「コミュニケーション能力」とは何か

企業が就活生に「コミュニケーション能力」を求めるようになって久しい。「コミュ障」や「アスペ」といった差別用語?も広まり、「コミュニケーション」を重視する姿勢はすっかり社会に浸透した。こうした傾向に対し、識者たちは「コミュニケーション偏重主義」「空気を読むだけ」と批判し、グローバル化やら高度化する仕事やらについていけなくなると警鐘を鳴らしている。

しかし逆に言えば、ついていく必要を感じてないから「コミュニケーション」を重視しているということである。もし仮に我々が重大で切迫した問題に直面していたら、「コミュニケーション」なんて重視するだろうか?つまりそういうことである。実際にヤバかったら「コミュニケーション」のことを気にする暇など無い。問題解決に向け必死になって協力しようとするはずである。

要するに、暇になったのである。やることがほとんどない、しかし諸々の事情(「しょうがないだろ!オレたちは働いてカネを稼がなきゃいけないんだよ!」)でそれを素直に認めるわけにはいかず、意識的・無意識的に忙しくしようとして発見したのが「コミュニケーション」という広大なフロンティアであり、それが今日のコミュニケーション・ブーム?につながっている。(社会的には)頑張る必要がないのに限られた雇用のイスを巡って(個人的には)頑張らなければならない=競争しなければならないから、「コミュニケーション」で競争しているのである。

さて、学校なりサークルなり職場なりで何かしらの企画をやった時のことを思い出してほしい。新しい試みなど何もすることなく、そもそもわざわざ新しい試みをする必要などなく、「何となく決まっていたこと」を進めていくだけである。したがって大変な思いや苦労をしなくても構わないのだが、「それではいけない」ので、話し合い、対立し、「必要なこと」を増やし、友人や先輩に相談して友情や信頼を深め、残ったり徹夜したりし、右往左往しつつも「何となく決まっていたこと」の「枠」からは外れないようにし、大成功でもって成長や充実を得る。「何となく決まっていたこと」を進めるだけでは競争にも成長にもならないからといって色々と「らしさ」を加えることで、複雑さだけが無駄に増す。

複雑さが無駄に増すことによって脱落者が出る。対立に執着する者、「枠」から外れる者、従わない者、合理化しようとする者・・・・・・こうした人たちは集団から排除され、「コミュ障」「アスペ」と認定される。つまり、この「何となく決まっていたこと」を複雑に実現していくことに貢献する能力が「コミュニケーション能力」なのである。

この能力は当然個別の「コミュニケーション」でも重要になってくる。たとえば「志望動機は?」「本音は?」「本当は?」というやりとり。「動機」も「本音」も「本当」も言語化は極めて困難で、こうしたことを言葉にして表現する、言われた方がきちんと解釈する、これは非常に手間のかかる共同作業(コミュニケーション!)であり、どちらの側にも相当な知力と根気が求められる。考えるまでもなく、この作業を遂行している人間はほとんどいない。

それでは常日頃人々が行っている「コミュニケーション」は何なのかというと、これも「何となく決まっていたこと」の実現なのである。たとえば「○○ちゃんには興味ないよ」は「本音」と認められず、「実は○○ちゃんのこと好きなんだ」は「本音」と認められる。「本音」は相対的なもので日々流動するが、要は相手・みんな・社会が本音と認めているものが「本音」。本音だから言いづらいのではなく、言いづらいからそれが「本音」。「言いづらいこと」は社会的にかなり共有されているので(「何となく決まっている」ので)、個別の「コミュニケーション」ではそれを相手や集団や状況に合わせて調整し、いかに「本音」と認めさせるかの勝負になる。

「志望動機」も同じように「何となく決まっていたこと」である。これは当たり前で、相手を納得させるには「何となく決まっていたこと」に頼る方がいいし、面接する方も「何となく決まっていたこと」でないと納得できないだろう。しかしあまりにも典型的な「何となく決まっていたこと」だと印象が悪くなるので、「何となく決まっていたこと」の「枠」内でいかに好印象を与えるかの勝負になる。「枠」の範囲でうまくやるセンスは無駄に複雑な日々の労働をこなしていくには必要なので、「志望動機は?」という質問は理に適っている。

「動機」も「本音」も「本当」も、誠実に語ろうとすれば「わからない」「みんなやっているから」としか表現しようがなかったりするが、それでは競争にならないし、その責任を個々人に引き受けさせることができないので、「何となく決まっていたこと」を「お前の動機/本音/本当」ということにするのである。わからない?ならもっと内面を掘り下げろよ!みんなやっている?ちゃんと自分の言葉で話せよ!ほら!ほら!・・・・・・こうやって「何となく決まっていたこと」を当人の口から「当人の言葉」で語らせ、「お前の言葉」なんだからそれが「現実」そのものなんだよ!ということにする。「動機」「本音」「本当」と認めてもらうには誠実さを捨てねばならず、そうして絞り出される不誠実な言葉が「意欲/愛/信頼の証」とされる。「所詮は言葉遊びなんだから現実と一致するわけないじゃん」なんて態度は許されない。不誠実な言葉を誠実に語る狂気の競争、この途方もない滑稽さについていけない者は脱落し、例の如く「コミュ障」「アスペ」ということになる。

つまり現代社会における「コミュニケーション」とは(メディアや人間関係を通じて内面化した)「何となく決まっていたこと」を現出させる共同作業であり、「コミュニケーション能力」とはそれに貢献する能力である。単純なことを複雑に、簡単なことを難しく、不誠実な言葉を誠実に、この不条理に没入する能力。技術の進歩や機械化のおかげで社会的にはやることがなくなったのにそれを素直に認められないせいで「必要」になってしまった能力。オレは本心を話してるぞ、バカにしやがって!と怒る人もいるかもしれないが、まさにそれこそが「競争社会」に適応的なあり方なので、夢から覚めたくないならその気持ちを大事にしてください。


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思考より試行

先日、「やりたいゲームを我慢し続け、大人になって買ったら全然楽しくなかった」といったツイートをみかけた。悲劇である。我慢しているうちに、年を取って楽しむ能力(体力や集中力)がなくなってしまった。感覚が変わってしまった。やる気がなくなってしまった。ふむ、しかし、そもそもそれは本当にやりたかったことだったのだろうか?

現代社会の生活は強制と義務の連続である。学校・受験・人間関係・労働税金労働税金・・・・・・我慢するばかりの毎日。しかし人間はただ我慢し続けることができない。そこで「先延ばし」である。「これ面白そう!」と思ったら、早速やってみるのではなく、目の前にぶら下げるニンジンにする。さらには「自分は○○な人間だからきっと××が好き/向いているに違いない」などと思考してイメージ・幻想=ニンジンを創出してしまう(就職活動ではこれができるかどうか試験される)。

幼少の頃から大量の「やるべきこと」を押し付けられる社会には、色々と自由に試す余裕が存在しない。となると「やりたいこと」「好きなこと」には少ない試行で辿り着か「ねばならない」が、当然そんな簡単に当たりを引けるわけもなく、したがって「これだ!」と思い込み、それを試さず先延ばしにすることになる。「いつか○○したい」「退職したら××するのが夢」と先延ばしにし続け、いざやろうとしてみたら/やってみたら・・・・・・思ってたのと全然違う!はて、自分は一体何をしていたのだろうか?日々の苦しみに耐えるために、合う/合わない感覚よりアタマ・思考(思い込みやイメージや幻想)を優先してしまうことで、えてしてこうした悲劇が起こる。

かつて私がまだ奴隷社会に適応しようと奮闘していた頃、私は海外に大きな幻想を抱いていた。理由は不明だが、当時の「理由」としては、「自分は好奇心旺盛だから、きっと海外旅行が好きに違いない」みたいな感じだったと思う。一人で海外旅行をすれば、価値観がひっくり返るような経験ができるのではないか?海外が何かを変えてくれる。海外が灰色の毎日を変えてくれる。いつか、働いてそれなりにお金が貯まったら・・・・・・。私もまたアタマを優先して幻想を創り、日々の苦痛、延々と続く強制と義務に何とか耐えようとしていたのである。

今思えば、大学在学中に無気力になったのが僥倖であった。感覚よりアタマを優先させる生き方が嫌になったのだろう。だが当時の私にはそうした認識もなかったので、幻想に従い海外に救いを求めた。

カネを貯めるためにアルバイトをやったのも良かった。一か月弱で辞めたのだが、初めての給料の数値を眼前にしたとき、ATMを破壊したくなるような衝動にかられた。心身ともに消耗しまくって、これっぽっち!?「自分で稼いだカネ」に対する感動は微塵もなく、あったのは賃金労働に対する憎しみだけ。こんなはした金を「お給料」とか言って有り難がれ?人間を舐めるのもいい加減にしろ。たった一か月弱の経験ではあるが、この賃金労働への幻滅がなければ、「働けばどうにかなる」といった労働万能幻想に囚われていたかもしれない。

海外旅行に出発。たった十日だったが、一人での旅行。海外旅行が好きな人からすれば十日程度で、と思われるかもしれないが、私はこの旅行のおかげで他国の文化・絶景・人々・食べ物・空気などなど、どれにもあまり興味が無いことがわかった。別に好きでもなんでもなかったのである。日本に帰ってきたとき抱いたのは「もう日本の・・・・・・いや、住み慣れた地域の外には出たくない。安住したい。外出は好物を食べに行く時だけで十分」という思いだった。海外に行ったことで何かが変わったのは確かだが、それは私が思い描いたような変化ではなかった。幻想が破壊され、胸に穴が開いたような、「自分は何をしていたのだろう?」と我に返ったような感じだった。

私は毎日読書をして文章を書いてたまに好物を食べに出かける、というだけの単純な生活を送っているが、この生活に「これだ!」と一発で辿り着いたわけではない。私もまたありきたりな幻想を色々と信じ、アタマを優先させる生活を送っていた。ただ人より早く脱落し、学生だったことが幸いして色々と試行でき、幻滅を繰り返し、合う方合う方に進んでいるうちに自然とこうなっていたのである。だからこそ満足度も高いし、「合っている」という感覚が正しさへの確信にもなっている。

現代社会では幼い頃から将来の職業を「考え」させる。早期に自分の道を「発見」することが称賛される。学校・人間関係・労働・税金といった強制と義務の連続が時間を根こそぎ奪い取る。このような環境に適応する中で習得するのは、「これが自分のやりたいことだ」と思い込み、それを目の前にぶら下げ自分を鼓舞して日々の苦痛に耐える、そんなスキルである。「あれをやれば何かが変わる」、こうしたイメージや幻想で自分を駆り立てるスキルである。しかし、所詮はアタマの中の思考。自分が「○○な人間」かどうかは時と場合によるし、○○な人間だったとしても××が好きとは限らない。いくら根拠を積み重ねて論理的に思考したところで、××を好きになるわけでもない。自分が「これがやりたいことだ」と信じていても、実際にそれがやりたいことかはやってみるまでわからない。

私は海外への幻滅を通じ、自分(人間?)が幻想を強固に信仰できてしまうことを思い知った。あの時行ってなければ、私は今も奴隷社会の要請に従ってアタマを優先させていたかもしれない。試行して「好き」や「やりたい」が現実と違ったとしても・・・・・・幻滅による空虚感と無気力、それでも容赦なく畳みかけてくる義務、義務、義務。結局は明日を生き延びるため、別の幻想に縋らざるを得なくなり、欲求と一緒に破局も未来に先延ばしする。幻想から幻想へ、そして訪れる大幻滅。現実とアタマの不一致が顕在化し、自分が何をどうしたいのかわからなくなる。

負のスパイラルをどこかで絶つ必要がある。ニンジンをぶら下げて自分を駆り立てる、バラ色の幻想を創って縋る、そもそも人間に合わないことを無理やりやらされ続けるからこうしたスキルが必要になるのである。思考を優先させ続ければ大抵の人はどこかで潰れるが、義務と強制は待ってくれない。精神的に借金漬けにして逃げられなくするシステムである。このシステムには必死になって消耗してまで従う価値がないことを認識し、アタマが創った幻想を試行による幻滅で地道に潰し、合う/合わない感覚を取り戻していく必要がある。思考より試行である。


他人の背景はわからないということ

いじめによる自殺といった話を耳にすると、結構な数の人が無意識のうちに犠牲者を責めてしまう。本人が弱かったから、いじめに耐えられなかった。コミュニケーション能力が低かったから、いじめられた。犠牲者に原因を帰属させ、責めるのである。「どうして相談しなかったのか/逃げなかったのか」「大袈裟に考え過ぎだ」などと言う人もいるが、これらもまた「できなかったこと」や「考え方」に焦点を当て、犠牲者を責めている点では変わらない。

いじめはいじめられる方も悪い。そう、「悪い」のである。悪いから責める。逆に、いじめる方は、悪くないから責められない。「いじめはいじめられる方も悪い」に代表される「責め」の言説は、いじめる方を免責し、いじめられる方に「悪い」を移行させるものである。

いじめ、不登校、自殺・・・・・・。こうした話を聞くとき、私はある種の「気持ち悪さ」に気づくことがある。「どうせ本人のせいにされて終わるんだろうな」という諦めが圧倒的ではあるが、片隅には確かに幾ばくかの「気持ち悪さ」がある。しかし、自分とは全く関係のない人間の話を聞いて、なぜ「気持ち悪さ」が生じるのか。

「本人が悪いから悪いことが起こる」、私たちは悪い知らせを聞くとこう考えてしまう。因果応報、信賞必罰。このように考えるのは人間の本性かもしれないが、私は人間関係ゲーム(上か下か)と「競争」の浸透がこの本性を過剰に引き出していると思う。人間関係ゲームに支配されたコミュニティでは、成員は地位を守るため「減点」を回避しようとし、何かあれば(自分より弱い)他人に責任を押し付ける。「競争」で利益を得る人間は、「努力できなかった奴が悪い」と有無を言わさぬ形での正当化に飛びつく。また、こうしたことをされた方は「次こそは・・・・・・」と執念を燃やし、地位や利益を手に入れれば強く執着するだろう。そのためゲームと「競争」が支配する世界に没入し続けると、「責任は犠牲者の方にある(ことにする)/負けた方が悪い(ことにする)」といった「常識」を身に付けることになる。

つまり、「気持ち悪さ」の正体は矛盾なのである。報道では(一応)いじめる方の責任を問うので、日常生活で身に付けた「常識」と矛盾する。「当たり前」から逸脱している不快感。それで無自覚・無意識のうちに、自動的に、「犠牲者が悪い」ことにする。犠牲者に原因を帰属させ、責める。知らない相手を勝手に判断して、責める。犠牲者が悪いから責める。責めることで犠牲者が悪いことにする。自分の「常識」に合わせるためなら、見ず知らずの他人を「弱い」の一言で切って捨てることも躊躇わない。

私たちは「常識」を深く内面化しているため、「他人の背景はわからない」という当たり前のことを都合よく無視してしまう。他人がどうやってある決定・状態に至ったのか、わかったことにすることはできても、わかることはできない。たとえばヘマがきっかけでいじめられるようになって最後は自殺した人がいたとして、その人がたまたまある行動を取ったことで周囲の反応がちょっと変わり、神経伝達物質の出方もちょっと変わって、それが別の行動に結び付き、うまくいっていた流れが一転してヘマに結び付いたのかもしれない。これは極端な作り話だが、ちょっとした偶然は結果を大きく左右するし、その結果がさらに現実に作用し、未来を大きく左右する。

偶然だけでなく、遺伝・環境・状況に依るところも大きいし、個体差があるから何をどう感じていたかもわからない。こちらからでは他人の背景の断片しかわからない。その断片を言葉にされたらもっとわからない。しかし言葉にされることで、わかったことにすることは容易になる。たとえば「いじめを苦に自殺した」と聞けば、なぜか「わかった」と思ってしまう。残念なことに、それで自分がわかったことにしていることがわからない。自分の都合で判断してしまっていることもわからない。それどころか、本気でわかったと思い込み、本気で正当な判断だと思い込む。自分の背景(のごく一部)さえわからないのだから、他人の背景もわかるはずがない。

遺伝子、置かれた環境・状況、訪れた偶然、こうしたことの積み重なり=人生を蔑ろにし、無数の「わからない」を無視し、「弱いから死んだ」といった判断を具体的な個人に適用する。それも、自分の都合で。これはかなり残酷なことだと思うが、人間関係ゲームと「競争」に没入し続けてきたためか、多くの人が慣れてしまっている。「他人の背景はわからない」「これは勝手な判断にすぎない」「自分の都合で犠牲者を悪者にしようとしている」、いじめ自殺ばかりでなく、何かを知って/聞いて件の「気持ち悪さ」を感じたときは、こうしたことを思い出し、陥穽にはまらないようにしたい。


恋愛と労働から退場しよう

11月24日のクローズアップ現代+では恋愛しない若者が取り上げられていた。「お金がない」とか「面倒くさい」とか言って恋愛しようとしないのである。その原因としては、実際にお金がないことや、SNSでの監視が挙げられていた。が、私にはもっと違う所に原因があるように思われた。

番組内ではモテない男女が「自虐」とか「劣等感」といった言葉を使っていたが、失敗した人間が周囲とやっていくために自虐すること、劣等感を抱いてしまうことがそもそもおかしいのではないか。これはよく言われるように、最近の若者が「気にしすぎ」だからでも「傷つきやすい」からでもない。猿山軍団に活動を乗っ取られているからである。

「猿山軍団」とは、「ある活動を人間関係で優位に立つために利用し、他人をバカにして自己満足に浸かるための道具にする人間たち」である。要は人間関係ゲーム(上か下か)や(目先の)自己利益追求ゲームへの執着心が強い人間たちである。こうした人間は恋愛だけでなく、労働、スポーツ、勉強などなど、あらゆる活動において一定数存在し、それを人の上に立つ道具にし、「○○ができない奴はバカ」とか言って、その活動をつまらなくさせる。活動が猿山のゲームに侵食され、活動する人間や活動自体がゲームの道具にされてしまうからであり、余計な心配事が増えるからでもある。

このような経験は、探せばかなり見つかると思う。恋愛が集団で優位に立つための手段になってみせびらかしが横行するとか、「童貞」/「喪女」と見下されたくないから恋愛しているうちに強迫観念に取りつかれるとか。みせびらかされると白けるし、強迫的にやったらつまらない。あるいは映画・マンガ・アニメなんかでも、製作者・作品・ファンに一言二言イチャモンをつけて見下しているのをみると、白ける。

あなたがスポーツ嫌いなら、それは運動が苦手だったからではなく、近くに猿山がいたからだろう。とくに幼少の頃は初期の発達で有利/不利がかなり決まってしまうので、バカにされてもどうしようもない。もちろんみんなで結託して猿山を改心させる/追い払う展開もありえるが、大抵は猿山の追随者が現れ、安定したピラミッド構造が作られてしまう。

所属する部活・サークル・職場が猿山軍団に乗っ取られたことはないだろうか。そうなると「この指摘をしたら恥をかかせるのではないか」とか「立場が危うくなるのではないか」といった本来の目的とは無関係なことに頭を使わねばならなくなり、集中力・エネルギーが分散され、疲れ、さらにやる気をなくす、という悪循環に陥る。活動に対するメンバーの意欲もなくなり、「ただやっているだけ」になり、面白くなくなり、かといってどうにかなるわけでもないので、惰性で続ける。

猿山が増えれば集団は腐敗し、活動も廃れていくが、恋愛や労働のように「当たり前」の地位を手に入れると話は厄介になる。やらない人や、やめようとする人に対し、猿山が「人格に問題がある」とか「普通じゃない」を使って背徳感に訴えてくるからである。猿山の自己利益追求が同時に(意図せぬ)引き止めになってしまう。そこで負けると活動は「強制」となり、当然さらにつまらなくなる。

人々はこうした形で猿山と関わる中で、「自虐」や「劣等感」といった猿山対策(もちろん成長・進歩のためには有害)を学習する。「対策を学習する」と言えば聞こえは良いが、実際はそうした役を演じねばならないという猿山の掟を内面化していくだけである。同時に、「猿山と関わりたくない」と強く思うようにもなる。番組に出ていた男性は「告白した女性にやり取りをSNSで拡散されて恐怖心が芽生えた」と言っていたが、これはまさに相手が猿山だったのである。SNSが「監視」になってしまうのは、このように猿山がどこにどのような形で紛れ込んでいるかわからないからである。数百人の「友達」を判別し切るのは無理だし、加えて「当たり前」に群がる猿山の数を考えると、いつどこでどんな形で餌食にされるかわからない。これでは恋愛を控えるのが当然だろう。

番組内には「男が来ないから恋愛できない」と言っている女性もいたが、「ハイスぺ」「肉食女子」なんて言葉の広まりを考えてほしい。これはもう「猿山軍団がここにいますよ~」と宣伝しているようなものである。だから集まるのは同種の男、セックス目的の男、お人好しだけとなるのであり、男がひ弱になったとかそんな話ではない。

同じ「当たり前」でも、労働はさらに悲惨である。こっちは生活を人質にとっている分遥かに強制力があるし、年収や肩書といった猿山が好みそうな要素も多い。猿山が群がり、本来の目的が失われ、無駄な争いが増え、考えねばならないことも増え、足の引っ張り合いが蔓延し、時間が喰われ、成長・進歩が止まる。

結局、恋愛からは黙って退場し、「当たり前」が転覆するのを待つしかないのだろう。労働の場合はまずBI推進。猿山に会ったら即退職できるようにする。次に解雇自由化。猿山を見つけたら即解雇できるようにする。猿山は千害を生むのみだが、かといって死刑にできるわけでもないので、関わらなくて済むようにしていくしかない。


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読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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