思考より試行

先日、「やりたいゲームを我慢し続け、大人になって買ったら全然楽しくなかった」といったツイートをみかけた。悲劇である。我慢しているうちに、年を取って楽しむ能力(体力や集中力)がなくなってしまった。感覚が変わってしまった。やる気がなくなってしまった。ふむ、しかし、そもそもそれは本当にやりたかったことだったのだろうか?

現代社会の生活は強制と義務の連続である。学校・受験・人間関係・労働税金労働税金・・・・・・我慢するばかりの毎日。しかし人間はただ我慢し続けることができない。そこで「先延ばし」である。「これ面白そう!」と思ったら、早速やってみるのではなく、目の前にぶら下げるニンジンにする。さらには「自分は○○な人間だからきっと××が好き/向いているに違いない」などと思考してイメージ・幻想=ニンジンを創出してしまう(就職活動ではこれができるかどうか試験される)。

幼少の頃から大量の「やるべきこと」を押し付けられる社会には、色々と自由に試す余裕が存在しない。となると「やりたいこと」「好きなこと」には少ない試行で辿り着か「ねばならない」が、当然そんな簡単に当たりを引けるわけもなく、したがって「これだ!」と思い込み、それを試さず先延ばしにすることになる。「いつか○○したい」「退職したら××するのが夢」と先延ばしにし続け、いざやろうとしてみたら/やってみたら・・・・・・思ってたのと全然違う!はて、自分は一体何をしていたのだろうか?日々の苦しみに耐えるために、合う/合わない感覚よりアタマ・思考(思い込みやイメージや幻想)を優先してしまうことで、えてしてこうした悲劇が起こる。

かつて私がまだ奴隷社会に適応しようと奮闘していた頃、私は海外に大きな幻想を抱いていた。理由は不明だが、当時の「理由」としては、「自分は好奇心旺盛だから、きっと海外旅行が好きに違いない」みたいな感じだったと思う。一人で海外旅行をすれば、価値観がひっくり返るような経験ができるのではないか?海外が何かを変えてくれる。海外が灰色の毎日を変えてくれる。いつか、働いてそれなりにお金が貯まったら・・・・・・。私もまたアタマを優先して幻想を創り、日々の苦痛、延々と続く強制と義務に何とか耐えようとしていたのである。

今思えば、大学在学中に無気力になったのが僥倖であった。感覚よりアタマを優先させる生き方が嫌になったのだろう。だが当時の私にはそうした認識もなかったので、幻想に従い海外に救いを求めた。

カネを貯めるためにアルバイトをやったのも良かった。一か月弱で辞めたのだが、初めての給料の数値を眼前にしたとき、ATMを破壊したくなるような衝動にかられた。心身ともに消耗しまくって、これっぽっち!?「自分で稼いだカネ」に対する感動は微塵もなく、あったのは賃金労働に対する憎しみだけ。こんなはした金を「お給料」とか言って有り難がれ?人間を舐めるのもいい加減にしろ。たった一か月弱の経験ではあるが、この賃金労働への幻滅がなければ、「働けばどうにかなる」といった労働万能幻想に囚われていたかもしれない。

海外旅行に出発。たった十日だったが、一人での旅行。海外旅行が好きな人からすれば十日程度で、と思われるかもしれないが、私はこの旅行のおかげで他国の文化・絶景・人々・食べ物・空気などなど、どれにもあまり興味が無いことがわかった。別に好きでもなんでもなかったのである。日本に帰ってきたとき抱いたのは「もう日本の・・・・・・いや、住み慣れた地域の外には出たくない。安住したい。外出は好物を食べに行く時だけで十分」という思いだった。海外に行ったことで何かが変わったのは確かだが、それは私が思い描いたような変化ではなかった。幻想が破壊され、胸に穴が開いたような、「自分は何をしていたのだろう?」と我に返ったような感じだった。

私は毎日読書をして文章を書いてたまに好物を食べに出かける、というだけの単純な生活を送っているが、この生活に「これだ!」と一発で辿り着いたわけではない。私もまたありきたりな幻想を色々と信じ、アタマを優先させる生活を送っていた。ただ人より早く脱落し、学生だったことが幸いして色々と試行でき、幻滅を繰り返し、合う方合う方に進んでいるうちに自然とこうなっていたのである。だからこそ満足度も高いし、「合っている」という感覚が正しさへの確信にもなっている。

現代社会では幼い頃から将来の職業を「考え」させる。早期に自分の道を「発見」することが称賛される。学校・人間関係・労働・税金といった強制と義務の連続が時間を根こそぎ奪い取る。このような環境に適応する中で習得するのは、「これが自分のやりたいことだ」と思い込み、それを目の前にぶら下げ自分を鼓舞して日々の苦痛に耐える、そんなスキルである。「あれをやれば何かが変わる」、こうしたイメージや幻想で自分を駆り立てるスキルである。しかし、所詮はアタマの中の思考。自分が「○○な人間」かどうかは時と場合によるし、○○な人間だったとしても××が好きとは限らない。いくら根拠を積み重ねて論理的に思考したところで、××を好きになるわけでもない。自分が「これがやりたいことだ」と信じていても、実際にそれがやりたいことかはやってみるまでわからない。

私は海外への幻滅を通じ、自分(人間?)が幻想を強固に信仰できてしまうことを思い知った。あの時行ってなければ、私は今も奴隷社会の要請に従ってアタマを優先させていたかもしれない。試行して「好き」や「やりたい」が現実と違ったとしても・・・・・・幻滅による空虚感と無気力、それでも容赦なく畳みかけてくる義務、義務、義務。結局は明日を生き延びるため、別の幻想に縋らざるを得なくなり、欲求と一緒に破局も未来に先延ばしする。幻想から幻想へ、そして訪れる大幻滅。現実とアタマの不一致が顕在化し、自分が何をどうしたいのかわからなくなる。

負のスパイラルをどこかで絶つ必要がある。ニンジンをぶら下げて自分を駆り立てる、バラ色の幻想を創って縋る、そもそも人間に合わないことを無理やりやらされ続けるからこうしたスキルが必要になるのである。思考を優先させ続ければ大抵の人はどこかで潰れるが、義務と強制は待ってくれない。精神的に借金漬けにして逃げられなくするシステムである。このシステムには必死になって消耗してまで従う価値がないことを認識し、アタマが創った幻想を試行による幻滅で地道に潰し、合う/合わない感覚を取り戻していく必要がある。思考より試行である。


関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

twitter
最新記事
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる