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満たされた後の意識

イスに座ってボーっとしているとき、いつの間にか思考や妄想に没入していて、しばらくするとハッと我に返る、なんてことがある。何か作業をしている最中だったら、また注意をそこに向ける、何かする予定があったら、「○時になったらちゃんと××しないとな」と確認する。そしてまたいつの間にか思考や妄想に没入していて・・・・・・。これを繰り返しているうちに、「ああなるほど、これが“意識”なんだ」と納得するようになった。

もちろん意識といっても様々な層がある。認識や知覚の結果がのぼってくるスクリーンのような層であったり、感情を感じる層であったり。その中で今回私が取り上げる“意識”は自分を監視・制御する層である。たとえば私たちは「将来の計画を立てて行動しろ!」とか「怒りの感情をコントロールしろ!」とか言われたりするわけだが、実際にできるかどうかは別として、こうしたことを“意識”によってできることになっている。「勉強に集中しろ!」とか「早く起きなさい!規則正しい生活をしなさい!」とか、“意識”によってできることになっている。そんな世界で生きるうちに、“意識”が初めからあったことになっていく。

私たちは幼い頃から“教育”を受ける。学校のお勉強や正しい生活リズムなど“やりたくないこと”をやらされ続け、ゲームや遊びなど“やりたいこと”を制限されたり我慢させられたりする。いつまでも“やらされ”てばかりではダメで、反省して自分の“意識”を使って“自分でできる”ようになることを求められる。実際には、「怠惰で頑張れなかった人間が将来どうなるか」「遊んでばかりだと悲惨な生活を送ることになる」「今週中に宿題/課題を出せ」「怒ってはいけません!」「授業中に動き回ってはいけません!」「○○するのが当たり前」といった重圧・脅迫・比較・緊張・義務・禁止・常識によって自分を従わせるだけなのだが、それを“意識”によって自発的にやっていると錯覚する(というより既に“そういうこと”になっている)。「“(武器を取り込んだ)意識”が“させている”」ではなく、「“意識=自分”が“やっている”」という自律を信じるようになり、“意識=自分”を肥大化させていく。

そもそも思考にしろ妄想にしろ、それ自体は自分で“する”のではない。世界の流れの中でただ“される”のであり(『「私」なんていらない』)、それを“意識”が“させない”あるいは“やめさせる”のである。勉強に集中“する”のではなく、監視人である“意識”が出てきて集中“させる”のである。“意識”によってなされる計画や計算は、“するため”のものではなく“させるため”のものである。流れの中での“される/されない”と“意識”による“させる/させない”、しかし私たちは「“意識=自分”で“する/しない”」という物語・レトリック(“意識”の宣伝)に絡めとられ、いつの間にかそれが自明になっている。要するに、“意識”とは“意識=自分”であるどころか、明確な対立者=異物であり、したがって自分の中に初めからあるのではなく、強制的に外部から植え付けられると考える方が実態に即していると思われる。

昨今、AIや自動化の恐怖が叫ばれているが、これはおそらく満たされることに対する恐怖でもある。満たされたらやりたくないことをやる(“意識”がさせる)必要がなくなる、やりたいことを我慢する(“意識”がさせない)必要もなくなる、つまり“意識”の必要がなくなるからである。“意識”のタガが外れてしまったら一体どうなってしまうのか?“意識”を自分と錯覚しているがゆえの恐怖。モラルが失われて犯罪だらけになる!“意識”が肥大化したがゆえの恐怖。堕落してしまうのでは?成長しなくなるのでは?“意識”による価値判断(脅迫)が何重にも組み込まれてしまったがゆえの恐怖。

しかし肥大化したこの“意識”とは、「日常生活が“やりたくないけどやらなければならないこと”に覆い尽くされている」という極めて特殊な(劣悪な)環境の産物である。とすると、満たされることはようやく訪れる始まり(遠回りして元に戻った)にすぎない。それは“意識=自分”の崩壊ではなく、“意識=異物”と自分との対立の終わりである。つまり自分=世界の流れと調和して生きるようになる、というだけの話である。

“意識”がつくる恐怖に屈してはいけない。「“意識”の力で人間の残酷な悪い本性が抑えられている」「人間は“意識”を使って自己を陶冶し成長/進歩していくもの」といった“意識”の宣伝に惑わされてはいけない。みなさんにも“意識”がなくなった経験があるはずだから。自分が今やっていることに夢中になり、“意識”が一時的に消える状態。ゲームなり運動なり趣味なり仕事なり、“フロー”と呼ばれるこうした状態をみなさんご存知のはずである。「充実している」なんて思う暇もない状態、目の前がその瞬間の全てになった状態。満たされることで“意識”が役割を失い、“させる/させない”がなくなれば、その瞬間にやりたいこと(“される”こと)とその瞬間にやることが一致し、やりたくないこと(“されない”こと)とやらないことが一致するから、“フロー”のような状態がむしろ日常化するのではないか。そして“やりたいこと”のような言葉も意味を失う。

なんにせよ、“意識”の無い状態は恐れるようなものではないし、困るものでもないだろう。私たちは“意識=自分”という錯覚を共有する必要もなければ、消滅の恐怖を共有する必要もない。とはいえ、一度“意識=自分”になったら、満たされたからといってすぐに自動的に“意識”が消えてくれるわけではなく、しばらくは“意識”と付き合っていくことになる。捨てるも自由、死ぬまで一緒にいるのも自由(?)(もちろん“意識”が不要になれば“自由”という概念も不要になるが)。ただ、“意識”を植え付ける(“意識”を前提とした)“教育”をしなければ、数世代で“意識”は消滅するだろう。したがって、意識的に“意識”を消滅させる手伝いをする、これが“意識”の最後の役割になる。


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