもない。欲求に忠実で善悪の区別もつけられない、言葉も考えも足りない、家も貧乏。「ちょっと足りない」?タイトルから物語の主人公はちーちゃんだと思うし、実際最初の数話はちーちゃんを中心に話が進む。

「いやっ あげねーよ!?自販機あるから自分で買え!」

「でも!8円しかねえ!」

「8円ってうまみ棒1つ買えないじゃない」

「あと2円あったら うまみ棒が買えるのに!」

「当初の目的と変わってるよ!」

「さて問題 80円あったらうまみ棒は何本買えるでしょうか?」

「!?えっと 10円が8個だから・・・うまみ棒8本買える!?」

「おっ 正解」

(中略)

「じゃあ次の問題 80÷10は?」

「えっ わる?急に数学の問題?」


物語の開始は女子3人の登校シーン。ちーちゃんに突っ込んでいるのがナツ。ちーちゃんとは小学校からの付き合いで、同じ団地に住んでいる。成績はちーちゃんよりはちょっと良い程度で、家は貧乏(全く何も無いわけではない)、他の人に比べ色々と「足りない」ことに悩んでいる。問題を出してちーちゃんをからかっているのが旭。成績が良く、家は金持ち、3年の先輩と付き合っている。二人とは中学からの付き合いで、家が近いから一緒に登下校し、学校でも行動を共にする。

ちーちゃんを中心とした日常の話が続く。宿題のプリント、中間テスト。学級委員長の奥島君や副委員長の如月さんに勉強を教えてもらう。ちーちゃんとナツの寄り道。お店にいたのは見た目が派手な藤岡さん、怖いから二人とも苦手。しかし彼女は祖母の介護のために仲間内で一番だったバスケを諦め、妹たちの面倒もみている。顧問へのプレゼント代500円を払えない人に代わり、自分が1000円出す、といった一面がある。

ある日、事件が起こる。プレゼント代3000円が教室で盗まれたのである。「ねえ取ったのって南山さんなんじゃない?」ちーちゃんが疑われる。「あいつはバカだけどそんなことは絶対しねえよ お前が千恵のこと盗っ人扱いするんじゃねえ」旭は相手の胸ぐらを掴んで激昂する。ナツは何もできない、言えない。翌々日の放課後、「なっ あいつらの金なんてしらねーよな千恵」「うん とった!」結局犯人はちーちゃんだった。

ちーちゃんは旭に引きずられ謝罪に向かい、旭は胸ぐらを掴んだ相手に「本当に申し訳ない!」と頭を下げる。旭に怒鳴られちーちゃんは嫌々金を返す。しかし既に誰かに「あげて」しまい1000円足りない。怒り狂う旭、抵抗するちーちゃん、そこで藤岡が機転を利かせ、その場をうまく収める。彼女の良い面が明らかとなり、事件がきっかけでみんなの関係が深まる。

実はここにナツだけがいない。中心がちーちゃんからナツに入れ替わっていたのに、肝心のナツがいない。どうしてもリボンが欲しくて1000円を受け取っていたのに、ナツがいない。昼休みにお金の話が出たので仮病を使い保健室に逃亡し夕方まで寝ていたから、ナツがいない。ナツのいない所でみんな成長し、関係を深め、世界が変わった。

さて、「ちょっと足りない」とはどういうことか。「足りない」のはモノか、点数か、恋人か。「足りている」をみることで、それがちょっとだけみえてくる。とはいっても、では「足りている」とはどういうことなのか。その内容をおぼろげながらでも掴むため、「足りている」人をみてみよう。

旭は胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた相手に頭を下げた。この点にかんしては「足りている」と言えそうだ。しかし旭も最初からそういう人間だったわけではないだろう。誰しも「謝る」に関する思い出はあるはずで、小学校に入るか入らないか、後から考えれば取るに足りない悪事だが、小さいあなたは全人生が凝縮したような痛みを胸に抱え、(わざとじゃないのに)(誤魔化せないかな)などと思考し、正直に謝るかどうか葛藤する。結果がまるでわからない不安。ここでちゃんと謝って償う方を選べば、大抵の人は許してくれるし、それによって他人に対する基本的信頼が生まれ、関係も深まる。謝らなければ、誤魔化しがうまくいったとしても、関係の発展はないし、罪悪感や不安が残り、正当化に時間を費やすことになる。ここで良い方に進むことができれば、次も良い方に進む可能性が高まるし、良質な経験を積める可能性も高まる。

今でこそ「足りている」旭も最初の方でどちらに転ぶかは多分「ちょっと」の差だった。ちょっとだけ勇気が出せたとか、そういう差。それをうまくものにしていき、良い方良い方へと進み、良質な経験を十分に積み、「足りている」状態に至る。「足りている」とはそんな積み重ねの結果であり、ここでの「足りている」をあえて言葉にするなら自己肯定感とかそんな感じだろうか。とはいえ、そんな旭も、そうなる過程や分岐点を突き詰めればちょっと足りたか足りなかったかである。

旭は学力も(多分)「足りている」が、きっと最初はちーちゃんのように割り算もできなかっただろう。しかし、参考書を買ってもらえたかもしれないし、親が教えてくれたかもしれないし、自分で努力できたかもしれないし、運よくわかるきっかけに出会ったかもしれない。対してちーちゃんやナツは、「ちょっと」お金が足りないと言われたかもしれないし、「ちょっと」教える時間がないと言われたかもしれないし、「ちょっと」粘れなかったかもしれないし、「ちょっと」運がなかったかもしれない。しかしそんな「ちょっと」の差によって、経験の質にも差が生じ始める。同じ授業を受けるなど一見「同じ」経験をしているようでも、実は全く別の経験になっている。ここでの「足りている」は良質な経験によって磨かれたセンスとか取り組む姿勢とかそんな感じだろうか。

些細なことでもちょっと足りたか足りなかったかで気分は大きく変わるし、気分が変われば他人への接し方も変わるし、粘る気力も変わるし、それによって・・・・・・。人生はそんな「ちょっと」の積み重ねであり、私たちは一瞬一瞬の「ちょっと」が織りなす因果連鎖の中にいる。あってもなくてもどうでもよかったと思う事も、忘れてしまった事も、確実に人生を構成するピースである。「足りている」が無数のちょっと足りたの積み重ねなら、同じように「ちょっと足りない」は無数のちょっと足りなかったの積み重ねである。

随分大袈裟だと思われるかもしれない。「ちょっと足りない」なんて、所詮は「ちょっと」の差じゃないか。誰だって何歳からでも謝れるようになるし、努力すればテストの点数も上がるし、自分を変えてリーダーになることもできる。確かにそうである。「足りている」を個別に捉えていけば、一見その差は「ちょっと」であり、頑張れば何歳からでも「ちょっと足りない」を克服できそうな気がする。

「もうちーちゃん おはしが武闘派シーフのダガーナイフの持ち方みたいになってる!」

「こうだこうだプチトマトのやろーは」

「おはしの持ち方ちゃんとしないと恥かいちゃうよ」

「まあ厳密にいうとナツもはしの持ち方間違ってるけどな」

「え?」

「ペンと同じ持ち方になってる よくある間違いだな」

「くわしいんだね旭ちゃん」

「いやまあそういう作法とかおかんがうるさくてな」

「僕もおはしの持ち方はよく怒られたなー」

「私もだよ どうでもいいよねはしとかマナーとか」

(みんな知ってるんだ 私のお母さんそんなこと教えてくれなかったな
 底辺だ
 バカで貧乏な私は品性まで欠けてて親の差まである どうしようもないな
 (中略)
 奥島くんは私やちーちゃんみたいな底辺とかかわるの
 恥ずかしくないのかな うざったらしくないのかな
 何か足りないものはないの?
 怖いものはないの?
 嫉妬するものはないの?
 なんでみんな 不満そうな顔すらしないの
 そんなのおかしいよ せこいよみんな)


「おはしの持ち方」ぐらいで気にし過ぎだと思うかもしれないが、ここにあるのは「おはしの持ち方」だけの差ではない。仮にナツが「おはしの持ち方」を直したとして、それで解決する話ではないのである。というのも、この背後には良質な経験が無数に積み重ねっているから。「おはしの持ち方」はその端的なあらわれでしかないから。格好だけコピーしたところで、良質な経験をトレースして品性や雰囲気や寛容さや心の余裕までコピーできるわけではない。自然と上に立とうとしてしまう、そんな生き方が変わるわけでもない。「足りている」と「ちょっと足りない」との間には、一度それを感じてしまったら、どうにもならないと途方に暮れる他ない恐るべき溝がある。

「足りない」ちーちゃんと、「足りない」ちーちゃんを(自分と比べ)「ちょっと足りない」と見ることで「ちょっと足りない」自分に安心する「ちょっと足りない」ナツ。二人以外はみんなそれぞれ100点満点の人たちだが、しかし世間の100点満点の人たちと同じで、そこまでなのである。しっかりと良質な経験を積み重ね、「足りている」が日常に溶け込んだ人たち、「ちょっと足りない」がどういうことかきっともうわからないだろう人たち、他人が「ちょっと足りない」かどうかなど気にする必要がない人たち。自分たちが「足りている」側として快適に生きていける世界・社会を当たり前のこととして受け入れ、しっかり適応し、充実した人生を歩む。「足りていない」人を見下すことはなく、頼まれれば苦しむ相手に優しく手を差し伸べる。しかし「足りていない」を「足りていない」たらしめる世界・社会に対してだけは、何も言わない。

「私らももう少しすれば大人だ。欲しいものは自分の力で手に入れられるようになる 楽しみじゃねえか。ちょっと足りなくたってどうだって楽しんで生きていけるだろ」


藤岡の100点満点のセリフ。彼女の成績や家の財政は不明だが、器の大きさを感じさせるし、咄嗟の判断力もある。彼女も「足りている」側だ。だからだろうか、この素晴らしい正論に漂う妙な圧迫感。素晴らしい人物の、素晴らしい発言。汚い所、間違っている所、悪い所が何一つない。受け入れなければならない(世界・社会と一緒に)、そんな圧迫感。

「足りない」ちーちゃんはモノ(ゲームなど)が買えないことしか気にしていないし、楽しんで生きていけそうである。というより彼女は傍からみたら色々と「足りない」が、そのことは気にしてないからむしろ「足りている」と言える。しかし「ちょっと足りない」ナツは違う。周りをみて、自分が「ちょっと足りない」と気づき悩みながら、その背後にある無数の「ちょっと足りない」に絶望し、行動を起こせず何も変わらないまま生きていく。あれもこれも何だか全てが足りない、何のせいにすればいいかわからない全てが足りなかったからこうなったけど何をどうすればいいかもわからない、そんな「ちょっと足りない」に囚われて生きていく。

件の1000円でリボンを買ったナツは、これで中学生活が変わると妄想しながら登校するが、それはみんなの無関心さによってあっさり打ち砕かれる。そういう表面的な「ちょっと足りない」ではないのである。モノではないし、はしの持ち方でもないし、テストの点数でも恋人でもない。仮にナツがこれらを全て望むようにできたとしても、ナツは「ちょっと足りない」ままだろう。モノが充実しても、作法をコピーしても、テストの点数が同じになっても恋人ができても、「足りている」側にはなれない。たとえば死ぬほど勉強して点数を上げても、良質な経験で磨かれた知恵やセンスの前ではそんな数字など取るに足りない。

思えば中2という設定が絶妙で、この時期は周囲をみて「ちょっと足りない」と認識し、その深刻さにも気づき始める頃だろう。未来を考えさせられ、自分が容赦なく足切りされる現実を突きつけられる。小学校の頃とはすっかり変わってしまったことに焦り、「足りている」人との差に戦慄し、生き方や自己に対する肯定と否定を繰り返す。これでいいんだ、いやダメだ他の人と比べて足りてないじゃないか。「足りない」ちーちゃんは社会科の中間テストで23点を取って喜び、奥島や如月はそれを屈託のない笑顔で褒める。ちーちゃんのように、他人と比べることなく、自分のささやかな成長を喜び生きればいい、と言われても、ナツにそれができるだろうか。確かにまだ中2で未来があるとはいえ、この作品はささやかな希望に縋ることさえ許さない。

「とったからお金 フジオガに返すからお金ためて」

「・・・・・・・・・・・・返さなくていいよ藤岡さんになんて あともう旭ちゃんとも遊べないから」

「?なんで!」

「なんでも いーい?」

「うん」


全てが捻じ曲がるようなやり取り。ナツは未来からも世界からも排除される方へとズルズル下っていく。そうとわかっていても、そうしたくなくても、「ちょっと足りない」からそうするしかない、そうなるしかない。ナツは「足りている」側にもなれないし、生き方を変えることもできないだろう。何の可能性も無い閉塞感。「ちょっと足りない」がブラックホールのように、自分の人生だけでなく他人の人生をも飲み込んでいく。

翻って、私たちはどうだろうか。あまり考えたくない?藤岡が言うような/ちーちゃんのような生き方ができるわけではないから。つまりナツと同じように・・・・・・。常に他人の目を気にし、比較し、自分より足りない相手には優越感からくる親しみや付き合いやすさを覚え、足りている相手には劣等感からくる不信や居心地の悪さを覚え、結局は広い狭いに関わらず似た者同士の「狭い」交友関係に安住し、互いが互いに自分よりダメな部分を見出してホッとしながら、自分が「ちょっと足りない」とわかっているのにどうすればいいかはわからない、「ちょっと」のくせにあまりに巨大で漠たるくせにあまりに確たる、そんな満たされなさをモノや恋人や子供に何かを期待し誤魔化しながら、行動できずに立ちすくみながら、世界の方が自分に都合よく変わってくれると妄想しながら、グルグルと思考し自分で自分を傷つけながら、生きていく。「あなたもでしょ?」とナツという鏡に突然「人生」を剥き出しで映される不快感。受け入れざるを得ない憂鬱。身も心も立ち上がることを拒絶するように、ズブズブ沈んでいく。そんな体験を提供してくれるお話。永遠に光差すことのない、泥の海の底のようなお話。


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Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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