「わたし」がいなくなった世界

トラックにはねられる瞬間までは覚えている。買い物の帰り、調子に乗って自転車を猛スピードでとばしていたら、ビニール袋が前輪に絡まり、そのままの勢いで私は前に放り出された。視界の片隅に捉えたトラック、遠くからでも近くからでもない曖昧な轟音。気が付くと、時は夕暮れ時、こうして近所の公園のブランコに座っていた。

家の方に歩いていく女性をみると、私の母親だったので、近づいて声をかけたら、「どちら様ですか?」と言われた。実の親を間違えるはずがない、私は食い下がる。しかし、私の母親であるはずの人間は、「あなたのような人は知らない」の一点張りだった。「確かにあなたと同い年ぐらいの子供はいますけど・・・・・・」母さん私だよ!世界で一番愛していると言ってくれたじゃないかあれは嘘だったの!?母さん・・・・・・「一緒に警察にいきましょうか?」困惑の色を浮かべた顔をみて、私は諦め、今幸せですか?と尋ねた。「ええ、とっても。あの子が私の子供で本当に良かったと思っています」地面が消滅し、私は落ちていった。

私は会社の前にいた。私の将来に期待してくれた会社。進行中のプロジェクトでは、チームのリーダーを任され、9人の仲間をまとめる役割を与えられた。「この仕事は君にしかできない」と言ってもらえて、私は本当に嬉しかった。「いやぁ、この仕事は君にしかできないよ!」「ほんと、先輩がリーダーで良かったですよ!」どこかで聞いたことのある声。会社から何人かの社員が出てきたようだ。1、2、3・・・・・・11?チームのメンバーと、私によくしてくれた上司と・・・・・・あいつは?地面が消滅し、私は落ちていった。

恋人の家の前にいた。学生時代から付き合っていて、どちらかの仕事が軌道に乗ったら結婚をと考えていた。元気?会社帰りの恋人に声をかけたら、「どちら様ですか?」と言われた。なに、要するに、別れようってこと?「え?別れるもなにも、あなた誰なんですか?」恐怖の色を浮かべた顔を見て、私は諦め、学生時代から付き合っている恋人がいませんか?と尋ねた。「なんで知ってるんですか?」どんな話でも最後まで黙って聞いて受け入れてくれる所が好き?「警察に通報します!」地面が消滅し、私は落ちていった。

暗闇の中で私は思った。「代わり」はいくらでもいるし、「穴」はいくらでも埋められる。「私なんていてもいなくてもいい」と言って、「そんなことない!」と否定してもらえても、それは喪失や損失を想像するからで、「そもそもの初めからいなかった場合」と比較できないいじょう実際の所はわからない。私と同じかあるいはそれ以上の機能を果たす「代わり」が「穴」を埋めてくれさえすれば、それでいいのかもしれない。じゃあみんなの言葉は何だったのか?そう思うのも尤もだが、私はきっと本物だったと思うし、意味もあったと思う。私も同じようなことを言うとき、本心からそう思っているし、この気持ちが伝わればいいなと願っているから。

目の前に母親の顔が浮かんだ。職場の人たちの顔が浮かんだ。恋人の顔が浮かんだ。みんなニコニコ笑っている。「実はね、うちには子供がいないんですよ。世間では子供を幸せの象徴のように言いますけど、子供がいなくても十分幸せだし、むしろいなくて良かったと思います」「わはははは!いやぁ、仕事が減って早く帰れるようになったな!きっとどこかに無駄な仕事があったんだろうねぇ」「結局、自分は独りが合ってるんだなぁ。たとえどんなことでも話せたとしても、他人は他人。返ってくる言葉もどうせ正論でしかないんだから、独りの方が気楽でいいやぁ」みんな、とても幸せそうに、笑っていた。「代わり」や「穴」と表現してしまうことが既に傲慢なのかもしれない。「わたし」という存在が占めていた「場」は、本当は・・・・・・私は目を閉じた。

気が付くと、時は夕暮れ時、こうして近所の公園のブランコに座っていた。私の母親であるはずの人間が歩いていたので、私はじっとみつめた。向こうも視線に気づいたのか、私をみつめた。目が合った。私の母親であるはずの人間はすぐに目を逸らし、家に向かって歩いていった。私はすっかり暗くなるまで、一心不乱に自分の手をみつめ続けた。それでも、私はここに在る。私は私に言い聞かせるように呟くと、立ち上がり、家とは反対の方に向かって歩き始めた。


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