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満たされた後の意識

イスに座ってボーっとしているとき、いつの間にか思考や妄想に没入していて、しばらくするとハッと我に返る、なんてことがある。何か作業をしている最中だったら、また注意をそこに向ける、何かする予定があったら、「○時になったらちゃんと××しないとな」と確認する。そしてまたいつの間にか思考や妄想に没入していて・・・・・・。これを繰り返しているうちに、「ああなるほど、これが“意識”なんだ」と納得するようになった。

もちろん意識といっても様々な層がある。認識や知覚の結果がのぼってくるスクリーンのような層であったり、感情を感じる層であったり。その中で今回私が取り上げる“意識”は自分を監視・制御する層である。たとえば私たちは「将来の計画を立てて行動しろ!」とか「怒りの感情をコントロールしろ!」とか言われたりするわけだが、実際にできるかどうかは別として、こうしたことを“意識”によってできることになっている。「勉強に集中しろ!」とか「早く起きなさい!規則正しい生活をしなさい!」とか、“意識”によってできることになっている。そんな世界で生きるうちに、“意識”が初めからあったことになっていく。

私たちは幼い頃から“教育”を受ける。学校のお勉強や正しい生活リズムなど“やりたくないこと”をやらされ続け、ゲームや遊びなど“やりたいこと”を制限されたり我慢させられたりする。いつまでも“やらされ”てばかりではダメで、反省して自分の“意識”を使って“自分でできる”ようになることを求められる。実際には、「怠惰で頑張れなかった人間が将来どうなるか」「遊んでばかりだと悲惨な生活を送ることになる」「今週中に宿題/課題を出せ」「怒ってはいけません!」「授業中に動き回ってはいけません!」「○○するのが当たり前」といった重圧・脅迫・比較・緊張・義務・禁止・常識によって自分を従わせるだけなのだが、それを“意識”によって自発的にやっていると錯覚する(というより既に“そういうこと”になっている)。「“(武器を取り込んだ)意識”が“させている”」ではなく、「“意識=自分”が“やっている”」という自律を信じるようになり、“意識=自分”を肥大化させていく。

そもそも思考にしろ妄想にしろ、それ自体は自分で“する”のではない。世界の流れの中でただ“される”のであり(『「私」なんていらない』)、それを“意識”が“させない”あるいは“やめさせる”のである。勉強に集中“する”のではなく、監視人である“意識”が出てきて集中“させる”のである。“意識”によってなされる計画や計算は、“するため”のものではなく“させるため”のものである。流れの中での“される/されない”と“意識”による“させる/させない”、しかし私たちは「“意識=自分”で“する/しない”」という物語・レトリック(“意識”の宣伝)に絡めとられ、いつの間にかそれが自明になっている。要するに、“意識”とは“意識=自分”であるどころか、明確な対立者=異物であり、したがって自分の中に初めからあるのではなく、強制的に外部から植え付けられると考える方が実態に即していると思われる。

昨今、AIや自動化の恐怖が叫ばれているが、これはおそらく満たされることに対する恐怖でもある。満たされたらやりたくないことをやる(“意識”がさせる)必要がなくなる、やりたいことを我慢する(“意識”がさせない)必要もなくなる、つまり“意識”の必要がなくなるからである。“意識”のタガが外れてしまったら一体どうなってしまうのか?“意識”を自分と錯覚しているがゆえの恐怖。モラルが失われて犯罪だらけになる!“意識”が肥大化したがゆえの恐怖。堕落してしまうのでは?成長しなくなるのでは?“意識”による価値判断(脅迫)が何重にも組み込まれてしまったがゆえの恐怖。

しかし肥大化したこの“意識”とは、「日常生活が“やりたくないけどやらなければならないこと”に覆い尽くされている」という極めて特殊な(劣悪な)環境の産物である。とすると、満たされることはようやく訪れる始まり(遠回りして元に戻った)にすぎない。それは“意識=自分”の崩壊ではなく、“意識=異物”と自分との対立の終わりである。つまり自分=世界の流れと調和して生きるようになる、というだけの話である。

“意識”がつくる恐怖に屈してはいけない。「“意識”の力で人間の残酷な悪い本性が抑えられている」「人間は“意識”を使って自己を陶冶し成長/進歩していくもの」といった“意識”の宣伝に惑わされてはいけない。みなさんにも“意識”がなくなった経験があるはずだから。自分が今やっていることに夢中になり、“意識”が一時的に消える状態。ゲームなり運動なり趣味なり仕事なり、“フロー”と呼ばれるこうした状態をみなさんご存知のはずである。「充実している」なんて思う暇もない状態、目の前がその瞬間の全てになった状態。満たされることで“意識”が役割を失い、“させる/させない”がなくなれば、その瞬間にやりたいこと(“される”こと)とその瞬間にやることが一致し、やりたくないこと(“されない”こと)とやらないことが一致するから、“フロー”のような状態がむしろ日常化するのではないか。そして“やりたいこと”のような言葉も意味を失う。

なんにせよ、“意識”の無い状態は恐れるようなものではないし、困るものでもないだろう。私たちは“意識=自分”という錯覚を共有する必要もなければ、消滅の恐怖を共有する必要もない。とはいえ、一度“意識=自分”になったら、満たされたからといってすぐに自動的に“意識”が消えてくれるわけではなく、しばらくは“意識”と付き合っていくことになる。捨てるも自由、死ぬまで一緒にいるのも自由(?)(もちろん“意識”が不要になれば“自由”という概念も不要になるが)。ただ、“意識”を植え付ける(“意識”を前提とした)“教育”をしなければ、数世代で“意識”は消滅するだろう。したがって、意識的に“意識”を消滅させる手伝いをする、これが“意識”の最後の役割になる。


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人間関係に夢をみる

AIやロボットが進歩して人間と人間以上にうまくコミュニケーションできるようになった時、人間同士の関係はどうなるのだろうか。私の見た限りでは主に2つの意見があって、1つ目は人間が人間を必要としなくなって大変だというもの。人間にはやはりホンモノが必要なので、何らかの規制が求められる。2つ目はAIやロボットの方がいいなら素直にAIやロボットとだけ関わればいいじゃないかというもの。ホンモノだろうがニセモノだろうが、自分にとっても他人にとっても快適なんだからそれでいいじゃん、というわけである。

私は2つ目の方に近く、そうなるならそれで有り難いし、AIに文章の指導とかしてもらいたいなぁなんて思っていた。が、最近になり「この2つの見方って結局はどちらも“今の人間関係”の延長でしかないのでは?」と考えるようになった。要するに、言い方は悪いが、“道具的な枠組み”でしか人間関係を捉えていなかったのである。必要とする/必要とされる、どちらかがどちらかの欲求を満たす手段となるような非対称的な関係。とはいえ、一方通行ではなく相互依存的である。たとえば必要とされる方が必要とされることに生きがいを感じるようになり、必要とされないと生きていけなくなったり。また、自分がどちら側になるかは相手や場合によるし、恋愛のように同時に両側になることもある。

そうやって求め合ったり求めたり求められたりするのが人間を人間たらしめるかけがえのない独自性だから、ここを譲ってはいけない、という所で分岐しているだけで、2つは結局“人間は自分の欲求を満たすために人間を必要としている”という見方で一致している。だから反応の仕方が違うだけで、「AIやロボットが進歩すれば人間は人間を必要としなくなる」という予想自体は一致する。“人間は自分の欲求を満たすために人間を必要とする”というあり方以外ないなら、それを“道具的”なんて表現することは悲しいだけだが、しかし本当にこれ以外ありえないのだろうか。AIやロボットに満たしてもらえるようになったら人間は人間を必要としなくなる、つまりよりよい道具で満たされたらそれで終わりになってしまうような関係、こいつは満たされないことが当たり前な世界の関係ではないのか。

この話が根拠になるかはわからないが(アナロジーとしてかなり微妙だが)、昨今よく登場する“自尊心”とか“自己肯定感”といった言葉を思い出してほしい。「自分は生きていてもいいんだ」「自分には存在価値があるんだ」という、「その時点で既に心に大きな穴が空いているから“必要になってしまう”メンタリティ」である。自尊心も自己肯定感も、基本的には“欠乏している側”の視点から論じられる、逆に言えば“ある側”としてはその状態が普通なので、「自分は~」という風には多分そんなに考えない、いちいち確認する必要がないのである。つまり自尊心や自己肯定感は適切な経験を重ねることで構築される基盤のようなもので、それが欠乏した時にはじめて“必要”になるのである。

この話で言いたかったことは2つあって、まず1つは今の“道具的な人間関係”も欠乏しているからこそ生じるあり方なのではないか、ということ。私たちは「自分の力で生き残れ」「自立しろ」という圧力を陰に陽に受けながら、自明な“共に生きていく仲間”を幼い頃から欠いた状態で育っていく。人類は数百万年の間、基本的にはうまれた集団に所属して運命を共にしてきたわけで、いくら文明の力で安全が確保されても、そういう仲間がいない状態は大きなストレスになるのではないか。そのせいで空いた心の穴=欠乏を埋めるため、他人を使って/他人に使われて不確かに満たし合いながら、なんとかかんとか生きているのではないか。これは“異常な世界の当たり前”にすぎないのではないか。

もう1つは、満たされたらそれで終わりなのか、ということ。もし“道具的”が実際に当たり前だったとしても、AIやロボットによって完璧に満たされるようになったら、自尊心や自己肯定感が“ある側”の人がそこを基盤にして欠乏した人ができないような挑戦に乗り出すように、私たちは新しい人間関係に乗り出すのではないか。AIやロボットが進歩したら人間が人間を必要としなくなる、AIやロボットとだけ関わるようになる、これはあくまでも欠乏している私たちによる“今の人間関係”を前提とした考えなのである。

では完璧に満たされた後で、つまりそれ以上の道具を必要としなくなった後で、どんな人間関係がうまれてくるのか、欠乏した世界の住民である私にはさっぱりわからない。突き詰めれば結局何らかの欲求や必要に基づくのだろうが、きっと画定された孤独な個体のそれとは全く異質なもののはずである。だから、どうせなら夢をみることにした。“対等”という概念が不要になるぐらい対等で、“つながり”のような概念が不要になるぐらい深くつながり溶け合っているような、そんな人間関係を私は夢みている。


目の前の選別

最近、ゲノム編集された赤ん坊の誕生が話題になった。父親がエイズに感染していたため、子供が感染しにくくなるようにしたとか。これに対して主に2つの批判があがった。一つ目は時期尚早というもの。まだ研究が不十分でそれが子供にどう影響するかわからない、もっともだと思った。今治療できますよと言われたら多分私も断る。二つ目は倫理的に問題があるというもの。優生思想、命の選別、親が自分の欲望に従って好き勝手に子供をデザインするようになる、正直こっちはなんで問題になるのかよくわからなかった。

といったことを言っていたら、「うまれる前の赤ん坊を勝手に選別できるようになったら、うまれた後の人間も勝手に選別されるようになることがわからないんですか?」と言われた。ダメな奴は殺されるらしい。赤ん坊の選別といっても、大量につくって“優秀な遺伝子”を持っている赤ん坊だけを選別して他の赤ん坊はみんな処分する、みたいなことをするわけではなく、あくまで選別する(というより手を加える)のは遺伝子である。それに“劣った遺伝子”だらけの人同士がつくった“劣った遺伝子”だらけの子供も遺伝子を変えられるのだから、わざわざ個体単位で選別する必要がなくなるわけで、この技術(と誰でも最適な生育環境を提供できるような技術)が確立されればむしろ優生思想に意味がなくなり、そのうち廃れるのではないか。

赤ん坊の意志を無視して勝手に性質を選別するなんて、と言っても、じゃあ所得や能力や容姿や性格で好みの性質を持った相手を赤ん坊にお伺いを立てずに選んでいるのはどういうことなのか。こんな世界に赤ん坊の意志を無視して(ゲノム編集せず)勝手に引きずり込むのはいいのか。また、障害者を否定することになると言っても、“障害者”というカテゴリーの時点で半ば否定されているのではないか。前置きが長くなってしまったが、要するに「怒るのは“そこ”ですか?」ということである。目の前で既に行われている選別はいいんですか?それも、かなりえげつない選別だと思うのですが。

私たちはうまれてから常に選別されている。障害や病気の有無で受けられる教育は変わるし、それによって進路も限定される。“普通の”学校に入っても、学力や偏差値や運動能力や特技によって選別され、性格やコミュニケーション能力などによっても選別される。また逆に友達を選ぶし、付き合う相手を選ぶし、子供をつくる相手も選ぶ。私たちは常に選別されているし、同時に他人を選別してもいる。その選別の結果にも影響を受け、また選別され、選別する。

いやいや、そんな選別のどこがえげつないの?別に普通じゃん。本当にそうだろうか。現代社会を生きる私たちは“働いて自分の力で稼がないと生きていけないシステム”を採用し続けている。そのせいで、テクノロジーの進歩に伴って人間がやるべき必要な仕事はどんどん減っていくはずなのに、言い訳・正当化のためのシゴトやでっち上げの必要が創出され続け、恩恵が行き渡るのが妨げられ、生産過程・カネや権力が集まる組織にうまく寄生できる者とそうでない者とのピラミッドが現出している。選別を生き残れば残るほど制度によって手厚く保護され、“努力の成果”という物語まで与えられる一方、排除された方は貧困・収奪を我慢させられ、「努力不足・無能・自己責任・足を引っ張っている」ということにされる。

確かに「生きる価値なし」と誰かに勝手に判断され命を奪われるわけではない。そういったインパクトのある選別はめったにない。しかし、私たちは日々少しずつ選別され、ピラミッドの中に配置されていく。そんな世界で進路が限定されたら、偏差値が低かったら、学校に通えなかったら、能力がなかったら、病気になったら、気に入ってもらえる性格じゃなかったら、一体どうなるだろうか。つまり単なる印象の差にすぎないのである。具体的な誰か、たとえば特定の思想を表明する個人がやるか、日常に浸透したシステムが自動機械のようにジワジワやるか。ピラミッドの下層で待っているのは貧困や劣悪な労働環境や制度からの疎外や孤立であり、そのせいで病気になったり、“障害者”になったり、身体をこわしたり、精神を病んだり、引きこもり、そして最後は自殺である。どんどん追い詰められて“自発的に”選別されるシステムになっている。

“システム”と言うと抽象的ではっきりとした主体とは思えないが、私たちがこの社会・システムを支持しているのは事実である、それも「昨日もそうだったから」「みんなやっているから」程度の理由で。したがって“自然淘汰”とか“弱肉強食”とかシステムを“自然”に見立てる比喩はインチキであり、私たち自身が選別する/される(システムの内側にいる)と同時に選別システム自体を肯定・支持している。ただそれを“自然”に見立てられる程度にまで責任意識が希釈されているだけ。デザイナーベビーにおける“親の欲望で好き勝手”なんてのも、やるのが“親”とはっきりしているからインパクトが大きいだけで、所詮“代表者としてシステム(の価値観)に奉仕する”にすぎないわけである。

私たちは帰責できる具体的な相手=印象・インパクトがないというだけで非道なシステムをあっさりスルーし、ピラミッドの位置取り能力という無意味な基準で無意味な選別を続け、最下層の少し上の所で今より悪くならないために/今の生活を守るために働いていく、あるいは落ちてしまった所で自分を“自分の意志で”選別しながら最終選別の日まで苦しみに耐えていく。日常に浸透して目立たないというだけで、“今現在既に”選別された人々は様々な“普通”から退出し(させられ)苦しんでいるし、不当に死んでしまう人も大勢いる。目の前のこんな選別システムを問題視できないのだから、倫理とか多様性とか命がどうとか言われても“わざとらしさ・白々しさ”を感じるだけだし、「怒るのは“そこ”なんですね」としか言いようがない。


空虚感ではない空虚感

「空虚感」という言葉は一般的にいい意味では使われないし、私もいい意味では使ったことがなかった。「空虚感」はやはりできれば避けたい経験なのである。お腹の辺りから黒いものに侵食されていくような恐怖。身体が押し潰されそうになって、叫び出したくなる。そこから逃れようと、耐え難さを“書きたい”という衝動に変え、なんとか凌ぐ。私にとっての「空虚感」はこういう経験でしかなかった。

しかし、今回の「空虚感」は明らかに質が違っている。というかこれを「空虚感」と呼ぶこと自体全くしっくりこなくて抵抗があるのだが、お腹の辺りに文字通り“何も無い”のだから、とりあえず「空虚感」と呼ぶことにする。そう、“何も無い”のである。おかしな話だが、“本当に何も無い”という点が私の知っている「空虚感」との違いなのである。いや考えてみればそもそも「空虚感」と言いながら“実は何かあった”ことの方がおかしいわけで、ならこれまで私が「空虚感」と呼んできた経験の方が「空虚感」と呼ぶに相応しくない別の不愉快な経験だったと認識すべき・・・・・・今はこの話は置いておこう。

感情や気分の変動はまずお腹の辺りに表れる。気分がよくなることがあればお腹を中心に明るいものが広がっていくし、気分が悪くなることがあれば黒いものが広がっていく。そういった広がりが波を発生させ、衝動や沈滞をもたらす。私の知っている「空虚感」は要するにそういうものの一つ、お腹の辺りにある自動装置が生み出す経験の一つだったのだが、今回の「空虚感」は完全にその外側なのである。そもそもお腹にあるはずの自動装置・異物が全くない、したがってその後に続くはずの波も衝動も全くない。

感覚としては“目が覚めたばかりの一瞬”に近いかもしれない。まだ“自分”が起動していない状態、何も思い出していない状態。“今日の予定”とか“やるべきこと”とかを思い出すとともにやってくるアレがない、お腹から広がっていくはずのアレがない、お腹にいつもいるはずのアレがいない。“何かしなければ”も“何もしたくない”もなく、ただ“何かしたければ何かすればいいし、何もしたくなければ何もしなければいい”という事実だけがある。他人に対する怒りとかまでがなくなるわけではないが、“自分”に対する不満の類はほとんど感じなくなる。“意欲”はなくなるが、同時にそれを問題視する意欲もそれを正当化しようとする意欲もなくなっているから何も感じない。波がなく穏やかで、とても心地よい。

この「空虚感」には特にきっかけもなくいつの間にか漂着していたので、すっかり慣れて当たり前になっていた耳鳴りが突然スーッと消えてしまった時のように、私は「え?え?あれ?」と戸惑っている。しかし耳鳴りが生まれた時からずっとあったわけではないのと同じように、この“何も無い”状態も長い間忘れていただけで、むしろこっちの状態の方が普通のような気がしている。だって、いちいち“自分”を意識して、お腹にいる自動装置に鞭打たれて生きるなんて、あまりに惨めで苦しいから。

思えば私たちは義務やら不満やら不安やら恐怖やら期待やらによってお腹に常駐する装置を動かし、波を発生させ、やりたくもないこと(競争だの労働だの成長だの)に自分を駆り立てる生き方に没入しすぎてはいないか。そのせいでそれ以外の状態を想像することさえできなくなってはいないか。少なくとも私はできなくなっていた。「現代人は恐怖や不安に駆り立てられている」とか散々書いてきたわりには、いざ“そうでない状態”に漂着したら「こんなことがあるのかよ?」と驚き戸惑い感動せずにはいられなかったのである。今の生き方は自分が自明と考える以上に遥かに自明だった、自分が没入していると認識する以上に遥かに没入的だった。

しかしみんながみんな“何も無い”状態になって不満や意欲がなくなったらどうするのか。なるほど確かに「みんな“そうなってしまったら”進歩も成長も志向しなくなる」かもしれないが、しかしそれの何が問題なのだろう?私たちが生存しているかぎり「生存をよりマシなものにしたい」という単純な思いはなくならないから、その必要があれば努力・協力するのは当然だし、結果的により人間に望ましい形で進歩も成長も達成できてしまうだろう、志向するまでもなく。そう、志向するまでもなく。(今の生き方に没入しながら)外側を“想像”するときの抵抗や反発は、生き方への没入が原因で発生する。外側を考えているようで、外側を考えていると信じながら、全て内側だけで起こっているのである。

いちいち“自分”を意識したり人間関係や将来について常に自分のアタマで考えたり義務を果たすため自分を駆り立てたり、私たちは途方もなく複雑で抑圧的で矯正的な生き方に没入しきっている。この生き方の核になるのがお腹に常駐する自動装置だから、こいつのいない生活自体をすっかり忘れてしまっている。別の生き方もこの生き方の中でしか捉えられなくなっている。この生き方は自分が自明と思う以上に自明になっていて、(今の生活を続けるうえで)必要不可欠な要素が、実際にも必要不可欠であることになっている(無くても全然大丈夫かもしれないし、実は無い方がマシかもしれないのに)。遅かれ早かれ「空虚感」は埋まって私も元の状態に戻ってしまうのだろうが、今の生き方の外側が確かにあることはちゃんと覚えておきたい。


中途半端な善人

某氏の2つの発言「過労死は自己責任」と「(イジメや過労で死んだ場合に備え)子供3人でリスクヘッジ」が炎上した。過労死は使用者の責任だ!強欲な経営者に殺されたんだ!子供を代えのきくモノのように扱って計算の対象にするなんて!自分の子供がその発言をみたらどう思うか考えろ!というわけである。いかにも炎上しそうな発言ではあるが、今回2つの発言を取り上げたのは批判に加わるためではなく、むしろ「この発言を批判するのはズルいな」と感じたからである。以下この感覚について説明していく。

まず「過労死は自己責任」から。ちなみに私は「過労死は自己責任」とは全く思っていない。じゃあなんで?一緒にブラック企業と自己責任主義者を批判しようよ!・・・・・・それはできない。そもそも私は「自己責任」に「企業/経営者の責任」を対立させることに、因果連鎖の一番手前にだけ意図的に焦点を合わせているような、そんな欺瞞を感じている。確かにそこに絞れば「ブラック企業に洗脳された被害者が視野狭窄して正常な判断ができなくなり働かされ過ぎて死んだ(ブラック企業が悪い)」といったそれらしいストーリーを創ることができるから。

しかしではなぜ「正常」な時に辞められなかったのか?当たり前だが、仮に「正常」でなかったのが本当だとしても、いきなり「正常」でなくなるはずはなく、そこに至るまでの日々の積み重ねがあったはずである。少なくともそれまでは常に「辞める」という選択肢はあった。つまり裏を返せば当人は「それでも辞めない」と日々選択し続けていたのである。じゃあ自己責任ということ?違う。ブラック企業に巧みに誘導されていた?違う。いやいやいや、というかなんで「生活を安定させたい(不安定な生活に陥りたくない)」と考えて雇用のイスにしがみつくことを「異常」扱いするの?世間体メンツ将来キャリア結婚しがらみ他人の期待・・・・・・そんな現実的問題を考えてしがみつくのって、極めて理にかなった正常な判断だと思うのだが。

それでも死ぬまで働くなんて?しかし考えてみてほしい。たとえばあなたの前に「身体や精神を壊してヤバイと思い過労死する前に会社を辞めたがうまく再就職できず困窮しつつある人」がいたら、どうする?「自己責任/頑張るしかない」と言って就職活動/就労支援に誘うだろう?「納得いかない待遇で再び働こうとする人」がいたら、「働くのは当たり前だから、仕方ない」と思うだろう?このような世界で「それでも辞めない(絶対辞められない)」と自分を追い詰めるのは「視野狭窄」だろうか?

被害者はこの世界における正常な判断をし続けたから死んだのであって、むしろ自分が今のこの世界で死んでないのは単に運がいいだけなのでは、と考えることもできる。というよりこう考えないと「洗脳されていた」とか「異常な精神状態だった」とか、被害者を観念的に操り人形のように想定しなければならなくなるのだから(「無茶」をしなければならなくなるのだから)、まず最初にこう考えるべきだろう。しかしなぜか多くのヒトが「無茶」をしたがる。「無茶」をしてブラック企業に全ての責任を帰属させようとする。

「子供3人でリスクヘッジ」だなんて、自分の子供を・・・・・・ちょっと待った、じゃあ「自分の“子供”」じゃなかったらいいの?「少子化で労働力=賃金奴隷が足りなくなる」はひどいと思わないの?他人の子供や大人のことは散々「そういう目(そろばん勘定・損得計算)」で見てきたよね?モノ扱いと言うけど、「子供が欲しい」はモノ扱いじゃないの?「生きる意味を感じたい」とかそういう自分中心の見方をして子供を道具扱いするのはいいの?子供が「稼げる大人」にならなかったら何て言う?ところで、「子供3人でリスクヘッジ」の何がどうダメなの?みんな言わないから?確かにひどい発言にみえるけど、本質的には大して変わらないことを日々実践しているよね?やるのはよくて言うのはダメってこと?

つまりこういう所である。過労死は自己責任じゃないけど、その前に辞めたら自己責任。「子供3人でリスクヘッジ」はひどいけど、みんな言ってるやってる「同じようなこと」は日々実践します。「死ぬまで働け」とは言ってないけど、「働かないと死ぬよ?将来困るよ?人間として終わりだよ?恥ずかしいよ?」というプレッシャーはかけます。「そういう世界」に適応し、「そういう価値観」に従って行動し、「そういう姿勢」を身に付け、「そういう目」で他人をみてきたくせに、都合よく線を引くのはズルいだろ。子供はかけがえのない存在と言うくせに、そんな「かけがえのない存在」を賃金奴隷に仕立て上げて労働界に供給し、有害無益なクソシゴトで人生をドブに捨てさせる。どこにどう線を引こうが、こんなシステムを熱心に支持し、肯定し、過労死した人や自分の子供より「そういう世界」と順応者たる自分たちを優先している、それが全てじゃないか。

自分も自己責任の重圧の一部のくせに、被害者を「異常」扱いして「ブラック企業のせいでおかしくなっていた」と企業のせいにする。自分中心に考えて子供をつくり賃金奴隷に育てようとしているくせに、「子供をなんだと思っているんだ」と批判する。これはズルい。「過労死は自己責任」も「子供3人でリスクヘッジ」も今のこの世界・システムの価値観を「そのまま」表現したにすぎない。その世界・システムに適応して価値観を内面化・実践しておいて、線を引いて某氏を「向こう側」扱いするのはズルい。そしてひどいと非難しても結局大本にある価値観を肯定し、それに従って行動し、ダラダラ地獄を維持していく。某氏の発言を非人間的と言いながら、非人間的なシステムには適応しろ!従え!と熱心に奉仕する。こういう中途半端な善人もまた「そういう世界」の立役者なのである。


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