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死を想え

彼(彼女でも構わない)は死を宣告された。いや、実際には、生存率は厳しいものだと告げられただけなので(具体的な数字を明言してはくれなかった)、まあ、「死の宣告」とまではいかないのかもしれない。しかし、これはある意味で「死の宣告」よりも残酷だろう。死が決まっているのなら、後は死を受容できるかどうかの問題であり、当事者としてはその問題に集中すれば良いからである。それが嫌なら、何層にもなった観念の膜を駆使し、好みの物語に没入すれば良いからである。

もし明日死ぬとしたら、そう考えて日々を生きよ。そうだその通りだ、と膾炙している言葉。彼もまたそうした言葉の信奉者であった。頭の中で「死」をいじくりまわし、死を想うことができると信じ、あの日まで生きてきた。何か体の調子がおかしい・・・そう認識した途端、頭が割れるように痛み、そのまま意識を失った。病院のベッドで意識を取り戻すと、すぐさま諸々の確認が行われ、件の事実が伝えられたのである。普段からもし死ぬとしたら・・・などと考えていたところで、それがこうした瞬間にいかほどの役に立つのか。死という絶対的暴力の前で、日常の空気の中紡がれた言葉が、一体どのような力を持つというのか。

事実を伝えられた瞬間、彼がとった行動は、意識を飛ばしてただひたすら傍観者として務める、これであった。ああ、そうなんだー、はっはっ、そりゃアブナイなー。実際、医者には「ああ、そりゃあ困りましたねぇ」などと言っていた。ちょっとした笑みを浮かべてさえいた。しかし、医者も看護婦も、そんな彼を奇異な目でみつめてはいなかった。それどころか、これがむしろ当然の反応なのだ、とでも言うよな、深い同情を含んだ目をしていたのである。他の人たちもそうなるんです、ということだろう。

彼は一人になった。枕に背を預け、ぼーっと布団や壁をみていた。彼に特段の変化がなかったことをみるかぎり、何も感じてはいなかったのだと思う。その時に備えて準備をしていた、と好意的に解釈してやりたいのは山々だけど、やはり何も感じてはいなかったのだ。

だから、突然、意識が帰ってくる。何の準備もない彼の下に、死神を連れて帰ってくる。意識は彼に帰ると同時に、縦横に揺れ狂った。意識が遠のく・・・というのは彼の錯覚で、彼もすぐそれに気付いた。意識が揺れている・・・彼は吐き気に襲われ、自分を落ち着かせようと目を閉じた。意識の揺れは収まらず、耐えかねた彼は、洗面所へ向かおうと床へ足をおろした。

彼は木偶のように転倒し、そのまま顔面をぶつけた。足に何の感覚もなければ、顔面をぶつけて痛いという感覚もない。意識が揺れていると感じたのは、意識の基底となるはずの感覚が異常をきたしていたからだったのである。転倒した彼は体を動かし、なんとか横向きの姿勢をとったらしい。「らしい」と言ったのは、いつの間にか平衡感覚も失われており、自身が横を向いているのかわからなくなっていたからである。直接見て確かめよう。彼はもはや視覚に頼る他なかった。感覚が失われていく中、彼は力を振り絞って目を開けた。

何が変わっただろうか。黒から白への変化など、目を閉じていると思っていたとき、とっくに済んでしまっていた。この白光は目を覆っているのか、それとも意識を直接覆っているのか。思考がかろうじて働き始めたのは、幾ばくかの時間が経過し、彼がゲロにまみれてからであったが、彼は自分がゲロにまみれていることはもちろん、ゲロの感触、臭いさえまともに知覚できていなかった。

生き延びた彼に残ったのは、死神への絶対的な畏怖であった。死を想っていたはずの彼は、一体何をした。死神を前にしたとき、彼に何ができた。死神に直接触れることはもちろん、直視することもできず、敗北以前の敗北を喫しただけだったではないか。これでもう死を想うことなど、二度とできはしまい。死神に隙はないのだ。死を掴む可能性を人間にくれてやるはずがないのである。死神が人間に与えるのは、ただ孤独のみである。避けられない死、語りえない死。残念ながら、貴様は一人だ。


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