「学習」の成果

「人間は働いて・・・・・・」

「男の子なんだから・・・・・・」

「女の子なのに・・・・・・」

「誰とでも仲良くしなきゃ・・・・・・」

「その代わり勉強を・・・・・・」

「早く起きないと学校に・・・・・・」

「普通は・・・・・・」

「常識的に・・・・・・」

「みなさん中学生としての自覚をしっかり持って・・・・・・」

「将来についてきちんと・・・・・・」

「社会人としての責任を・・・・・・」

「これからは○○力が必要に・・・・・・」

「仕事なんだから・・・・・・」

「それは愛しているから・・・・・・」

「おカネいただいてるんだから・・・・・・」

もう慣れましたか?

いや、慣れる慣れないって話じゃないか、それが「自然」なんだから、ねぇ?

みんなが笑っていたら笑う、泣いていたら泣く、それが「自然」、それが「自分の感情」。

「ねばならない」と言われたら、それが「自然」、それが「自分の意志」。

感情や思考なんて、いとも簡単に操作できる、いとも簡単に偽れる。

自分なんて、いとも簡単に捨てられる、いとも簡単に同調できる。

それで残った何かが「自分」だなんて、都合のいい話、でもいとも簡単に信じ込める。

成長とは、こういう時は、こう感じる「べき」、こうする「べき」、と学習する過程。

成長とは、自分を切って捨てていく過程。

「学習」したことを「自分の感情」「自分の意志」として実践できるようになること。

これが成長である。

「下」になるのが嫌なら、「上」になら「ねばならない」。

「いじめはいけませんよ!」

抽象的な計算、罰がない、損がない、やめなくていい。

目の前の具体的な存在より、目の前の具体的な苦しみより、観念が大切になる。

自分の素朴な感情より、自分の素朴な感覚より、「学習」したことが大切になる。

「毎日早起きなんてしたくない!」

「あんな人と関わりたくない!」

「頭を下げてまで働きたくない!」

全て甘え、これが成長。

目の前で誰かが苦しんでいたとして。

「学校に行かなきゃダメだ!」

「逃げちゃダメだ!」

「会社に行かなきゃダメだ!」

これが成長。

迷ったら刺激を求めればいい。さあ、テレビをつけよう。

バラエティもワイドショーもドラマも討論もニュースも、教えてくれるよ、「正しい生き方」。

教えてくれるよ、「学習」の成果をいかに発揮すればいいか。

声の大きさ、イントネーション、身振り手振り、表情、タイミング、論理、内容、訴える所。インターネットもお友達も、何もかもが教えてくれるよ、「正しい生き方」。

さて、あなたは一体何に従っているのでしょう?従っているという認識を持てなくなるほど、一体何に没入しているのでしょう?それが「現実」?あら大変。

自分と引き換えに「学習」した観念に従って動く。抽象的なルール、抽象的な計算、抽象的なままの行動、ということは?

見ず知らずの他人を裁くヒト、がいる。

見ず知らずの他人を祭り上げるヒト、がいる。

「お気持ち」に突き動かされている、と言われるけど、ね。

実際は、自分の気持ちなんて、これっぽっちもないのさ。

裁きの場合。

「これは「いけないこと」だ」

「「いけないこと」をする奴にはこうする「べき」だ」

という「学習」の実践。

具体的な相手と関わっているのではなく、ただ「学習」した観念に従っているだけ。

「従わなければならない」、機械的な遂行。

だから躊躇うことなく悪く言うし、あれだけ誰かを称賛しても、ちょっとのミスで掌返し。

裁く、罰する、繰り返す。

「学習」した観念、プログラムに従っているだけだから、「自分がやっている」なんて意識、持ちようがないのさ。責任なんて、感じようがないのさ。自分の気持ちなんて、これっぽっちも伴わない、ただ「従わなければならない」からそうするだけ。

「自分の責任じゃない、どうして自分が、やる「べき」ことをやっただけなのに」

誰かが傷ついても、誰かを傷つけても、ケロッとしている。従うために、自分を捨ててしまったからね。

「あんな奴やられて当然じゃないか!それなのに、責められるなんて・・・・・・自分も被害者なんだよ!」

自分を省みることはもうできませんか?省みる自分などもはやどこにもいませんか?

アイデンティティが「必要」なのは、なぜでしょうか?

承認が「必要」なのは、なぜでしょうか?

互いに尊重し合わ「ねばならない」のは、なぜでしょうか?

それが「人間の本性」だと思っているのですか?

服従が「人間の本性」だと思っているのですか?

服従している自覚がありませんか?もう持てませんか?

あなたは人間ですか?システムの奴隷ですか?空虚な観念の奴隷ですか?

「自由」、「平等」、主義思想前提、所詮は従うための観念。

従うという生き方を肯定するための観念。

観念的な定義、物語、小難しい理屈に言い回し、「現実」、労働、労働、労働。

「働かないと生きていけないんだ!」

それは現実ですか?「現実」ですか?現実ですか?

言葉や思考で、論理的に、うまく定義なり解釈なりができたとして、その「現実」なり「自由」なり「平等」が実際にもそうであることを意味するのですか?

「進歩」とは、穴だらけにした現実を観念上言葉上で埋めたことにすることである。

穴掘って、埋める。

システムが蔑ろにするものの観念を掲げる、蔑ろにするシステムに従うために。

穴掘って、埋めて、穴掘って。

「働かなきゃダメだよ!」と憤る、それは本当に自分の感情ですか?

定義や理屈で「自由」を信じる、それは本当に自分の感覚ですか?

誰かが必要を満たせずにいたら、それを満たせるよう手を貸す、単純な話。自分よりうまくできる人がいたら、その人に任せる、単純な話。機械が代わってくれるなら、有り難く代わってもらう、単純な話。働か「ねばならない」と、本当にそう感じていますか?「必要」をでっち上げてでも?誰かが困って喜ぶようになってでも?

生産物があっても賃金が無いと生きていけませんか?

賃金を税金で集めて再分配しないと生きていけませんか?

「オレたちのカネで食わせてやっている」ことにしないと生きていけませんか?

賃金に全てを規定されないと生きていけませんか?

「正しい」とみんな感じている、と信じていることを、互いに見合って、探り合って、チラチラ確認し合いながら・・・・・・。どこまでも続く観念世界、「自分」なる蛻があるだけの観念世界。

「現実」に「適応」する、とは?

それは自分の感情ですか?それは自分の感覚ですか?それは自分の意志ですか?

保護を期待して服従することが、生存本能の表れですか?

あなたは人間として生きていますか?あなたは人間として生きたことがありますか?

しかし「学習」のおかげで繁栄できたんだ、なんて物語、本当に信じていますか?

しかし「学習」のおかげで秩序が保たれているんだ、なんて物語、本当に信じていますか?

物語に登場するのは人間ですか?それとも「自分(たち)」ですか?

その信念は自分の感情や感覚や経験に根差すものですか?

また、「と、いうこと」にしておきますか?


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