FC2ブログ

人間関係に夢をみる

AIやロボットが進歩して人間と人間以上にうまくコミュニケーションできるようになった時、人間同士の関係はどうなるのだろうか。私の見た限りでは主に2つの意見があって、1つ目は人間が人間を必要としなくなって大変だというもの。人間にはやはりホンモノが必要なので、何らかの規制が求められる。2つ目はAIやロボットの方がいいなら素直にAIやロボットとだけ関わればいいじゃないかというもの。ホンモノだろうがニセモノだろうが、自分にとっても他人にとっても快適なんだからそれでいいじゃん、というわけである。

私は2つ目の方に近く、そうなるならそれで有り難いし、AIに文章の指導とかしてもらいたいなぁなんて思っていた。が、最近になり「この2つの見方って結局はどちらも“今の人間関係”の延長でしかないのでは?」と考えるようになった。要するに、言い方は悪いが、“道具的な枠組み”でしか人間関係を捉えていなかったのである。必要とする/必要とされる、どちらかがどちらかの欲求を満たす手段となるような非対称的な関係。とはいえ、一方通行ではなく相互依存的である。たとえば必要とされる方が必要とされることに生きがいを感じるようになり、必要とされないと生きていけなくなったり。また、自分がどちら側になるかは相手や場合によるし、恋愛のように同時に両側になることもある。

そうやって求め合ったり求めたり求められたりするのが人間を人間たらしめるかけがえのない独自性だから、ここを譲ってはいけない、という所で分岐しているだけで、2つは結局“人間は自分の欲求を満たすために人間を必要としている”という見方で一致している。だから反応の仕方が違うだけで、「AIやロボットが進歩すれば人間は人間を必要としなくなる」という予想自体は一致する。“人間は自分の欲求を満たすために人間を必要とする”というあり方以外ないなら、それを“道具的”なんて表現することは悲しいだけだが、しかし本当にこれ以外ありえないのだろうか。AIやロボットに満たしてもらえるようになったら人間は人間を必要としなくなる、つまりよりよい道具で満たされたらそれで終わりになってしまうような関係、こいつは満たされないことが当たり前な世界の関係ではないのか。

この話が根拠になるかはわからないが(アナロジーとしてかなり微妙だが)、昨今よく登場する“自尊心”とか“自己肯定感”といった言葉を思い出してほしい。「自分は生きていてもいいんだ」「自分には存在価値があるんだ」という、「その時点で既に心に大きな穴が空いているから“必要になってしまう”メンタリティ」である。自尊心も自己肯定感も、基本的には“欠乏している側”の視点から論じられる、逆に言えば“ある側”としてはその状態が普通なので、「自分は~」という風には多分そんなに考えない、いちいち確認する必要がないのである。つまり自尊心や自己肯定感は適切な経験を重ねることで構築される基盤のようなもので、それが欠乏した時にはじめて“必要”になるのである。

この話で言いたかったことは2つあって、まず1つは今の“道具的な人間関係”も欠乏しているからこそ生じるあり方なのではないか、ということ。私たちは「自分の力で生き残れ」「自立しろ」という圧力を陰に陽に受けながら、自明な“共に生きていく仲間”を幼い頃から欠いた状態で育っていく。人類は数百万年の間、基本的にはうまれた集団に所属して運命を共にしてきたわけで、いくら文明の力で安全が確保されても、そういう仲間がいない状態は大きなストレスになるのではないか。そのせいで空いた心の穴=欠乏を埋めるため、他人を使って/他人に使われて不確かに満たし合いながら、なんとかかんとか生きているのではないか。これは“異常な世界の当たり前”にすぎないのではないか。

もう1つは、満たされたらそれで終わりなのか、ということ。もし“道具的”が実際に当たり前だったとしても、AIやロボットによって完璧に満たされるようになったら、自尊心や自己肯定感が“ある側”の人がそこを基盤にして欠乏した人ができないような挑戦に乗り出すように、私たちは新しい人間関係に乗り出すのではないか。AIやロボットが進歩したら人間が人間を必要としなくなる、AIやロボットとだけ関わるようになる、これはあくまでも欠乏している私たちによる“今の人間関係”を前提とした考えなのである。

では完璧に満たされた後で、つまりそれ以上の道具を必要としなくなった後で、どんな人間関係がうまれてくるのか、欠乏した世界の住民である私にはさっぱりわからない。突き詰めれば結局何らかの欲求や必要に基づくのだろうが、きっと画定された孤独な個体のそれとは全く異質なもののはずである。だから、どうせなら夢をみることにした。“対等”という概念が不要になるぐらい対等で、“つながり”のような概念が不要になるぐらい深くつながり溶け合っているような、そんな人間関係を私は夢みている。


ありのままの赤ちゃん

僕のお母さんはよく言った。「困難を抱えた人や、みんなよりちょっと苦手なことが多い人を差別するのはいけないことだよね?ありのままに手を加えるということは、同じ差別をすることになるの」その後には不幸にも殺されてしまった昔の人たちの話が続き、最後はこう締めくくる。「絶対やっちゃいけないことなの」こうして僕は“ありのままの赤ちゃん”としてうまれた。

僕のお父さんはよく言った。「ありのままの自分を受け入れるんだ、大丈夫、きっと乗り越えられる」その後には“ありのまま”の大切さが続き、最後はこう締めくくる。「結局ありのままが一番なんだよ、自然が与えてくれた試練に立ち向かうことにこそ生きる意味があるんだ」こうして僕は“ありのままの赤ちゃん”として“ありのまま”に育てられた。

学校は将来のためにと普通の学校にいくことになった。普通の人たちは僕以外みんな“ありのまま”ではなかった。僕よりずっと頭がよくて、機転も利いて、運動もできて、なのに僕をバカにすることもなく、勉強を教えてくれたし、僕のつまらない発言をいつもうまく笑いに変えてくれたし、チームの足を引っ張った時は僕の精一杯が最大限活きるような作戦を一緒に考えてくれたし、放課後は練習に付き合ってくれた。僕はみんなが大好きだった、みんなありのままの目で僕をみてくれたから。

お母さんは聞いた。「学校はどう?」僕は何も考えずに、みんなとても凄くてやさしくて毎日楽しいと応えた。するとお母さんは不機嫌な目になって、「でもそれは本当じゃない」と言った。どういうこと?とは聞けなかった。

お父さんに通知表をみせた。僕の成績は全部最低だったけど、先生は「ムードメーカーとしてみんなととても仲良くできている。勉強も運動も友達と一緒に根気強く取り組んで着実に向上している」と書いてくれた。お父さんは怒鳴った。「悔しくないのか!」何を悔しがればいいのかわからなくて、僕は何も言えなかった。

ある日、お母さんの不機嫌な目をみたくなくて、僕は嘘を吐いた。友達のA君にいじめられたと言ったのだ。お母さんは一瞬緩んだ目をすぐにキリッとした目に変えて、学校に連絡して話し合いの場を設けさせた。「大丈夫だった?」「先生にちゃんと言うからね」そんなお母さんの目をみて嬉しくなったけど、大好きなA君を裏切ってしまったことに気づいてお腹が痛くなった。

教室に行くと、A君もA君のお母さんも先生もきていた。僕のお母さんは僕の手を引いてツカツカと入っていき、怒りをぶつけ、最後に言った。「やっぱりニセモノはニセモノですね!」先生は困ってしまい、僕に聞いた。「A君に何をされたの?」僕は黙っていた。お母さんも驚いて黙ってしまった。先生はA君に聞いた。「A君、何をしたの?」A君の「待ちましょう」という言葉をきいて、僕は泣いてごめんと言った。「A君、許してあげられるかな?」A君はすぐに強い口調で言った。「これは許すとか許さないとかの問題じゃありません。ただ、今僕に言えることがあるとすれば、こうしたくなる気持ちは理解できるということ、嘘はいけないけど責めるつもりは無いということ、明日からも友達でいたいと思っているということ」嘘を吐いた僕よりも、A君やA君のお母さんの方がつらそうな目をしていた。僕のお母さんは目をパックリと開けて下を向いていた。

次の日、お父さんが気分転換にと“ありのままの赤ちゃん”の集まりに連れて行ってくれた。「きっといい友達がみつかるよ」何かに縋るような目をしていた。僕はそこではじめて“障害者”の人と出会った。目をキラキラ輝かせながら、“ありのまま”の素晴らしさを話してくれた。「確かに“ありのままの赤ちゃん”としてうんだ親を恨んだ時もありました、なんで自分がと思った時もありました、昔の人が殺されたことと自分は何の関係も無いと怒った時もありました、けど今はとても感謝しています。“ありのままの赤ちゃん”としてありのまま育ててくれた両親と、そして自然が与えてくれた試練のおかげで、普通の人以上に誰かに寄り添える人間になれたのです。ここにいる人たちはみんな歴史を背負っている、惨劇を繰り返さないでほしい、そう伝える使命を胸に・・・・・・」お父さんに楽しかったかと聞かれて、楽しかったと応えた。お父さんはうんうんと頷いて、また来ようなと言ったけど、本当はもう二度と来たくなかった。

その日の寝る前、お母さんは僕を抱きしめて言った。「あなたが“ありのままの赤ちゃん”としてうまれてきてくれて本当によかった」そして続けた。「お母さんもお父さんも普通の人たちと比べて勝つことばかり、自分たちの都合ばかり考えてた。ごめんね、でももうわかったから、思い出したから、あなたがこうして健康で元気に生きててくれるだけでいいんだって」僕はとても安心した、なんだ、お母さんもお父さんも本当はちゃんとわかってたんじゃないか・・・・・・けどそしたら今度は僕の方がわからなくなってしまった。じゃあ、僕は一体何のために?“ありのままの赤ちゃん”としてうまれた僕は、一体何をするために・・・・・・何をさせるために・・・・・・?僕の頭ではそれ以上考えることができなかった。


目の前の選別

最近、ゲノム編集された赤ん坊の誕生が話題になった。父親がエイズに感染していたため、子供が感染しにくくなるようにしたとか。これに対して主に2つの批判があがった。一つ目は時期尚早というもの。まだ研究が不十分でそれが子供にどう影響するかわからない、もっともだと思った。今治療できますよと言われたら多分私も断る。二つ目は倫理的に問題があるというもの。優生思想、命の選別、親が自分の欲望に従って好き勝手に子供をデザインするようになる、正直こっちはなんで問題になるのかよくわからなかった。

といったことを言っていたら、「うまれる前の赤ん坊を勝手に選別できるようになったら、うまれた後の人間も勝手に選別されるようになることがわからないんですか?」と言われた。ダメな奴は殺されるらしい。赤ん坊の選別といっても、大量につくって“優秀な遺伝子”を持っている赤ん坊だけを選別して他の赤ん坊はみんな処分する、みたいなことをするわけではなく、あくまで選別する(というより手を加える)のは遺伝子である。それに“劣った遺伝子”だらけの人同士がつくった“劣った遺伝子”だらけの子供も遺伝子を変えられるのだから、わざわざ個体単位で選別する必要がなくなるわけで、この技術(と誰でも最適な生育環境を提供できるような技術)が確立されればむしろ優生思想に意味がなくなり、そのうち廃れるのではないか。

赤ん坊の意志を無視して勝手に性質を選別するなんて、と言っても、じゃあ所得や能力や容姿や性格で好みの性質を持った相手を赤ん坊にお伺いを立てずに選んでいるのはどういうことなのか。こんな世界に赤ん坊の意志を無視して(ゲノム編集せず)勝手に引きずり込むのはいいのか。また、障害者を否定することになると言っても、“障害者”というカテゴリーの時点で半ば否定されているのではないか。前置きが長くなってしまったが、要するに「怒るのは“そこ”ですか?」ということである。目の前で既に行われている選別はいいんですか?それも、かなりえげつない選別だと思うのですが。

私たちはうまれてから常に選別されている。障害や病気の有無で受けられる教育は変わるし、それによって進路も限定される。“普通の”学校に入っても、学力や偏差値や運動能力や特技によって選別され、性格やコミュニケーション能力などによっても選別される。また逆に友達を選ぶし、付き合う相手を選ぶし、子供をつくる相手も選ぶ。私たちは常に選別されているし、同時に他人を選別してもいる。その選別の結果にも影響を受け、また選別され、選別する。

いやいや、そんな選別のどこがえげつないの?別に普通じゃん。本当にそうだろうか。現代社会を生きる私たちは“働いて自分の力で稼がないと生きていけないシステム”を採用し続けている。そのせいで、テクノロジーの進歩に伴って人間がやるべき必要な仕事はどんどん減っていくはずなのに、言い訳・正当化のためのシゴトやでっち上げの必要が創出され続け、恩恵が行き渡るのが妨げられ、生産過程・カネや権力が集まる組織にうまく寄生できる者とそうでない者とのピラミッドが現出している。選別を生き残れば残るほど制度によって手厚く保護され、“努力の成果”という物語まで与えられる一方、排除された方は貧困・収奪を我慢させられ、「努力不足・無能・自己責任・足を引っ張っている」ということにされる。

確かに「生きる価値なし」と誰かに勝手に判断され命を奪われるわけではない。そういったインパクトのある選別はめったにない。しかし、私たちは日々少しずつ選別され、ピラミッドの中に配置されていく。そんな世界で進路が限定されたら、偏差値が低かったら、学校に通えなかったら、能力がなかったら、病気になったら、気に入ってもらえる性格じゃなかったら、一体どうなるだろうか。つまり単なる印象の差にすぎないのである。具体的な誰か、たとえば特定の思想を表明する個人がやるか、日常に浸透したシステムが自動機械のようにジワジワやるか。ピラミッドの下層で待っているのは貧困や劣悪な労働環境や制度からの疎外や孤立であり、そのせいで病気になったり、“障害者”になったり、身体をこわしたり、精神を病んだり、引きこもり、そして最後は自殺である。どんどん追い詰められて“自発的に”選別されるシステムになっている。

“システム”と言うと抽象的ではっきりとした主体とは思えないが、私たちがこの社会・システムを支持しているのは事実である、それも「昨日もそうだったから」「みんなやっているから」程度の理由で。したがって“自然淘汰”とか“弱肉強食”とかシステムを“自然”に見立てる比喩はインチキであり、私たち自身が選別する/される(システムの内側にいる)と同時に選別システム自体を肯定・支持している。ただそれを“自然”に見立てられる程度にまで責任意識が希釈されているだけ。デザイナーベビーにおける“親の欲望で好き勝手”なんてのも、やるのが“親”とはっきりしているからインパクトが大きいだけで、所詮“代表者としてシステム(の価値観)に奉仕する”にすぎないわけである。

私たちは帰責できる具体的な相手=印象・インパクトがないというだけで非道なシステムをあっさりスルーし、ピラミッドの位置取り能力という無意味な基準で無意味な選別を続け、最下層の少し上の所で今より悪くならないために/今の生活を守るために働いていく、あるいは落ちてしまった所で自分を“自分の意志で”選別しながら最終選別の日まで苦しみに耐えていく。日常に浸透して目立たないというだけで、“今現在既に”選別された人々は様々な“普通”から退出し(させられ)苦しんでいるし、不当に死んでしまう人も大勢いる。目の前のこんな選別システムを問題視できないのだから、倫理とか多様性とか命がどうとか言われても“わざとらしさ・白々しさ”を感じるだけだし、「怒るのは“そこ”なんですね」としか言いようがない。


ならばとりあえず笑おうか

去年の今頃に『12月の3日日誌』という文章を書いた。大きく波打つ気分に翻弄された話。うん、今年もきた、というよりきていた・・・・・・気がする。去年の大波の前にどんな精神状態だったか覚えてないので、これが同じ類のものなのかはっきりとはわからないが、大波ではなく中波小波がどっかんどっかん2週間ほど。去年のように「真理を洞察した!」と「自分はもうどうしようもない」を反復するまではいかず、「これはみんなアッと言うね!」と「生きるのって本当にツライなぁ」を反復した。ただ中波小波とはいえ期間が長いし、判断力や集中力もちゃんとダメになっているし、空回りしているし、そのせいでアタマがグルグルして普段考えない“将来”について考えることが多かった。

お腹の辺りで大きな感情が渦巻きだすと、すぐに不安がやってきて“将来”へと連れていく。といっても抽象的な言葉や断片的なイメージばかりである。親の介護、職歴ナシ、無職、税金・保険料の滞納、迷宮のような手続き、病気、孤独、貧困・・・・・・それでも不安は増幅する、呼吸が苦しくなる、そして思考はより具体的な対象を求め、“この世界で年を取る”というより生々しい恐怖や自分の過去へと向かう。

“自分が年を取る”ということは、自分以外の人間からすれば“他人が年を取る”ということであり、自分が自分の“年を取る”をどう考えているかにかかわらず、世間はそれ=他人が年を取ることに対してかなり都合のいい見方をしていると思う。

たとえば「いやだ!やりたくない!」が許されるのは若者だけで、おっさんおばさんが言ってたら「いいかげん現実みろよ」となる、つまり年を取れば“成長して道理をわきまえ社会の方が正しいと理解する”ことになっている。若者が「結婚なんてしません」と言うと“自分で選んだ生き方”として通用するが、年を取れば選んだにしろできなかったにしろ平等に“できなかった人”に分類される、つまり“成長して同じ価値観に目覚める”ことになっている。“いい年した大人”が「生きるのがツライ」と弱音を吐けば「情けない/大人になれ」と言われる、つまり“成長して精神的にもタフになる”ことになっている。自由な生き方だ価値観の多様化だといっても、年を取れば誰もが“普通の生活を前向きに実現・維持するようになる”ことになっていて、やらない人もできない人も「いい年して・・・・・・」と言われるようになる。要するに、自分のようにその“普通”ができない人間にとって、“年を取る”ことは肉体的・精神的な衰えに加え世間的環境の悪化も意味する。

サラッと書いてしまったが、私はやらない側ではなくできない側の人間だ。就職面接は全然通らなかった。自分が自分について語る言葉があまりにも嘘くさすぎて発することに抵抗を感じ続け、最後は頭の中の言葉を口から出すこともできなくなり、「もういいです、お時間とらせてしまい申し訳ありませんでした」と言うので精一杯だった。面接で話す言葉を紡ぐのはただただ苦痛だったし、なんでこんなことまでして働かねばならないのかと涙を流した。これは単なる甘えなんだ、ここで成長しないとダメなんだ、という自己洗脳にも手を染めた。

そうだちくしょうやるしかねぇ、意識を高揚させるために成功者たちの胡散臭いツラを拝み倒した。「これで世界が変わる!」「問題解決!社会貢献!革命的!」威勢のいい名言、一瞬の高揚、大きな虚脱感、どれもこれもマジつかえねー麻薬だなぁ、画面の向こうでペラペラ語ってるヘラヘラのツラに何一つ魅力を感じない、動画を閉じた。ところで今自分が持っているこいつはなんだ?高性能小型コンピュータ!(高性能カメラつき!)世界中の人間をつなげる革命的プラットフォーム!革命的革新の結晶たる革命に思考を革命されたオレたち若者が革命的マシンを駆使して送る革命的日常、それは・・・・・・お喋り、生活の自慢し合い、証拠写真作り、動画サイト閲覧・・・・・・バカヤローかよ!?いやふざけんなよ、上見てフワフワ横見てチラチラ肝心の足元お留守でフラフラじゃ意味ねーわ。なにこれホントに文明?ペコペコ頭下げてヒーヒー働いて維持するのが覗き見文明ライフですか?オイオイオイあまり人間をなめるなよ都会育ちの小僧共、イナカなんてヤダーと下に見ながらクールなシティのライフを革命イナカナイカイカナイカ~~~トカイがイナカになっちゃった☆。斜め下をいくシナリオに絶望した私は顔本を開いたままのスマホを叩きつけた勢いで解約し、就活をやめた。了解、ステイハングリーステイフーリッシュ・・・・・・これどういう意味?

どうしようもないんだ、うん、どうしようもない。私は劣悪な世間的環境の中で“何者にもなれない中年・老人”という何者かになる、きっとほとんどの人も私と同じように・・・・・・なんて考えて自分を慰めるしかない、でもみんなもそうする以外にどうにもできなかったんだろう?なのに世間の瘴気にあてられて、過度にポジティブになろうとしたり、自分を卑下するようになったり、他人や“普通”を貶すようになったり・・・・・・人間なんて脆いものさ(それともはじめから人よりちょっとユニークだったのかい?)、それが裏目に出るとわかっていても、前のめりになって動き続けるしかない、どこかの引きこもりニートが「これはみんなアッと言うね!」と舞い上がってtwitterに投稿してしまうのと同じように、それがやっぱり裏目に出てもっと前のめりになる所まで同じように。

でもそうやって繰り返していくしかないんだ、「傍観者気取ってあがこうともしない奴が一番ダサい」なんて価値観に曝されながら。あがいたところで低賃金だ無能だ自己責任だとバカにされる。抵抗?無理だよそんなの。「社会に必要な仕事が“誰にでもできる仕事”でなかったら困りますし、あなた方が生存を人質に労働させる非人間的システムを肯定するせいで必要な仕事の賃金が上がらず、機械化も進まず、いつまで経っても人類が労苦から解放されないんですよ、責任とれタコ」と言ってみても、人々は“負け犬の妄想・言い訳”と一蹴し、眼球ギンギン気力に滾った勝者の「自分のアタマで考えて勝て!」に手を叩く。泣きたくなるだろ?でも、こうやって繰り返して凌いでいくしかないんだ、最終日まで・・・・・・ならばとりあえず笑おうか。


“正しくない”が正しくないから“正しい”は正しい

「負けるのは結局自分の努力不足なんだよ」

そうですね
努力できる才能や環境がどうこうと言ってみても
「努力が足りない」ことは何も変わらない
だろ?
能力を向上させる努力が足りない
遺伝子を克服する努力が足りない
環境を変える努力が足りない
運を味方につける努力が足りない
努力するしかないんだってさ
生存費の奪い合い
市場価値
強制参加
構造的な最下層
努力が足りない、努力が足りない
無限ループ

あーあ、クソしょうもない。でも豊かな“今”があるのは“これ”のおかげなんだってさ

「他人から奪うことばかり考えるな!文句を言う前に今の自分に何ができるか考えろ!」

そうですね
みんな自分の生活を守るのに必死で
自分の力で一生懸命稼いだカネを奪われるのは嫌に決まってる
社会保障なんてものは、頑張った人から奪った汚いカネですね

自動化・機械化という“問題”、効率化反対、規範化されたイノベーション
「みんなでちょっとずつ不便を我慢しよ?」

社会や未来を犠牲にして確保された金ぴかの保護イスに、他人を蹴落として座り
優秀な仲間に囲まれて、優秀な人材にしかできない責任のある仕事に励めば
それは“賃金”という名称の綺麗なカネになるらしい
まともな仕事をするまともな人間がまともに稼いだおカネ、というお話

ハイハイ、あんたのカネなんていらねーよ

「死ぬ死ぬ言ってないでさっさと死ね!強くなれないお前が悪い!」

そうですね
身体を壊した
精神を病んだ
やる気が急になくなった
動けなくなった
貧困に陥った
生まれた時から貧困だった
誰かが脱落した
競争相手が一人減った
誰かが死んだ
雇用のイスが一つ空いた
誰かが自殺した
つまりチャンスだ
正しい社会の自浄作用

「自分のアタマで考えて行動し、自分の力で自分の人生を切り開かなければならない」

そうですね
人間を賃金奴隷に変換するシステムが要請したプレイ
“個人”というプレイ
したがって“個人”から派生する諸々もプレイ
諸々に彩られた日常もプレイ
一つ一つの日常の一瞬一瞬がシステムに力を与える
自分の生存に執着する孤独がシステムに力を与える
全てを自己利益に還元する空虚がシステムに力を与える
因果連鎖を断絶する傲慢な脳内がシステムに力を与える

正しい社会が正しく回っていく

「そうやってみんなが頑張るおかげでやっと現状を維持できている、この仕組みを変えたら社会が崩壊する」

そうですね
二項対立にはまって
主義思想信条などなどの勝ち/負けを繰り返し
必然的に“今・これ”が価値そのものになった
現実的に“今・これ”が最善なのだから
あなたが“今・これ”をどう感じるかなんてどうでもいいのだ
何を言おうが、何が起ころうが、“今・これ”の正しさは揺るがないのだ
“個人”を抑圧から解放したのも、自由をもたらしたのも
生活を豊かにしたのも、人類が進歩できたのも
最高の“今”は全て“これ”のおかげなのだから
“これ”を変えてしまったら、全部崩壊
歴史も状況もそこにいた人々も全て“今・これ”に溶かして
“今・これ”に奉仕するだけの背理法に耽る

「“今・これ”以外に何がある?現実をみろ!」

そうですね
“今・これ”/“過去・あれ”
裏に潜む正しい/正しくない
非対称的な真偽関係
“今・これ”/“今・これ以外”
裏に潜む現実/妄想、優/劣
非対称的な上下関係
インチキ二項対立
論理整合客観合理
どちらでもないとか、どちらでもあるとか、ごちゃ混ぜだとか
中途半端は許されない
没入二項対立服従
断定論破嘲笑去勢しあい

“正しくない”が正しくないから“正しい”は正しい
そうですね
でもそれが何?


プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

twitter
最新記事
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる