「私」なんていらない

頭がボーっとしていて何も浮かばなかった時、可能なかぎり刺激を断ってみたことがある。本を読まない、音楽を聞かない、パソコンをつけない、会わない、話さない、テレビをみない・・・・・・ただ寝っ転がっているだけ。目を開いたり閉じたり、天井が見えたり見えなかったり、何か考えようと思っても何も考えられないし、それが「考えねばならない」に変わった所で考えるのを諦めた。空気中を漂う埃が肌の露出部分に触れて、むずむずして「あ」と思って、触れ、むずむずして「あ」と思って・・・・・・なるほど私は文字通り考えさせてもらっているのだなと理解した。

外気になでられる、風にふかれる、陽の光に照らされる、地面やモノがあたる、足音やリズムがきこえる、誰かの表情が目に入る、においがやってくる・・・・・・常に周囲を流れる無数の情報、それらが刺激する感覚の一つ一つがうまい具合に組み合わさって、思考や感情が生じる。無限の「海」に溶けてしまったような、あるいは流れに揺らされているだけのような、はたまたある場所・時間に「私」という点がたまたま配置されただけのような、要するに「何も考えられない」といった思いは誤った認識のせいで生じていたのだ。それは「私」の都合でどうこうできるものではないし、そもそも「私」が生み出すものでさえないのだから、「自分のアイディア」とか「絞り出す」とか「枯渇する」とか、傲慢な言葉だと思った。「自分の中に何もなくなってしまったのではないか?」なんて怖れる必要なかったのだ。

「海」の流れに生じる様々な現象のうちの一部がたまたま「私」という点で結ばれただけだから、「私」という記憶・志向は淀みであり、それもまた「海」の流れである。「私」は「海」の中にいると同時に流れでもあり、「私」を経験する私自身も「海」の中にいると同時に流れでもある。「私」も私自身も流れの中にいると同時に流れそのものでもあり、個体=点であると同時に世界=全体でもある。私が「私」のものとして経験する思考も感情も流れの中の点であり、淀みであり、同時に大きな流れそのものである。他の人も「海」の流れであり、関わり(会話も読書も音楽も)もまた「海」の流れであり、つまり社会も「海」の流れであり、したがって一見他人や社会から独立している意識も個体も、他人や社会そのものである。

人間や他の生物の個体同士の区別があるのはもちろん当然の事実だが、そうした区別があるからといって確たる境界があるわけではない。たとえば一緒に歌って踊る、までもなく文字情報だけという大きな制約があってさえ私たちは容易に同調(シンクロ)することができてしまうし、他の生物やモノにまで自分(たち)と同じような魂があると感じて「しまう」のである。それが思考・感情につながる、というよりそれこそが思考・感情そのものになる。確かに個体同士の区別はあるが、しかし境界は常に曖昧で、私たちは「この個体」であると同時に他の人・生物・モノでもあり、社会・世界・全体でもある。個体として画然と区切られているようで、実は周囲や環境や現象と連続しており、全体そのものでもあるのである。

にもかかわらず、私たちはシステム(賃金奴隷制)の都合によって「私」という境界に執着するよう教育され、観念的に設定されただけの境界を絶対視・自明視させられている。そして自己利益追求という「動機」を与えられ競争を強いられる中で、順応して「自分のアイディア/手柄/成果」に執着するようになり、成員が悉く孤独な奴隷に変わってしまうことで、「ちゃんと境界をつくらないと他人は際限なく侵害してくる」「自分のアイディアや成果を主張して認めさせないと尊重されない」といった前提が蔓延し、それに基づく権利やマナーや生き方が現実的にも妥当なものとして受け入れられていく。

私は世界・社会の一部であると同時に世界・社会そのものでもある、だとしたら私=社会に何か困ったことがあれば行動するのが当然なわけで、わざわざ「動機」を与えられる必要もなければ「意欲」を掻き立てられる必要もなく、権威や暴力や道徳を笠に管理される必要もなく、命令されて「社会のために」行動させられる必要もないのではないか。私=社会の困難が克服されればそれでよく、「自分のアイディア/成果」に執着する必要もないのではないか。それだと誰も何もしなくなる?蔑ろにされる?そうかもしれない。自分がやりたくないことを自分がやりたくないような条件で他人にやらせるよう勧めるシステム、「自分のアイディア/成果」を主張しないとうまく生き残れないシステム、「自分の手柄」のために他人を蹴落とさせるシステム、この抑圧的なシステムを維持したままでは確かにそうなってしまうだろう。

しかし、みなさんはこんな生き方がしっくりきているだろうか。「私」に執着し続けること、させられることに嫌気がさしていないだろうか。たとえば「君のおかげで」と言われたら「ただのまぐれです」「いやみんなの力です」と自然に言いたくなる。これは謙遜ではなく、事実そう感じているからだろう。世界やみんなが織りなす大きな流れの中でたまたま「私」という点にアイディアや行動が発生したというだけで、「自分の手柄」でもなんでもない。肥大化した(させられた)「私」への執着を捨て、「私」も私も点であると同時に全体でもあると認識することでもたらされるのは、「じゃあ他人を侵害してもいいんだ!」「それお前の力じゃないから!」「全部偶然なら頑張っても意味ないや」といった精神崩壊・無気力ではなく、等身大の関わり・生のはずなのである。


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