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“常識”はとてもキモチイイ

 最近、また引きこもりにスポットが当てられた。「引きこもりは犯罪者予備軍」とか「引きこもりの息子を殺しても仕方ない」とか。“肥大した自我”とか“現実とのギャップ”とか。もっとも、引きこもりに限らず“弱者”を叩いてバカにする言説はリアルにもネットにも溢れている。「いい仕事に就けなかったのは努力が足りなかったから」「無能なんだから諦めろ」「何も守るものがない無敵の人」「年収○万円以下は社会の足を引っ張っている」「生活保護受給者は税金にタカる寄生虫」

 こうした攻撃的な言説に対抗するやさしい言説もある。「必要なのは批判ではなく社会復帰(“まともな仕事”に就いて“自立”するための)“支援”」「“普通に働けば普通に生活できる”社会を」「“障害者”や“弱者”を社会(“たくさん稼ぐ優秀な労働者たち/賃金/税金”)で“支えて”あげないと」

 これら2種類の言説は一見すると正反対だが、実際は全く同じである。つまり結局どちらも“常識”に基づいている。“常識”に基づく攻撃は快感をもたらす。それは弱い者をイジメる快感というより(であると同時に?)、“常識”を使う快感である。“常識”に基づくやさしさは使命感をもたらす。それは弱い者を助ける使命感というより(であると同時に?)、“常識”に沿わせる使命感である。否定されない安心感、正しいことをしている満足感、そして他人や自分(具体的な存在)さえ“常識”に劣後するようになる。“常識”は実体のない寄生生物であり、宿主は陶酔や確信に導かれながら行動や態度や発言や文章で“常識”を表現し、“常識”を感染させていく。それで肝心の“常識”とは?一言で言うなら「現状は正しい」である。

 これについては何度も書いているが、現代社会は賃金奴隷制(働かないと食っていけないシステム)を採用しており、それが不毛な害悪をもたらしている。景気や環境の変化に生活が左右される不安からヒトは保護を求め、制度や経歴や人間関係によって守られる者と守られない者がつくられ、強固な奴隷のピラミッド構造が現出する。雇用の保護イスやカネを奪い合うゼロサムゲーム、労働は賃金をいただくための言い訳と化し、「他人や社会の必要を満たす」という仕事の第一義が忘れられる。イスを温存しようと効率化・機械化・自動化を渋り、有害無益なクソシゴトを増やし、訳のわからない“能力”や“正常/異常”をうみ出して絶えず誰かを仲間はずれにしていく。テクノロジーの進歩は労働の撲滅を志向せず、先人の積み重ねはフイにされる。

 “常識”に感染するとこれらすべてが“正しい”ことになり、不毛な害悪が“正しい”理由、その理由が“正しい”理由・・・・・・という方へどんどん前のめりになっていく。

「(保護イスに座る)高収入のヒトは有能で、それは社会に貢献している証」「不安定で収入の低い無能は努力しなかったから誰でもできる仕事をやっている」

 雇用の保護イスは実際の(他人や社会の)必要に基づくものではないし、その奪い合いにおける“有能/無能”に一体どんな意味があるのだろうか?また、社会を支える必要な仕事はある程度誰にでもできるようになってないと困るし、それと低賃金が結び付いているのは、“労働(力を供給)しないと生きていけない”せいで、低賃金のままでも人が集まってしまうから。

「たくさん稼ぐ優秀な労働者たちがたくさん税金を納めて社会を支えている、無能な連中の面倒をみている」

 実際に社会を支えているのは(ほとんど)テクノロジー。安定した高収入は非正規雇用の賃金調整や制度(つまり税金)によって確保される。富の実体はモノ・サービス(供給力・テクノロジー)であり、カネはデータにすぎないのに、ハイパーインフレだのモラルの崩壊だのと脅してカネの量・分配を制限することで、ピラミッド構造・ゼロサムゲーム(収奪システム)を維持している。

「苦しくてもみんなが我慢して働いているから社会が回っている」「進歩して文明が高度化したから労働も大変になっている」

 進歩すれば“普通は”働く必要が減るはずだし、仕事も楽になるはずだが、「働かないと食っていけない!」から常に逆の力が働く。本来であれば、満たすべき必要がある→進歩の度合いに応じて仕事量(人間が働く必要)が決まるという順番だが、今は“働かねばならない”が先にきてしまっている。したがって「苦しくてもみんなが我慢して働いているから」かどうかは実際の所“わからない”のである。それを明らかにするためには、働かなくても食っていけるようにして、退職や解雇を容易にするしかない。

「誰も働かなくなって社会が崩壊してしまう」

 狂った順番の正当化。本来であれば必要がある→働くなわけで、働かなくなるということはもうその必要がないということ。必要があるのに誰も働こうとしないならそりゃ崩壊するだろうが、生産手段もノウハウもあるのにそうなったら、知的生物として終了。

「働くのは当たり前」

 社会がカツカツなら働くのは当たり前、困っている人がいないなら働かないのが当たり前、困っている人をなくすためにも自動化(働かないこと)を目指すのが当たり前。

「働いて必要とされることで、社会に参加することで、人間の尊厳が保たれる」「働かないとやることがなくなる、堕落する」「労働は生きがい」などの労働を肯定する全ての言説。

 それがなんで“強制”労働制を続ける理由になるのかさっぱりわからん。

 “常識”に操作される宿主は構造やシステム自体を問題視することを避け、構造の犠牲になって割を食わされている人たちに責任を押し付け叩いてバカにするようになる。たとえば「AI・機械に仕事が奪われる(から規制しろ)!」とは、つまり進歩や利便性(他人や将来世代の便益)を捨ててでも自分(たち)だけが食っていければイイということだが、ここに至ってはもはや自分が何を言っているか/しているかさえわからないのだろう、その口で「働かないで罪悪感はないのか!」「○歳にもなってフリーターで恥ずかしくないのか!」「社会に寄生するな!自立しろ!」などと平気で言うようになる。

「仕事がなくなった(困っている人がいなくなった/自分抜きでも他人や社会の必要が満たせるようになった)のに食っていけないのはおかしい」と思えなくなり、「お前が犠牲になれ!」「自分以外がどうなっても構わない」と行動で表現するようになる。こうやって傷つけ合うことが“常識”の感染を促進するのだろう。「マジメに働かなきゃダメってわかってるよね?」「本当はみんなと一緒に働きたいんだよね?」といった“参加”を促すやさしい脅迫/善意の支援も結局同じように感染を促進する。人間なら当然抱くはずの罪悪感や疑念は“常識”によって快感や使命感に変換され、攻撃も擁護も悉く「現状は正しい」の言い換えにすぎなくなる。

 労働を中心に構造化された生活を“規則正しい生活”と言ったり、労働を減らす気もないのに過労を問題視したり、雇用にしがみつくためのクソシゴトを求めながら搾取だと怒ったり、テクノロジーの進歩に従って普通は仕事が減るはずなのに引きこもりやニートをバカにしたり社会復帰させようとしたり、買わせるために“必要なモノ”や“足りないコト”を次々でっち上げて心に穴をあけたり、人生をドブに捨てるだけの時間を“尊厳”と言ってみたり。自分たちで自分たちの首を絞め、犠牲者に追い打ちをかけ、犠牲者の方も“自己責任/無能/社会のお荷物”であると受け入れてしまう。「子供たちの将来のために~」とか言うわりに、このピラミッド構造・ゼロサムゲームを押し付ける。不安や孤独や人間不信や奇妙な高揚感(成長/生きがい/誇り/自尊心など)に塗れながら、せっせと“常識”に奉仕する姿は、寄生生物の宿主が体内を食われながらせっせと奉仕するような、不気味な倒錯を思わせる。



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今の形の家庭をいつまで続けるのか

・「誰もが子供をうみ育てられる社会」があるべき社会の姿とされている。
・そのためにお父さんとお母さんが安心して働けるよう保育園や正社員化や働き方改革が必要だと言われる。
・子供がいなくなったら社会がなくなってしまうのだから、これは一見正しい方向のように思える。

・しかし、このような理想は(当然だが)“今現在の家庭の形”を前提にしている。
・即ち「夫と妻の片方あるいは両方が会社に労働力を売って賃金・カネを稼ぎ、それを基盤に家庭を運営していく」というものである。
・この形は“当たり前”で済ませられるほど当たり前なのだろうか。
・安定した仕事に就き、毎日規則正しく会社に行って諸々の作業をこなし、時に下げたくもない頭を下げ、稼いだカネを無駄遣いせずきちんと家庭に入れ、子供のために使い、収支を計算して食事を考え、仕事のストレスを家庭に極力持ち込むことなく、フルタイムで働いた疲れを1日2日の休みで回復させ、子供と遊んだり病院に行ったり諸々の手続きのため小難しい文章を読んだり・・・・・・。
・要するに、今の形には体力と精神力と様々なタイプの知的能力そして自制心が必要である。
・これを夫と妻の2人でカバーするのは相当な能力と運がないと無理だと思う。

・今の形は“賃金を稼ぐ”と“家庭を運営する”の二本柱になっている。
・メシを食う、家賃・ローン・水道光熱費・税金・社会保険料を支払う、子供に必要なものを買う、自分たちの好きなものを買う・・・・・・家庭を運営するには“メシを食う”とか“路頭に迷わない”という次元から賃金が必要だ。
・つまり“賃金を稼ぐ”の方が圧倒的に重要になってしまっており、基本的には家庭(というか生活)より働き続けることを優先しなければならない。
・だから、今のこの形を前提にすれば、保育園とか正社員化とか働き方改革といった話しか出てこない。

・さりげなく“~という次元から”なる表現を使った。
・家庭の運営においてカネが必要なことは様々あるが、そこには優先順位がある。
・まずは住む場所と食うメシが必要だ。
・ところで、私たちは“1円から賃金で分配するシステム”を採用している。
・働かないと1円も手に入らない、つまりメシが食えず路頭に迷う。
・1円から賃金で分配するということは、“メシが食える/食えない”とか“路頭に迷う/迷わない”とかの次元で人間を労働市場に誘うということである。
・メシが食えなくなったら困るので、多くの人間が労働市場に留まる、保護や安定を求める。

・このシステムを受け入れさせるための物語が至る所に用意されている。
・「誰かの必要を満たして対価をいただき、それで今度は自分の必要を満たしてもらう。こうして社会は回っている、一人ひとりが社会を支えている、だからあなたも」といった牧歌的なお話。
・「誰も働くのは嫌なんだ、消費するだけがいいんだ、楽をしたいんだ、でもそれを許してしまったら社会が崩壊してしまうんだ」といった恐怖を喚起するお話。
・「じゃあ他人に働かせて自分だけ税金で生活するのがいいのか、泥棒!」といった道徳。
・「働いて成長することが・・・・・・生きがいが・・・・・・社会参加による承認が・・・・・・」といった人生訓。
・1円からの賃金分配、“メシ”という次元で人間を動員するシステム、働かざる者食うべからずのシステム。そんなこと言ってない!と言っても、そう言っているシステムを肯定している。

・このシステムを採用するということは、社会全体の必要を満たすのにそれだけの人間・人力が必要だ、ということである。
・必要な人間・人力の数(や能力の種類/水準)は、テクノロジーの進歩・効率化の進み具合で決まる。
・少なくとも、必要な人間・人力の数が(希望者)全員の数を上回り続けなければならない。
・食っていけなくなるので、多くの人間は労働市場から退出できない。
・よって進歩・効率化する以上のペースで社会全体の必要=仕事が増え続けなければならない(さらに、仕事をするための能力を希望者全員が身に付けられなければならない)。
・仕事を増やすため、人口を増やし続けるか、欲望を煽り続けるか、有害無益なシゴトを創るか、自動車と道路のような関係をうみ出し続けるか。
・あるいは進歩・効率化しても人間・人力の必要が減らないことに期待するか、たとえば自動運転技術の登場で運転手が失業する分新しい仕事がうまれるといったような。
・はたまた進歩や効率化を諦めさせるか。
・この時点で既に、「社会全体の必要を満たすのにそれだけの人数が必要だから“メシ”の次元で人間を動員するシステムを採用する」のではなく、「食っていけないから(このシステムを維持するため)社会全体の必要=仕事が必要だ」という倒錯が発生している。
・しかし、そもそも無茶な想定や物語を使ってまでこのシステムに拘泥する必要があるのだろうか。
・これに持続可能性が無いから、テクノロジーが進歩しているのに生活が苦しくなり、それで保育園や正社員化や賃上げや働き方改革や女性の社会進出や雇用創出や規制を求めることになっているわけだが、これらは現状を前提しているので、結果的にこのシステムを肯定することになる。

・1円からの賃金分配で“メシを食う”とか“路頭に迷う”とかの次元で人間を動員するのではなく、テクノロジーの進歩・効率化の進み具合に応じてカネを配り、動員する次元を上げていく方がいいのでは。
・1円からの賃金分配を採用し続けるということは、それだけ多くの人間・人力が必要であり続けると想定しているということだが・・・・・・
・道を走るトラックやゴミ収集車、好きに使える電気や蛇口から出る水、工場や工事現場のどでかい機械・・・・・・文明の成果を何かしら思い浮かべてみれば、それが一体どれほどの人力に相当するのか、それがどれだけの人間を労働から解放しているか、テクノロジー・機械の巨大なパワーとポテンシャルがなんとなくわかる。
・機械の台頭で失業したとしても、一部の超優秀な労働者だけが働くようになったとしても、失業したのは“機械に代わってもらったから”なので、あなたを“食わせる”のは一部の労働者というよりはテクノロジー・機械(先人の積み重ね)である。
・“寄生虫”とか“社会のお荷物”というのは、分配を賃金と(賃金を原資とした)税金の再分配に限ることで生じる勘違い(お話)である。
・“養う/養われる”とか“支える/支えられる”といった関係性も勘違いである。
・“自立”や“自分の力”も勘違いである。

・今でさえ必要とされるため(恵まれた雇用の保護イスにありつくため)の能力やハードルは上昇し続けている。
・“カネを稼ぐ”のウェイトが上昇し続けている。
・一昔前と違ってじいさんばあさんに“家庭の運営”をサポートしてもらうことは難しい。
・しわ寄せは“家庭の運営”と子供にいく。
・夫と妻が吸収しようとすれば心身共にリスクを抱え込むことになる。
・ひとり親ならなおさら。

・家庭は閉鎖空間になっているから、他の家庭の情報は表面的なものしか入ってこない。
・逆もしかり。
・表面的な比較しかできないので、自分の家庭が異常をきたしていても、実質的に破綻していても、直視して検討する気力がなければ「こんなの普通」「きっとよくあること」で済ませられる。
・外面を最低限整えておけば他人にもバレない。
・家庭の異常や破綻=恥も、負担を家庭内で抱え込んで最後まで我慢することができれば、バレない。
・恥とか以前にそもそも人に頼れない、助けを求める相手がいない。
・閉鎖空間だからわかっていないだけで、成員が我慢しまくってるだけの家庭が多分既にたくさんある。
・今の形を続けるなら、増えることはあっても減ることはない。
・今の形は、負担を家庭=少人数の閉鎖空間で抱え込ませて表面的にはうまくいっているようにするだけの、持続可能性のないデタラメなものである。
・人間は苦しみを観念で埋め合わせ、「このために頑張っている」といった倒錯をしがちだ。
・意味や道徳や虚栄心や物語(単純なものから理論・レトリックで補強された難解で複雑なものまで)を排して、今の形の枠組みだけを取り出し、それが本当に望ましいものかどうかを考える必要がある。


満たされた後の意識

イスに座ってボーっとしているとき、いつの間にか思考や妄想に没入していて、しばらくするとハッと我に返る、なんてことがある。何か作業をしている最中だったら、また注意をそこに向ける、何かする予定があったら、「○時になったらちゃんと××しないとな」と確認する。そしてまたいつの間にか思考や妄想に没入していて・・・・・・。これを繰り返しているうちに、「ああなるほど、これが“意識”なんだ」と納得するようになった。

もちろん意識といっても様々な層がある。認識や知覚の結果がのぼってくるスクリーンのような層であったり、感情を感じる層であったり。その中で今回私が取り上げる“意識”は自分を監視・制御する層である。たとえば私たちは「将来の計画を立てて行動しろ!」とか「怒りの感情をコントロールしろ!」とか言われたりするわけだが、実際にできるかどうかは別として、こうしたことを“意識”によってできることになっている。「勉強に集中しろ!」とか「早く起きなさい!規則正しい生活をしなさい!」とか、“意識”によってできることになっている。そんな世界で生きるうちに、“意識”が初めからあったことになっていく。

私たちは幼い頃から“教育”を受ける。学校のお勉強や正しい生活リズムなど“やりたくないこと”をやらされ続け、ゲームや遊びなど“やりたいこと”を制限されたり我慢させられたりする。いつまでも“やらされ”てばかりではダメで、反省して自分の“意識”を使って“自分でできる”ようになることを求められる。実際には、「怠惰で頑張れなかった人間が将来どうなるか」「遊んでばかりだと悲惨な生活を送ることになる」「今週中に宿題/課題を出せ」「怒ってはいけません!」「授業中に動き回ってはいけません!」「○○するのが当たり前」といった重圧・脅迫・比較・緊張・義務・禁止・常識によって自分を従わせるだけなのだが、それを“意識”によって自発的にやっていると錯覚する(というより既に“そういうこと”になっている)。「“(武器を取り込んだ)意識”が“させている”」ではなく、「“意識=自分”が“やっている”」という自律を信じるようになり、“意識=自分”を肥大化させていく。

そもそも思考にしろ妄想にしろ、それ自体は自分で“する”のではない。世界の流れの中でただ“される”のであり(『「私」なんていらない』)、それを“意識”が“させない”あるいは“やめさせる”のである。勉強に集中“する”のではなく、監視人である“意識”が出てきて集中“させる”のである。“意識”によってなされる計画や計算は、“するため”のものではなく“させるため”のものである。流れの中での“される/されない”と“意識”による“させる/させない”、しかし私たちは「“意識=自分”で“する/しない”」という物語・レトリック(“意識”の宣伝)に絡めとられ、いつの間にかそれが自明になっている。要するに、“意識”とは“意識=自分”であるどころか、明確な対立者=異物であり、したがって自分の中に初めからあるのではなく、強制的に外部から植え付けられると考える方が実態に即していると思われる。

昨今、AIや自動化の恐怖が叫ばれているが、これはおそらく満たされることに対する恐怖でもある。満たされたらやりたくないことをやる(“意識”がさせる)必要がなくなる、やりたいことを我慢する(“意識”がさせない)必要もなくなる、つまり“意識”の必要がなくなるからである。“意識”のタガが外れてしまったら一体どうなってしまうのか?“意識”を自分と錯覚しているがゆえの恐怖。モラルが失われて犯罪だらけになる!“意識”が肥大化したがゆえの恐怖。堕落してしまうのでは?成長しなくなるのでは?“意識”による価値判断(脅迫)が何重にも組み込まれてしまったがゆえの恐怖。

しかし肥大化したこの“意識”とは、「日常生活が“やりたくないけどやらなければならないこと”に覆い尽くされている」という極めて特殊な(劣悪な)環境の産物である。とすると、満たされることはようやく訪れる始まり(遠回りして元に戻った)にすぎない。それは“意識=自分”の崩壊ではなく、“意識=異物”と自分との対立の終わりである。つまり自分=世界の流れと調和して生きるようになる、というだけの話である。

“意識”がつくる恐怖に屈してはいけない。「“意識”の力で人間の残酷な悪い本性が抑えられている」「人間は“意識”を使って自己を陶冶し成長/進歩していくもの」といった“意識”の宣伝に惑わされてはいけない。みなさんにも“意識”がなくなった経験があるはずだから。自分が今やっていることに夢中になり、“意識”が一時的に消える状態。ゲームなり運動なり趣味なり仕事なり、“フロー”と呼ばれるこうした状態をみなさんご存知のはずである。「充実している」なんて思う暇もない状態、目の前がその瞬間の全てになった状態。満たされることで“意識”が役割を失い、“させる/させない”がなくなれば、その瞬間にやりたいこと(“される”こと)とその瞬間にやることが一致し、やりたくないこと(“されない”こと)とやらないことが一致するから、“フロー”のような状態がむしろ日常化するのではないか。そして“やりたいこと”のような言葉も意味を失う。

なんにせよ、“意識”の無い状態は恐れるようなものではないし、困るものでもないだろう。私たちは“意識=自分”という錯覚を共有する必要もなければ、消滅の恐怖を共有する必要もない。とはいえ、一度“意識=自分”になったら、満たされたからといってすぐに自動的に“意識”が消えてくれるわけではなく、しばらくは“意識”と付き合っていくことになる。捨てるも自由、死ぬまで一緒にいるのも自由(?)(もちろん“意識”が不要になれば“自由”という概念も不要になるが)。ただ、“意識”を植え付ける(“意識”を前提とした)“教育”をしなければ、数世代で“意識”は消滅するだろう。したがって、意識的に“意識”を消滅させる手伝いをする、これが“意識”の最後の役割になる。


人間関係に夢をみる

AIやロボットが進歩して人間と人間以上にうまくコミュニケーションできるようになった時、人間同士の関係はどうなるのだろうか。私の見た限りでは主に2つの意見があって、1つ目は人間が人間を必要としなくなって大変だというもの。人間にはやはりホンモノが必要なので、何らかの規制が求められる。2つ目はAIやロボットの方がいいなら素直にAIやロボットとだけ関わればいいじゃないかというもの。ホンモノだろうがニセモノだろうが、自分にとっても他人にとっても快適なんだからそれでいいじゃん、というわけである。

私は2つ目の方に近く、そうなるならそれで有り難いし、AIに文章の指導とかしてもらいたいなぁなんて思っていた。が、最近になり「この2つの見方って結局はどちらも“今の人間関係”の延長でしかないのでは?」と考えるようになった。要するに、言い方は悪いが、“道具的な枠組み”でしか人間関係を捉えていなかったのである。必要とする/必要とされる、どちらかがどちらかの欲求を満たす手段となるような非対称的な関係。とはいえ、一方通行ではなく相互依存的である。たとえば必要とされる方が必要とされることに生きがいを感じるようになり、必要とされないと生きていけなくなったり。また、自分がどちら側になるかは相手や場合によるし、恋愛のように同時に両側になることもある。

そうやって求め合ったり求めたり求められたりするのが人間を人間たらしめるかけがえのない独自性だから、ここを譲ってはいけない、という所で分岐しているだけで、2つは結局“人間は自分の欲求を満たすために人間を必要としている”という見方で一致している。だから反応の仕方が違うだけで、「AIやロボットが進歩すれば人間は人間を必要としなくなる」という予想自体は一致する。“人間は自分の欲求を満たすために人間を必要とする”というあり方以外ないなら、それを“道具的”なんて表現することは悲しいだけだが、しかし本当にこれ以外ありえないのだろうか。AIやロボットに満たしてもらえるようになったら人間は人間を必要としなくなる、つまりよりよい道具で満たされたらそれで終わりになってしまうような関係、こいつは満たされないことが当たり前な世界の関係ではないのか。

この話が根拠になるかはわからないが(アナロジーとしてかなり微妙だが)、昨今よく登場する“自尊心”とか“自己肯定感”といった言葉を思い出してほしい。「自分は生きていてもいいんだ」「自分には存在価値があるんだ」という、「その時点で既に心に大きな穴が空いているから“必要になってしまう”メンタリティ」である。自尊心も自己肯定感も、基本的には“欠乏している側”の視点から論じられる、逆に言えば“ある側”としてはその状態が普通なので、「自分は~」という風には多分そんなに考えない、いちいち確認する必要がないのである。つまり自尊心や自己肯定感は適切な経験を重ねることで構築される基盤のようなもので、それが欠乏した時にはじめて“必要”になるのである。

この話で言いたかったことは2つあって、まず1つは今の“道具的な人間関係”も欠乏しているからこそ生じるあり方なのではないか、ということ。私たちは「自分の力で生き残れ」「自立しろ」という圧力を陰に陽に受けながら、自明な“共に生きていく仲間”を幼い頃から欠いた状態で育っていく。人類は数百万年の間、基本的にはうまれた集団に所属して運命を共にしてきたわけで、いくら文明の力で安全が確保されても、そういう仲間がいない状態は大きなストレスになるのではないか。そのせいで空いた心の穴=欠乏を埋めるため、他人を使って/他人に使われて不確かに満たし合いながら、なんとかかんとか生きているのではないか。これは“異常な世界の当たり前”にすぎないのではないか。

もう1つは、満たされたらそれで終わりなのか、ということ。もし“道具的”が実際に当たり前だったとしても、AIやロボットによって完璧に満たされるようになったら、自尊心や自己肯定感が“ある側”の人がそこを基盤にして欠乏した人ができないような挑戦に乗り出すように、私たちは新しい人間関係に乗り出すのではないか。AIやロボットが進歩したら人間が人間を必要としなくなる、AIやロボットとだけ関わるようになる、これはあくまでも欠乏している私たちによる“今の人間関係”を前提とした考えなのである。

では完璧に満たされた後で、つまりそれ以上の道具を必要としなくなった後で、どんな人間関係がうまれてくるのか、欠乏した世界の住民である私にはさっぱりわからない。突き詰めれば結局何らかの欲求や必要に基づくのだろうが、きっと画定された孤独な個体のそれとは全く異質なもののはずである。だから、どうせなら夢をみることにした。“対等”という概念が不要になるぐらい対等で、“つながり”のような概念が不要になるぐらい深くつながり溶け合っているような、そんな人間関係を私は夢みている。


目の前の選別

最近、ゲノム編集された赤ん坊の誕生が話題になった。父親がエイズに感染していたため、子供が感染しにくくなるようにしたとか。これに対して主に2つの批判があがった。一つ目は時期尚早というもの。まだ研究が不十分でそれが子供にどう影響するかわからない、もっともだと思った。今治療できますよと言われたら多分私も断る。二つ目は倫理的に問題があるというもの。優生思想、命の選別、親が自分の欲望に従って好き勝手に子供をデザインするようになる、正直こっちはなんで問題になるのかよくわからなかった。

といったことを言っていたら、「うまれる前の赤ん坊を勝手に選別できるようになったら、うまれた後の人間も勝手に選別されるようになることがわからないんですか?」と言われた。ダメな奴は殺されるらしい。赤ん坊の選別といっても、大量につくって“優秀な遺伝子”を持っている赤ん坊だけを選別して他の赤ん坊はみんな処分する、みたいなことをするわけではなく、あくまで選別する(というより手を加える)のは遺伝子である。それに“劣った遺伝子”だらけの人同士がつくった“劣った遺伝子”だらけの子供も遺伝子を変えられるのだから、わざわざ個体単位で選別する必要がなくなるわけで、この技術(と誰でも最適な生育環境を提供できるような技術)が確立されればむしろ優生思想に意味がなくなり、そのうち廃れるのではないか。

赤ん坊の意志を無視して勝手に性質を選別するなんて、と言っても、じゃあ所得や能力や容姿や性格で好みの性質を持った相手を赤ん坊にお伺いを立てずに選んでいるのはどういうことなのか。こんな世界に赤ん坊の意志を無視して(ゲノム編集せず)勝手に引きずり込むのはいいのか。また、障害者を否定することになると言っても、“障害者”というカテゴリーの時点で半ば否定されているのではないか。前置きが長くなってしまったが、要するに「怒るのは“そこ”ですか?」ということである。目の前で既に行われている選別はいいんですか?それも、かなりえげつない選別だと思うのですが。

私たちはうまれてから常に選別されている。障害や病気の有無で受けられる教育は変わるし、それによって進路も限定される。“普通の”学校に入っても、学力や偏差値や運動能力や特技によって選別され、性格やコミュニケーション能力などによっても選別される。また逆に友達を選ぶし、付き合う相手を選ぶし、子供をつくる相手も選ぶ。私たちは常に選別されているし、同時に他人を選別してもいる。その選別の結果にも影響を受け、また選別され、選別する。

いやいや、そんな選別のどこがえげつないの?別に普通じゃん。本当にそうだろうか。現代社会を生きる私たちは“働いて自分の力で稼がないと生きていけないシステム”を採用し続けている。そのせいで、テクノロジーの進歩に伴って人間がやるべき必要な仕事はどんどん減っていくはずなのに、言い訳・正当化のためのシゴトやでっち上げの必要が創出され続け、恩恵が行き渡るのが妨げられ、生産過程・カネや権力が集まる組織にうまく寄生できる者とそうでない者とのピラミッドが現出している。選別を生き残れば残るほど制度によって手厚く保護され、“努力の成果”という物語まで与えられる一方、排除された方は貧困・収奪を我慢させられ、「努力不足・無能・自己責任・足を引っ張っている」ということにされる。

確かに「生きる価値なし」と誰かに勝手に判断され命を奪われるわけではない。そういったインパクトのある選別はめったにない。しかし、私たちは日々少しずつ選別され、ピラミッドの中に配置されていく。そんな世界で進路が限定されたら、偏差値が低かったら、学校に通えなかったら、能力がなかったら、病気になったら、気に入ってもらえる性格じゃなかったら、一体どうなるだろうか。つまり単なる印象の差にすぎないのである。具体的な誰か、たとえば特定の思想を表明する個人がやるか、日常に浸透したシステムが自動機械のようにジワジワやるか。ピラミッドの下層で待っているのは貧困や劣悪な労働環境や制度からの疎外や孤立であり、そのせいで病気になったり、“障害者”になったり、身体をこわしたり、精神を病んだり、引きこもり、そして最後は自殺である。どんどん追い詰められて“自発的に”選別されるシステムになっている。

“システム”と言うと抽象的ではっきりとした主体とは思えないが、私たちがこの社会・システムを支持しているのは事実である、それも「昨日もそうだったから」「みんなやっているから」程度の理由で。したがって“自然淘汰”とか“弱肉強食”とかシステムを“自然”に見立てる比喩はインチキであり、私たち自身が選別する/される(システムの内側にいる)と同時に選別システム自体を肯定・支持している。ただそれを“自然”に見立てられる程度にまで責任意識が希釈されているだけ。デザイナーベビーにおける“親の欲望で好き勝手”なんてのも、やるのが“親”とはっきりしているからインパクトが大きいだけで、所詮“代表者としてシステム(の価値観)に奉仕する”にすぎないわけである。

私たちは帰責できる具体的な相手=印象・インパクトがないというだけで非道なシステムをあっさりスルーし、ピラミッドの位置取り能力という無意味な基準で無意味な選別を続け、最下層の少し上の所で今より悪くならないために/今の生活を守るために働いていく、あるいは落ちてしまった所で自分を“自分の意志で”選別しながら最終選別の日まで苦しみに耐えていく。日常に浸透して目立たないというだけで、“今現在既に”選別された人々は様々な“普通”から退出し(させられ)苦しんでいるし、不当に死んでしまう人も大勢いる。目の前のこんな選別システムを問題視できないのだから、倫理とか多様性とか命がどうとか言われても“わざとらしさ・白々しさ”を感じるだけだし、「怒るのは“そこ”なんですね」としか言いようがない。


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遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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