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あなたの現実と「私」の言語的な現実

「結局甘えているだけ」「つらいのはみんな同じ」「他にもっと大変な人がいる」・・・・・・意を決して弱音を吐いたのに、こうした言葉を返されてしまい、あ~あ言わない方がマシだったと後悔する、なんて経験のある方は多いと思う。「お前が自分で選んだんだろ」「そんなことで弱音を吐いてちゃダメ」「君にも悪い所があった」と一方的に判断される。「なにが自己責任だボケ!」「ろくに知りもしないくせになんだこいつは!」「そういうことじゃねえんだよ!」などなど悔しい気持ちでいっぱいになり、これからは他人に相談なんてするぐらいなら我慢するぞと誓い、「他人なんて所詮そんなもんだよなぁ、わかってくれないよなぁ」と孤独に気づいていく。

言語を経由するいじょうこうなるのは仕方ないと思うかもしれない。自分が経験している現実をそのままトレースしてもらうことはできないので、24時間365日経験している現実を言語で表現するため抽象し、相手が理解可能な形=平凡な形にしなければならない。その甲斐あって相手も「理解」できてしまうから、その「理解」に基づいて発言してしまうのである。たとえば「毎日パワハラとサビ残でつらいです。死ねと言われます。もう耐えられません」といった言語表現を「理解」することは容易なので、その「理解」の正しさを疑えないと「世の中そんなもんだよ。それでもみんな我慢してるんだから」などと言ってしまいたくなる。「理解」して共感すると、「自分なら○○するのに!」と思ってしまい、「なぜ○○しなかったのか」と責めたくなる。

これは仕方ないことではない。というのも、私たちが「言語を経由している」こと、つまり現実を理解可能な形に矮小化している事実を忘れることで生じるからである。当人が直面しているのは「毎日パワハラ」という言語表現ではなく現実であり、常にそれに伴う苦痛・ストレス・重圧・不安に悩まされ、意識できないレベルで変調をきたし、家でも心が休まらなくなり、連鎖的に仕事や人間関係や日常生活がうまくいかなくなったりする。現実は一瞬一瞬の積み重ねであり、苦しみは表現できる部分よりむしろ表現できない部分の方にある。表現できる(理解可能な形にできる)苦しみより表現できない(理解可能な形にできない)苦しみの方が大きい。私たちはこうしたことを忘れてしまっているが、忘れているのはこれらにとどまらない。

たとえば「毎日パワハラ」ときいたとき、私たちは「私」に引き付けて考えてしまう。記憶や想像力を使い、「私」を基点に類推・推論してしまうのである。これ自体は仕方ないことであるとはいえ、ここでも私たちは「私」を基点に考えていることを忘れている。相手との感覚・精神構造の違いを忘れ、「私」が人間の代表であるかのように自然と思考してしまう。その思考の結果はほとんど「外れ」なのだろうが、「言語表現上は」当たったようにみえるので、それで理解したと自信を深めてしまう。しかし、私たちの「理解」とは、相手が相手の現実を他人にも理解可能な形に加工した言語表現を、さらに「私」を基点とした意識的・無意識的な思考で加工したものでしかない。それは少なくとも二重に矮小化されているのである。

こうしたことを忘れてしまうことで、ただひたすら我慢を強いるだけの言説が溢れ、「どうせわかってない/助けてくれない」といった不信の念を抱かずにいられなくなる。そうなると当然頑張るのがつらくなる。「あなたの気持ちはわかります。けどつらいのはみんな同じですから我慢して頑張りましょう」で頑張れたら苦労しないだろう。不信の念があったら助言がいくら「正しい」ものでも、実践し続けるのは難しい。しかし現実的には学校・会社システムが要求する「正しい」ことをして「適応」の努力をしなければならない。逆説的だが、この葛藤から手っ取り早く解放してくれるのが崇拝である。システムの勝者や教えを崇拝し、信じ切って身を預けてしまえば、「適応」もできるし、苦悩も棚上げされる。

苦悩を棚上げできずにそれに取り込まれてしまうと、悲惨な人間競争に参加することになる。相手がわかってくれないならわかるように表現すればいい、こうして(言語的な)悲惨さを(相手が理解できる範囲で)追求するようになり、「障害」「トラウマ」などなどがその文脈から離れ、普通の人にはない特別な経験・属性を示す言葉として使用されるようになる。しかし最近では「障害があっても頑張っている人がいる」「つらい過去にいつまでも囚われてちゃダメだ」と言われることからわかるように、それらも「平凡」の中に回収され、自分の現実をただの悲劇的ストーリーにしただけでわかってももらえず、そのうえ実際に困っている人の現実が矮小化される結果となっている。

私たちは「言語を経由している」ことを忘れてしまう。その過程で自分の現実を相手が理解可能な形=平凡な形に「せざるをえない」ことを忘れてしまう。「私」を基点に思考していることを忘れてしまう。理解したと勘違いしてしまう。「判断」を現実と勘違いしてしまう。私たちは単純な事実を忘れ、勘違いしたまま、(言語による)コミュニケーションへの信仰を深めている。言語表現による選別は日常に浸透し、言語的にうまく表現できる者が成功・支持・支援を手にする一方で、それができない者の現実は矮小化され、「みんな我慢している」で済まされてしまう。崇拝も悲惨競争もできない人は我慢するしかなく、崇拝や競争に走った人も救われはしない。私たちは誰とも人生を共有できていないから現実や自分自身を矮小化してでも言語で表現せずにはいられない、しかし単純な事実を忘れ勘違いしてしまう、その結果が互いに互いの現実を蔑ろにし合うという孤独であり、互いに互いを選別し合うという孤独なのである。


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