瞑想について
ブログの更新を週一でやってきたわけだが、これからは不定期にしようと思います。というお知らせをするのに、なんでこんなタイトルなのかというと、多分これは瞑想の“成果”というか、結果だからである。
最近では?、ブログでずっと同じようなことを言っている。それはもちろん“本気”なわけだが、もうその“本気”が枯渇していて、この一年くらいは“本気”を絞り出して書いていた。書くことだけではなく、何かをやる原動力になるのは、それ自体が楽しいってのが一番いいのだろう。しかし私の場合、書くこと自体を楽しむという境地に達することはできず、『自己紹介』に「不条理の言語化」と書いてあるように、基本的には不満の感情を言葉にして供養?することであった。
要するに、週に一回2000字になる程度の不満の感情が生じなくなってしまっている。もちろんクソったれな不満はたくさんあるが、不満“の感情”は絞り出さないといけないぐらい、なくなってしまった。体の不具合、病気、衰え、ただただうんざりするが、逆に言えばただただうんざりするだけで、「治ってほしい!」「若い頃に戻りたい!」とならない。技術の進歩のおかげで苦労が減らせるのに“働かないと食ってけないシステム・現状”にしがみついてカネとコメと道徳の区別もできないキチガイには不満しかないが、こいつら家畜・原始人の類に期待するだけ無駄なので、「わかってくれよ!」みたいな不満“の感情”は生じない。
不満はたくさんあるが、不満“の感情”は(そんなに)無い。幸せとは思わないが、不幸だとも思わないので、「幸せになりたい!」と思わない。基本的に、「はぁ~~~~~~、やってらんねぇ」「あ~あ、まぁ、仕方ないか」みたいな感情しかない。不満の感情を供養するのは楽しかったが、2000字にして供養するほどの感情はもう週一では生じない。あ~あ、まぁ、仕方ないか。何か発生したら書くということで。
さて、瞑想といえば悟りとか真理なわけだが、私の瞑想はそういうのじゃないので、真理にたどりついて悟りを開きたい方はヒマラヤにでも行ってもらって。創造性を身に付けるとか、社会で成功したいとか、そういう方は自己啓発セミナーでスーパーキチガイになってもらって。
私は10年くらい呼吸に集中する瞑想を寝る前にやってきた。最初は10分くらいから始めて、結局1時間弱やるようになった。この一年はストレッチに時間を使って瞑想は諦めていたが、最近寝る前のストレッチを大幅に削ったので、また再開した。要するに私の瞑想はそんな感じだ。
瞑想の目的といえば、悟りとか真理とか、リラックスとか創造性とか、生きる意味とか、そういう“前のめり”なものばかりが巷に溢れている。欧米的な姿勢に汚染された、いかにも現代社会という風潮である。しかし、瞑想の目的をあえて挙げるとすれば、そういう“前のめり”をやめることなのである。何かに“なる”とか、そんな必要はない。ただやめるだけ。
集中する対象は何でもいいが、呼吸が一番シンプルで楽だろう。楽といっても簡単ということではない。やってみればすぐにわかるが、集中なんてできませんよ。一呼吸集中するの、無理です。私は今でもできないし、10年やってできたことがありません。でも一回一回ちゃんとやるよう心がけましょう。
10年やって基本ができない奴が偉そうに!と思うだろうが、むしろこれでいいのである(多分)。なんで集中できないかというと、途中で雑念が生じるからだが、瞑想ってのは要するにそれを“見る”練習だからである。「ちくしょう!また雑念が生じた!集中しないとダメだ!」と言って雑念を抑え込みたかったらそうすればいいが、ストレスになるからあまりお勧めはしない。仕方ないので、そんな苛立ちも含めて、ただ“見る”だけでいい。
“見る”だけって、その先に何があるんだ!?はい、“見る”ことがうまくなり、いつでも息をするように自分を“見る”ことができるようになります。だから、その先に何があるんだ!?悟り、真理、自由、幸福、一体何が手に入るんだ!?はい、自分を“見る”ことができるようになるだけなので、そういった“前のめり”なものはそもそも方向性が違います。じゃあ一体何のために瞑想なんて続けるんだよ!?そんなの、やってらんないじゃないか!
そう、「やってらんない」のである。ただし瞑想ではなく、ゲンジツシャカイの人生が。「はぁ~、やってらんねぇ」これこそが瞑想の動機であり、同時に瞑想の目的である。「はぁ~、やってらんねぇ」なぜか?なぜそんなにうんざりしているのか?“同じ”ことの繰り返しだからである。学校、会社、家庭、“同じ”ことの繰り返し。人間関係、恋愛、繁殖、“同じ”ことの繰り返し。成功失敗、満足不満、承認嫉妬、“同じ”ことの繰り返し。「はぁ~、やってらんねぇ」心底そう思った時、縋るように始め、続けるのが、瞑想である。
自分を“見る”と言うと、ちょっとかっこいいが、そこにはかっこいいものは何も無い。ただただ“同じ”繰り返しである。“同じ”欲望、“同じ”プライド、“同じ”道徳、“同じ”価値観、“同じ”思考のクセ、“同じ”不満・・・・・・自分の頭の中で“同じ”ものがその日の出来事や過去の記憶と合わさって、“同じ”(ような)イメージ・コトバが発生し、“同じ”ように煩わされる。日々の瞑想を通して自分の頭の中の“同じ”繰り返しを散々見て、「はぁ~、マジでやってらんねぇ」心底そう納得した時、“やめる・捨てる”選択が可能になる。今までずっと没入し、人生を費やしてきたのだから、苦しみの原因といえども“やめる・捨てる”のは恐い。が、それ以上に「はぁ~、やってらんねぇ」場合、そこで終わり。その先には特に何も無い。幸福やら(多くのヒトが思い描くような)自由やらは無い。
自分が“やめる・捨てる”選択をしたものは、今ではもう忘れてしまった。迷って結局選択していないものもある。ただ“選択”をしてみてつくづく思うのは、普通の人間にはせいぜい“やめる・捨てる”ことが可能な程度の自由があるだけで、“前のめり”な自由なんて無いということである。あ~あ、まぁ、仕方ないか。不満“の感情”が湧いてこない。書く動力がなくなってしまったなら、それを生み出すことはできない。読んでくださったみなさん、今まで本当にありがとうございました。
ちなみに、瞑想は見方を変えれば?「はぁ~、やってらんねぇ」を高める作業なので、ゲンジツ適応的にはプラスに作用することはまずありません。気をつけてやってください。リラックス効果?的なのも一応あるかもしれませんが、シャカイ適応に役立つようなものではないので、だったら素直に職場で物理的に暴れたり、相手の股間を蹴っ飛ばしたりする方が確実です。私はリラックス?し過ぎてシャカイ復帰の動力が完全に枯渇しているので、仕方ありません。逆に「労働?ハハッ、誰がやるかよそんなもん、バーカ」みたいになってもいいなら、どんどん瞑想しましょう。

最近では?、ブログでずっと同じようなことを言っている。それはもちろん“本気”なわけだが、もうその“本気”が枯渇していて、この一年くらいは“本気”を絞り出して書いていた。書くことだけではなく、何かをやる原動力になるのは、それ自体が楽しいってのが一番いいのだろう。しかし私の場合、書くこと自体を楽しむという境地に達することはできず、『自己紹介』に「不条理の言語化」と書いてあるように、基本的には不満の感情を言葉にして供養?することであった。
要するに、週に一回2000字になる程度の不満の感情が生じなくなってしまっている。もちろんクソったれな不満はたくさんあるが、不満“の感情”は絞り出さないといけないぐらい、なくなってしまった。体の不具合、病気、衰え、ただただうんざりするが、逆に言えばただただうんざりするだけで、「治ってほしい!」「若い頃に戻りたい!」とならない。技術の進歩のおかげで苦労が減らせるのに“働かないと食ってけないシステム・現状”にしがみついてカネとコメと道徳の区別もできないキチガイには不満しかないが、こいつら家畜・原始人の類に期待するだけ無駄なので、「わかってくれよ!」みたいな不満“の感情”は生じない。
不満はたくさんあるが、不満“の感情”は(そんなに)無い。幸せとは思わないが、不幸だとも思わないので、「幸せになりたい!」と思わない。基本的に、「はぁ~~~~~~、やってらんねぇ」「あ~あ、まぁ、仕方ないか」みたいな感情しかない。不満の感情を供養するのは楽しかったが、2000字にして供養するほどの感情はもう週一では生じない。あ~あ、まぁ、仕方ないか。何か発生したら書くということで。
さて、瞑想といえば悟りとか真理なわけだが、私の瞑想はそういうのじゃないので、真理にたどりついて悟りを開きたい方はヒマラヤにでも行ってもらって。創造性を身に付けるとか、社会で成功したいとか、そういう方は自己啓発セミナーでスーパーキチガイになってもらって。
私は10年くらい呼吸に集中する瞑想を寝る前にやってきた。最初は10分くらいから始めて、結局1時間弱やるようになった。この一年はストレッチに時間を使って瞑想は諦めていたが、最近寝る前のストレッチを大幅に削ったので、また再開した。要するに私の瞑想はそんな感じだ。
瞑想の目的といえば、悟りとか真理とか、リラックスとか創造性とか、生きる意味とか、そういう“前のめり”なものばかりが巷に溢れている。欧米的な姿勢に汚染された、いかにも現代社会という風潮である。しかし、瞑想の目的をあえて挙げるとすれば、そういう“前のめり”をやめることなのである。何かに“なる”とか、そんな必要はない。ただやめるだけ。
集中する対象は何でもいいが、呼吸が一番シンプルで楽だろう。楽といっても簡単ということではない。やってみればすぐにわかるが、集中なんてできませんよ。一呼吸集中するの、無理です。私は今でもできないし、10年やってできたことがありません。でも一回一回ちゃんとやるよう心がけましょう。
10年やって基本ができない奴が偉そうに!と思うだろうが、むしろこれでいいのである(多分)。なんで集中できないかというと、途中で雑念が生じるからだが、瞑想ってのは要するにそれを“見る”練習だからである。「ちくしょう!また雑念が生じた!集中しないとダメだ!」と言って雑念を抑え込みたかったらそうすればいいが、ストレスになるからあまりお勧めはしない。仕方ないので、そんな苛立ちも含めて、ただ“見る”だけでいい。
“見る”だけって、その先に何があるんだ!?はい、“見る”ことがうまくなり、いつでも息をするように自分を“見る”ことができるようになります。だから、その先に何があるんだ!?悟り、真理、自由、幸福、一体何が手に入るんだ!?はい、自分を“見る”ことができるようになるだけなので、そういった“前のめり”なものはそもそも方向性が違います。じゃあ一体何のために瞑想なんて続けるんだよ!?そんなの、やってらんないじゃないか!
そう、「やってらんない」のである。ただし瞑想ではなく、ゲンジツシャカイの人生が。「はぁ~、やってらんねぇ」これこそが瞑想の動機であり、同時に瞑想の目的である。「はぁ~、やってらんねぇ」なぜか?なぜそんなにうんざりしているのか?“同じ”ことの繰り返しだからである。学校、会社、家庭、“同じ”ことの繰り返し。人間関係、恋愛、繁殖、“同じ”ことの繰り返し。成功失敗、満足不満、承認嫉妬、“同じ”ことの繰り返し。「はぁ~、やってらんねぇ」心底そう思った時、縋るように始め、続けるのが、瞑想である。
自分を“見る”と言うと、ちょっとかっこいいが、そこにはかっこいいものは何も無い。ただただ“同じ”繰り返しである。“同じ”欲望、“同じ”プライド、“同じ”道徳、“同じ”価値観、“同じ”思考のクセ、“同じ”不満・・・・・・自分の頭の中で“同じ”ものがその日の出来事や過去の記憶と合わさって、“同じ”(ような)イメージ・コトバが発生し、“同じ”ように煩わされる。日々の瞑想を通して自分の頭の中の“同じ”繰り返しを散々見て、「はぁ~、マジでやってらんねぇ」心底そう納得した時、“やめる・捨てる”選択が可能になる。今までずっと没入し、人生を費やしてきたのだから、苦しみの原因といえども“やめる・捨てる”のは恐い。が、それ以上に「はぁ~、やってらんねぇ」場合、そこで終わり。その先には特に何も無い。幸福やら(多くのヒトが思い描くような)自由やらは無い。
自分が“やめる・捨てる”選択をしたものは、今ではもう忘れてしまった。迷って結局選択していないものもある。ただ“選択”をしてみてつくづく思うのは、普通の人間にはせいぜい“やめる・捨てる”ことが可能な程度の自由があるだけで、“前のめり”な自由なんて無いということである。あ~あ、まぁ、仕方ないか。不満“の感情”が湧いてこない。書く動力がなくなってしまったなら、それを生み出すことはできない。読んでくださったみなさん、今まで本当にありがとうございました。
ちなみに、瞑想は見方を変えれば?「はぁ~、やってらんねぇ」を高める作業なので、ゲンジツ適応的にはプラスに作用することはまずありません。気をつけてやってください。リラックス効果?的なのも一応あるかもしれませんが、シャカイ適応に役立つようなものではないので、だったら素直に職場で物理的に暴れたり、相手の股間を蹴っ飛ばしたりする方が確実です。私はリラックス?し過ぎてシャカイ復帰の動力が完全に枯渇しているので、仕方ありません。逆に「労働?ハハッ、誰がやるかよそんなもん、バーカ」みたいになってもいいなら、どんどん瞑想しましょう。

