労働教の蔓延に悩む中学生たちの憂鬱

「何読んでるの?」

「哲学」

「ふーん、それは何の役に立つんだい?」

「さあ、何の役にも立たないんじゃないかな」

「じゃあどうして読むんだい?」

「さあ、考えたことないな」

「その「役に立つ」ってのはどういうこと?」

「説明しなくてもわかるだろう?」

「テストや受験に役に立つってことかい?」

「それもあるけど、もっとこう、生活するのにってことさ」

「要するに哲学は金にならん、金にならんものは役に立たん、と言いたいわけだろ。まったく、その年でもう労働教徒とは、この国の「教育」には本当に恐れ入るよ」

「なにが労働教徒だ!働かねばならない、なんて一言も言ってないぞ!」

「すぐに言うようになるさ」

「まあまあ、何がどう労働教徒なのか説明しないと、怒らせるだけだろう」

「ちゃんと説明してもらわないと困るね」

「ふーむ、労働教の源はどこにあると思う?」

「みんな働かねばならないって教えじゃないの?」

「それは源から生まれてきた表現の一つにすぎない。だから「オレはそういう風には思ってないもんね」と自分が信者であることに無自覚な労働教徒が大勢いる。無自覚な分だけ無宗教とか合理的とか思っているから逆にたちが悪い」

「で、その源とは?」

「2つあって、1つは人間(自分)たちが作り出す社会環境を「自然」環境として受容する傾向。もう1つは自分だけ得をしたいという傾向。この2つが強制労働制の下で相互作用しあって、労働教的な信念が産み出される」

「2つの傾向は人間の本性?」

「本性だろうけど、今の環境が大幅に偏った発達を要求するせいで、突出するのだと思う」

「そんな大げさな環境かね?」

「モノが溢れているのに働かないと生きていけないってやばいでしょ。人間には基本的な欲求があるけど、今の社会ではお金がないとそれを満たせない。そのお金は保証されていない。働いて稼がなきゃいけない。マイナスからのスタートになっている。労働競争で負け続ければ死につながる、誰も助けてくれない、というか誰も助けられない、結局は自分で稼ぐしかないんだからね。競争で優位に立つための助け合いは合理的で正しいけど、それ以外の助け合いは無駄な綺麗事にすぎなくなる。労働と分配が一体化して、個人(と家族)を単位とした生存競争が強制されている。これは極限状態でしょ」

「それを大げさと感じる程度には、確かに「自然」と思っている」

「たとえば毎日決まった時間に登下校を繰り返し、授業-休み時間の名目で、まとまった時間の拘束-解放というサイクルに慣れていく。これは冷静に考えて異様だが、「そういうものだから当然」ってことになってるし、この生活リズムに合わせられない人間の方が異常者扱いされる」

「毎日やってらんねーと思いつつも、なんだかんだで受け入れてしまったなぁ」

「受験もだよね。当たり前のこととして受け入れ、偏差値や学校の格で他人をバカにしさえするもんね」

「異様な環境を「自然」として受け入れる訓練?をつんで、そのままの流れで就職や労働を「自然」として受け入れるってわけだ」

「こうして人間が作る生存競争を「自然」と感じるようになっていくと」

「自分だけ得をしたいってのは?」

「自分だけ得をしたいというか、損をしたくないというか、他人よりうまいことやって出し抜きたいというか、出し抜かれたくないというか」

「はっきりしないが、まあ、極限状態ではそういう傾向が強まるとは思う」

「お金にしろ、雇用にしろ、地位にしろ、生存競争ではどれも奪い合うものになってるから、この傾向が強まって損得計算に囚われるようになるだろう。これは金になるか、就職の役に立つか、これで他の人より有利になれるか。こうして自発的に金や会社の奴隷になっていく」

「損得計算に従って、極限状態をさっさと受け入れて行動した者勝ちだもんね」

「損得計算に支配されると、その適用範囲が広がっていく。今の生存競争は要するに金の奪い合いだから、主に金銭を介してね。たとえば研究は何の役に立つのか、とか。「血税」を払った分以上の得はあんのか、と」

「税金使って子供に投資すれば将来税収増えますよ的な」

「高齢者や障碍者はコスト的な」

「文化や伝統や自然を維持するのは割に合わない的な」

「人間・教育・研究・文化・伝統・自然などにまで、金銭を介して損得計算を当然の如く適用する。金は限りある貴重な資源なのだから、ペイしないものは敵、あるいは無駄。こういう言説は布教だね」

「損得計算すれば極限状態を受容するのが合理的だし、極限状態を受容すれば損得計算するのも「自然」になってくる」

「まとめると、社会環境を「自然」環境として受容する傾向と自分だけ得をしたいという傾向とが極限状態で強められ、互いに作用し合い、限りある貴重な資源=金を雇用を通じて奪い合う生存競争を「自然」と認識するようになり、損得計算に支配され、適用しちゃいけない領域に損得計算を適用するまでになってしまうと」

「働かないのは金を得る機会だけでなく「スキル」磨きの機会もふいにしてるわけだから、損得計算すると個人レベルで労働に執着するようになる。損得計算の適用範囲が拡張すると、様々な領域を産業や労働の下に位置づけるようになったり、人間の価値までそれで判断するようになったり、「財源」に囚われて労働と分配の一体化を強めるようになったりする」

「「自然」認識と損得計算さえ身に付いてしまえば必然的に賃労働が人生の中心になるから、労働環境を批判してても「働くのは仕方ない」と思ってるならその人は労働教徒だよ。あとはちょっとしたきっかけで、「働かねばならない」に変化するだろう」

「極限状態が労働教を生み、労働教が極限状態を正当化して維持する」

「みんな働かねばならない、なんて言ってる人ではなく、むしろ中途半端に批判的で自覚の無い大量の労働教徒が文句を言いながらせっせと極限状態を維持しているわけだ」

一同「はっはっは」


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