目覚ましの音が届かない所へ

Aはアパートに帰宅すると、惰性で購入した弁当を力なくテーブルに置き、そのままイスに沈んだ。弁当の重み、漏れ出る生温いにおい、ビニール袋の残響。いい加減、こびりついて、離れやしないのに、今日もまた、これでもかと上塗りしてくる、忌まわしい日常。日常の侵食と増殖からこれっぽっちも守ってくれない、アパートの壁。時計は既に0時を回っていた。弁当を食って、風呂に入って、少しうとうとしたら・・・・・・袋が重力に従って萎える様が枯れた植物を連想させ、憂鬱に拍車をかける。

残業撲滅の風潮に反応し、Aの会社でも様々な「対策」が打ち出された。しかし、それで仕事の総量が減るわけでもなく、むしろ「対策」対策にも時間と思考を割かねばならなくなり、現実はこのありさま。Aは仕事が増えるたびに出勤時間を早めるしかなくなっていた。どこまでいくのだろう。起床時間が6時台のうちは精神的にも肉体的にもまだ余裕があったが、5時台に突入する頃にはその両方が失われていた。6時から5時になるまでが2か月、そしてそれからたった1か月、起床時間はいよいよ4時台に突入する。「今は一時的につらいだけ」、そんな自己暗示の効力はとっくに消滅し、失われた余裕は今や雪だるま式に増える負債と化していた。「いつかまた7時に起床できる」、Aが縋った希望は一体何だったのか?

Aは弁当の袋をぼんやり眺めていた。食欲の芽は出ない。よって「食べる」という選択肢はなくなった。のに、Aは動けなかった。さっさと風呂に入って少しでも寝た方が、なんてことはわかっている。それでもAは動くことができず、ただ弁当の袋を眺める以外になかった。滲み出る油の光とベトリとした舌触りが思い出され、食欲の種は油に塗れて朽ちた。こんな弁当一つ食べるにも、けっこうな気力が必要らしい、Aは自分の中から「食う力」が失われつつあることに気づいた。「腹が減る、食う」、生物としての基本的営為が根底から崩れようとしている。もう弁当は無理だから、次はパンを買おう・・・・・・それで、パンが無理になったら、次は一体何を買えばいいのだろう?

ぐーぱーぐーぱー、かろうじて手が動くことが確認できたので、忘れないうちに目覚ましをセットしなおそうと思った。スマホを取り出し・・・・・・重いけど力を振り絞って・・・・・・タップ・・・・・・目覚ましを開いて・・・・・・設定時間を・・・・・・5時台から・・・・・・いよいよ・・・・・・4時台に・・・・・・4時・・・・・・4・・・・・・3・・・・・・2・・・・・・1・・・・・・薄れゆく意識の中、遠くで誰かの叫び声が聞こえた。

ドンドンドンドン!!ドアを叩く音でAは我に返った。
「バカヤロー!!今何時だと思ってやがる!!」
何時?時計をみると、0時半。どうやら10分ほど意識を失っていたらしい。
「こんな時間に大声出してんじゃねえ!!みんな仕事があんだぞ!?」
「出てきて謝罪しろや!この気狂いがぁっ!!」
「土下座!!賠償!!」
血の気が引いた。イスからずり落ち、そのまま床にへたり込んだ。絶叫の主は・・・・・・深夜に絶叫・・・・・・犯罪的睡眠妨害・・・・・・。
ドアを叩く音がボコン!!ボコン!!と激しくなり、ついに轟音と共にドアが吹き飛ばされた。怒り狂う労働者たちの脳内には「カギで開ける」という概念など存在しない。
「おーおーおークソガキィ!死ぬ準備はできてるか?」
女も混ざっていることに驚いたのも束の間、迫ってくる労働者たちをみてAは恐怖に震え出したが、いっそここで殺されてしまう方がいいのではないか、とふと思った。

ピコポコピコポコ、ピコポコピコポコ。不意にAのスマホが鳴った。瞬間、労働者たちの動きがピタリと止まり、次いで明からな狼狽をみせ始めた。
「おい、おい、これは何の音だ!」
「はぁ、はぁ、あぁ、うっ、目覚ましの音だ!間違いない!」
「なぜこんな時間に!?」
「大変だ!女が吐いて倒れた!」
Aは目の前で何が起きているのか理解できず、苦しみ悶える労働者たちを呆然と眺めていると、その中の一人と目が合った。
「お前・・・・・さては会社の回し者だな!!そうなんだろ、ええ!?オレたちをストレステストの篩にかけようって魂胆だろうが!!」
「なっ、なっ、なっ、何を・・・」
「クソ!!いいから早く目覚ましの音を消せ!」
Aは言われた通り目覚ましを止めようとしたが、手が震えてスマホをうまく操作できない。
「ちっくしょう!よこせ!!」
労働者の一人は決死の形相でAからスマホをひったくると、ガラス窓をイスで叩き割り、そこからスマホを放り投げた。

ピコポコピコポコ、ピコポコピコポコ。目覚ましの音はまだ聞こえてくる。
「とんでもない音量っ!!これまでか!」
「てめえっ!なんて設定してやがる!」
「うっ、うっ、わからない、ごめんなさい・・・・・・6時が5時になって・・・・・・5時が4時になって・・・・・・仕事・・・・・・もうどうしていいか・・・・・・混乱して・・・・・・」
労働者たちから敵意が消えた。
「ということは、君も・・・・・・」
「うっ、うっ、すいまぜんでぢた」
「はっはっは、そうか、そうか、そうだったのか!よし、手を貸してくれ!一緒に脱出しよう!」
「どこへ?」
「決まってる!目覚ましの音が届かない所へ!」
「しかし、ここはボクの家・・・」
「目覚ましの音が鳴り響く空間を、君は「家」と呼ぶのかね?」
「はっ・・・・・・」
「大変だ!女が白目をむいて泡を!」
「ああ、もう時間がない!さあ、手伝ってくれ!」
Aは労働者たちを支えながら、破壊されたドアを踏切版に、夜の闇へ飛び出した。

わっはっは!わっはっは!駆けながらみんな笑っていた。Aも笑っていた。食べ方と一緒に笑い方も忘れていたはずなのに、忘れていたことさえ忘れるほど自然に笑っていた。ついさっきまで瀕死の状態だった女もいつの間にか復活しており、隣で華麗なステップを踏みながら笑っている。
「ぶぅうーんっ!ぶんぶんっ!」
一人が両手を広げ、飛行機の真似をすると、みんなそれに倣って「ぶんぶんっ!」とやり始めた。
「わっはっは!ところでボクらはどこへ向かっているのですか?」
「さあね!目覚ましの音が届かない所へ!」
「ボクらはいつまで走り続けるのですか?」
「知るもんか!目覚ましの音が届かなくなるまで!」
わっはっは!わっはっは!
ぶぅうーんっ・・・・・・ぶぅうーんっ・・・・・・ぶぅうーんっ・・・・・・。
遠くで目覚ましの鳴る音が聞こえた。


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