極彩色の世界にうまれおちた赤ちゃん

はじめての世界はシャボン玉でした、ふわふわ浮いていて、きらきら輝いていて
パチンと弾けたら、極彩色の水玉が飛び散った
フフフ、周りの景色なんてちっとも覚えてない
無機質な灰色の壁だったかもしれない
真っ黒な夜の闇だったかもしれないし、真っ白な白昼の光だったかもしれないし
ぐちゃぐちゃに潰れた肉の色だったかもしれないね

世界はおもちゃ箱をひっくり返したようにはちゃめちゃで、ぐにゃぐにゃで
時間も重力もなくて、全てがゆっくりと流れていた
手を伸ばせばぬいぐるみがやさしく握ってくれた
飛び跳ねればお人形さんが一緒に踊ってくれた
にこりと笑えばみんな一緒に笑ってくれた
シャボン玉もぬいぐるみもお人形さんもみんな一つでした

そんな原風景としての思い出
とっても悲しい時に思い出して声を殺し泣くための思い出
とっても嬉しい時に思い出して声を上げ泣くための思い出
いつでも縋ることのできる、温かいゆりかごのような思い出
大切に、壊さずに、持ち続けたいのに
どんどん穴があいて漏れてしまう、ボロボロになって汚れてしまう、夢・・・・・・

ずっと何かを探していた
けど望んでいたモノは何だっけ
何が欲しかったの
どこに向かっていたの
何をしようとしていたの
なんでうまれおちてしまったの

シャボン玉のように大きくて澄んだ瞳がほしい
ビー玉のようにつるつるした白い肌がほしい
ぬいぐるみのようにやさしく包み込んでくれる髪がほしい
子守唄のように甘く心地よく響く声がほしい
積み木細工のように精巧な左右対称の顔がほしい
お人形さんのように完璧な型の四肢がほしい

「なんで?」

そうなれたらきっと苦しくないのにと思いたかったから

「なんで?」

苦しかったから

「なんで?」

うまれおちてしまったから

どんな問題もたちどころに解決してくれるアタマがほしい
それでいてたとえばどこかちょっと抜けているとか
「そのギャップがまたいいね」と他人を魅了してしまうような
欠陥とはいえない欠陥がほしい
その欠陥とはいえない欠陥を根拠に「誰にだって欠陥があるんだから、元気だして」
なんてサラリと励ませるような屈託のなさがほしい

「なんで?」

そうだったらきっと苦しくないのにと思いたかったから

「なんで?」

苦しかったから

「なんで?」

うまれおちてしまったから

誰もが理想とする憧れの生活がほしい
最後は安定した人並みの生活がほしい
無条件に支えてくれる相手がほしい
無条件に愛してくれる相手がほしい
無条件に支えてあげられる愛してあげられる相手がほしい
しあわせがほしい

「なんで?」

そうなったらきっと苦しくないのにと思いたかったから

「なんで?」

苦しかったから

「なんで?」

うまれおちてしまったから

悲しい時に苦しみを癒す笑いがほしい
笑っている時に苦しみを流す悲しみがほしい
だからずっとクルクル回っていた
お人形さんのように完璧な型の四肢で器用にバランスをとりながら
どんな問題もたちどころに解決してくれるアタマが生み出す意志の力で
ずっとクルクル回っていた

「なんで?」

本当はクルクル回ることしかできないから、クルクル回っていただけなのだが
それをそうと知ってしまったら、と考えるととても怖いから
意志の力でクルクル回っていた、ということにしたかったから

「なんで?」

苦しかったから

「なんで?」

うまれおちてしまったから

どこでもいいから、クライ、クライ、クライ
なんでもいいから、クライ、クライ、クライ
どこもかしこも、クライ、クライ、クライ
命が望まれるとか、望まれないとか、そんなことどうだっていいの
大切なのは、その命が持ち主の望むような命かどうか
じゃない?

「なんで?」

それしかできないから

「なんで?」

許されていないから

「なんで?」

許してほしいから

「なんで?」

苦しいのは許されていないから、と思いたいから、許してほしいと願うから

「なんで?」

苦しかったから

「なんで?」

うまれおちてしまったから

「なんで?」

お前らが大嫌いだ

理由をでっち上げて苦しみをナシにする卑しい根性のお前らが大嫌いだ
犯した罪を認識しようとしない、あるいはできない、できないことを認識できない
そのせいで誰かが苦しんでもヘラヘラ何の罪悪感もなく生きているお前らが大嫌いだ
人を人たらしめている能力を捨てたくせに人間ヅラしている恥知らずなお前らが大嫌いだ
過ちを過ちで塗り潰すことを、罪を罪ですり替えることを
「人間らしさ」などと表現して憚らない人間モドキのお前らが大嫌いだ

「なんで?」

なんで?

「なんで?」

なんでこんなことしたの?

「なんで?」

なんで「これ」が苦しみにあたいすると思ったの?

「なんで?」

なんで散々逃げ回った挙句「これ」を選んだの?

シャボン玉が弾けて、極彩色の水玉が飛び散って視界染める

埃をかぶった雛人形が着ている真っ赤な着物のような世界だった

ドロドロに飲み込まれて、せっかくつくったからだ動かなくなる

不細工な木人形が意志もなくギシギシ震えているような世界だった

苦しみを精一杯解こうとしたアタマが溶けて、原風景溶けて混ざる

雨に濡れた泥人形が何もできないまま崩れていくような世界だった

「なんで?」

楽になりたかったから

「なんで?」

苦しかったから

「なんで?」

うまれおちてしまったから


「私」なんていらない

頭がボーっとしていて何も浮かばなかった時、可能なかぎり刺激を断ってみたことがある。本を読まない、音楽を聞かない、パソコンをつけない、会わない、話さない、テレビをみない・・・・・・ただ寝っ転がっているだけ。目を開いたり閉じたり、天井が見えたり見えなかったり、何か考えようと思っても何も考えられないし、それが「考えねばならない」に変わった所で考えるのを諦めた。空気中を漂う埃が肌の露出部分に触れて、むずむずして「あ」と思って、触れ、むずむずして「あ」と思って・・・・・・なるほど私は文字通り考えさせてもらっているのだなと理解した。

外気になでられる、風にふかれる、陽の光に照らされる、地面やモノがあたる、足音やリズムがきこえる、誰かの表情が目に入る、においがやってくる・・・・・・常に周囲を流れる無数の情報、それらが刺激する感覚の一つ一つがうまい具合に組み合わさって、思考や感情が生じる。無限の「海」に溶けてしまったような、あるいは流れに揺らされているだけのような、はたまたある場所・時間に「私」という点がたまたま配置されただけのような、要するに「何も考えられない」といった思いは誤った認識のせいで生じていたのだ。それは「私」の都合でどうこうできるものではないし、そもそも「私」が生み出すものでさえないのだから、「自分のアイディア」とか「絞り出す」とか「枯渇する」とか、傲慢な言葉だと思った。「自分の中に何もなくなってしまったのではないか?」なんて怖れる必要なかったのだ。

「海」の流れに生じる様々な現象のうちの一部がたまたま「私」という点で結ばれただけだから、「私」という記憶・志向は淀みであり、それもまた「海」の流れである。「私」は「海」の中にいると同時に流れでもあり、「私」を経験する私自身も「海」の中にいると同時に流れでもある。「私」も私自身も流れの中にいると同時に流れそのものでもあり、個体=点であると同時に世界=全体でもある。私が「私」のものとして経験する思考も感情も流れの中の点であり、淀みであり、同時に大きな流れそのものである。他の人も「海」の流れであり、関わり(会話も読書も音楽も)もまた「海」の流れであり、つまり社会も「海」の流れであり、したがって一見他人や社会から独立している意識も個体も、他人や社会そのものである。

人間や他の生物の個体同士の区別があるのはもちろん当然の事実だが、そうした区別があるからといって確たる境界があるわけではない。たとえば一緒に歌って踊る、までもなく文字情報だけという大きな制約があってさえ私たちは容易に同調(シンクロ)することができてしまうし、他の生物やモノにまで自分(たち)と同じような魂があると感じて「しまう」のである。それが思考・感情につながる、というよりそれこそが思考・感情そのものになる。確かに個体同士の区別はあるが、しかし境界は常に曖昧で、私たちは「この個体」であると同時に他の人・生物・モノでもあり、社会・世界・全体でもある。個体として画然と区切られているようで、実は周囲や環境や現象と連続しており、全体そのものでもあるのである。

にもかかわらず、私たちはシステム(賃金奴隷制)の都合によって「私」という境界に執着するよう教育され、観念的に設定されただけの境界を絶対視・自明視させられている。そして自己利益追求という「動機」を与えられ競争を強いられる中で、順応して「自分のアイディア/手柄/成果」に執着するようになり、成員が悉く孤独な奴隷に変わってしまうことで、「ちゃんと境界をつくらないと他人は際限なく侵害してくる」「自分のアイディアや成果を主張して認めさせないと尊重されない」といった前提が蔓延し、それに基づく権利やマナーや生き方が現実的にも妥当なものとして受け入れられていく。

私は世界・社会の一部であると同時に世界・社会そのものでもある、だとしたら私=社会に何か困ったことがあれば行動するのが当然なわけで、わざわざ「動機」を与えられる必要もなければ「意欲」を掻き立てられる必要もなく、権威や暴力や道徳を笠に管理される必要もなく、命令されて「社会のために」行動させられる必要もないのではないか。私=社会の困難が克服されればそれでよく、「自分のアイディア/成果」に執着する必要もないのではないか。それだと誰も何もしなくなる?蔑ろにされる?そうかもしれない。自分がやりたくないことを自分がやりたくないような条件で他人にやらせるよう勧めるシステム、「自分のアイディア/成果」を主張しないとうまく生き残れないシステム、「自分の手柄」のために他人を蹴落とさせるシステム、この抑圧的なシステムを維持したままでは確かにそうなってしまうだろう。

しかし、みなさんはこんな生き方がしっくりきているだろうか。「私」に執着し続けること、させられることに嫌気がさしていないだろうか。たとえば「君のおかげで」と言われたら「ただのまぐれです」「いやみんなの力です」と自然に言いたくなる。これは謙遜ではなく、事実そう感じているからだろう。世界やみんなが織りなす大きな流れの中でたまたま「私」という点にアイディアや行動が発生したというだけで、「自分の手柄」でもなんでもない。肥大化した(させられた)「私」への執着を捨て、「私」も私も点であると同時に全体でもあると認識することでもたらされるのは、「じゃあ他人を侵害してもいいんだ!」「それお前の力じゃないから!」「全部偶然なら頑張っても意味ないや」といった精神崩壊・無気力ではなく、等身大の関わり・生のはずなのである。


きっとどこかに

ひんやりとした空気、無機質に鳴るチャイムの音、静寂に浮かぶアナウンス。温かい季節になってきたとはいえ、終電の時間ともなればまだ寒い。泥酔者が出たせいで一本前の電車を逃してしまい、こうして15分後の終電をブルブル震えながら待つハメになった。日曜日ということもあってか、それなりに利用者の多い大きな駅にもかかわらず、人はほとんどいない。みんな、それぞれ、ポケットに手を突っ込んで寒さを凌いだり、虚空をみつめ感覚を閉ざしたりしながら、物わかりのいい従者のように独りジッと電車を待っている。

「~!~!」駅員の声だろうか?「~!~!」人の名前を呼ぶ声。こちらに近づいてくる。「~!~!お~い!ここにいるよ~!どこにいるんだよ~!」やはり駅員ではないようだ。追い詰められているのだろう、ハァハァと息切れしており、今にも泣きだしそうな顔でキョロキョロ動き回っている。「どうかしましたか?」少し残っていた酔いに任せ、つい話しかけていた。「人を探しているのです。この駅にいるはずなのですが、中々出会えなくて。あぁ!きっと向こうも不安な気持ちで私を探し回っているはずです!」「お名前はなんというのですか?」声をかけた流れ、あるいは感じるものがあったから、手伝うことにした。

「~!!~!!」一緒になって声を出し、駅の中を走り回った。いくら駅が広いとはいえ、人がほとんどいないのだから、すぐにみつかると思っていた。「~!!~!!」「うぅ、うぅ、こんなに探したのにみつからないなんて!会えないなんて!きっと、きっとどこかにいるはずなのに!」確かにこんなに探してみつからないのは何か変だった。「本当にこの駅にいるのですか?」「はい、だってさっきまで一緒にいたのですから」「え?」ついに泣きだしてしまった。

「これでしばらく会えなくなるから、互いに別れを惜しみ、悲しみ、ホームで待つ間も、つらくて、いてもたってもいられなくなって、電車が到着した瞬間、相手のホームに向かって走り出しました。いませんでした。乗降客の足音が黙々と響くばかりで、とても寂しくなって、きっと相手も同じだと思って、探し続けました。早くみつけないと!相手もきっと寂しくて、不安なまま、この広い駅のどこかに!」

別れたという話が本当なら、こんなに探してもみつからないのだから、つまり相手はもう電車の中なのだろう。勝手な思い込み、現実と願望の混同、それに付き合って大声出して走り回り、終電を逃した。そしてそこからどうやって去ったのか、記憶は曖昧で定かではなく、今こうして朝まで歩き続けようとしている。家に帰れるわけではない、それでも涙を流しておくにはちょうどいい。あの人をおかしいとは思えなかったし、思いたくもなかった。


五月病

深夜、カーテンを閉め、電気を消す
部屋の中の真っ暗闇
しかしよく目を凝らしてみると
隙間から差し込む月明かりが
「そこ」だけをうっすらと照らしている

意識が濁っている
思考だけがカラカラと空転するばかりで
感情はげっそりとやせ細り、どこにも進まない
普段怒るようなことでも怒らない、怒れない
誰かが怒っているのをみても、「あ、怒っている」でおしまい

頭の中に何もない、黒く塗り潰されて暗転したまま、あるいは間歇する雑音
なんとなくふにゃふにゃするばかりで
概念が生じたとしても維持できない
把持できない、みえない、ただぷかぷか浮かんでいるだけ
だから外の世界の真っ暗闇に縋るんだ

手探りでイスに座り、暗闇をみつめ、目を閉じ、開き、また閉じる
もう色も輪郭も世界も瞬きも認識しなくていい
するとだんだん身体が温かくなって
空間との境界がなくなって、闇に溶けていく
さっきまで不愉快の種だった頭もすっかり溶けてしまった

「自分」がなくなっていく、というよりもとから「自分」なんてなかった
そんな当たり前に全てが心地よく同調しはじめる
感情が巡る、思考が動き出す、言葉が流れる、像が連鎖する
茫漠と熱くなり、呼吸が速度を増し、鼓動が力強く鮮明に聞こえるようになる
全てが激しく連動していく

葉が擦れる音、鉄が軋む音、縄張りを争う猫の鳴き声
ガタゴト揺れる電車の音、ゴォーと響く自動車の音、深夜の音
真っ暗闇に満ちる音と真っ暗闇に溶けた身体が混ざり合って
上も下もなくなって、はじけて、駆け回って
でもすぐに終わる、残滓には切なさが伴い、切なさには車窓からの景色が伴った

積み木のように並ぶ家の一つ一つ
居心地悪そうに聳えるマンションの一部屋一部屋
住宅街に馴染んだアパートの一室一室
それぞれにそれぞれの生活があって

「ただいまァ~!」

今日もヒトとヒトとヒトとヒトが回り回り回り回り・・・・・・

近所のサラリーマンの大声に連れ戻されたのか
赤ん坊が泣き始めた


「友達」とは何か

憂鬱な気分が続く時、中学高校の頃の記憶がごちゃ混ぜになった夢をよくみる。部活動、ちょっとした対立、他愛もない会話・・・・・・日常。笑えば笑うほど、困難を乗り越えれば乗り越えるほど、憂鬱になっていったのを思い出す。たまたま身を置くことになった環境と合うかどうか、物事がうまいこといくかどうか、こんな運任せの綱渡りを独りでずっと続けていかなければならない。受験、テスト、入社試験、競争を繰り返して、「同じレベル」の人間同士集まって、その中でまた関係を構築していって・・・・・・。

自分に友達はいたのだろうか、とふと思うことがある。うん、確かにいた(と思う)。友達になってくれた人たちに失礼だからあらかじめ断っておくが、私は「みんな友達ではなかったのでは?」とか「今は付き合いもないのだから本当の友達ではなかったのでは?」などと思っているわけではない。友達は確かに友達だ、しかしこの世界の友達は「友達」になってしまう(させられてしまう)、というだけの話である。

「友達」とは何か?もっと言うと、孤立して生きることを強いられている個体同士の間に成立する「友達」という関係とは何か?そうなのだ。一生の友達でずっと付き合いがあると言っても、実は気が合うといった条件以上に「互いに運良くうまくいっている」ことが必要なのである。たとえばどちらかが経済的に困窮したとしても、深く頼ることはできない、助けることはできない、話をきいて「頑張るしかない」と励ますしかない。それでうまいこと復活できればいいが、できないとズルズル困難にはまり、忙殺され、転落し、少しずつ疎遠になってしまう。「友達」とは互いの小市民的生活の成功・安定の上に成立する関係である。

仮に頼ることができたとしても、それは一時的にならざるをえない。なぜなら手を貸す方は「ずっと続けても相手のためにならない」と思うし、頼る方も「相手に迷惑はかけられない」と思うから。お互いになんだかなぁと感じてはいても、何かが邪魔をする。システムの掟が既に関係の中に浸透しているのである。「自立」「自分で稼いで生きる」というイメージ、「自分の人生なんだから自分で何とかする」というルール、そうしたシステムの命令に互いにうまく従えている状態(問題化して表に出てこない状態)があってはじめて「友達」が成立する。私たちは深刻な問題を「ないこと」にして背景に退かせることで「友達」を成立させており、だからいざそれが表に出てくるとギョッとして、困惑しながら「最後は自分で頑張るしかないね」などと「そこから離れる」ことを考える。システムに屈し、目の前の「友達」よりシステムを優先させる。というよりはじめからシステムを優先させていたことが顕在化する、と言った方が正確か。

「友達」とは何か?相手がどんなに追い詰められていたとしても、いやむしろ追い詰められていればいるほど、私たちは何もできない。システムに従い没入すると、「助けたい」という気持ちより「こいつと深く関わったらこっちまで沈んでしまう」「手を貸したら結局相手のためにならない」といった気持ちの方が強くなる。そしてそれはやむをえない判断・もっともな判断だと認めてもらえる、自分の力で解決できなかった相手が悪いのだからと正当化してもらえる、なにより「現実」がその正しさを保証してくれる。しかし相手が深刻な状況に陥れば陥るほど助けることができなくなる「友達」とは、一体何なのか。相手も空気を読んで迷惑をかけまいと去っていき、孤独に困難に立ち向かう。困窮した?なら頑張って働くしかない。病気になった?なら頑張って克服するしかない。偏差値が足りない?なら頑張って勉強するしかない。もういやだ勉強したくない会社にいきたくない働きたくない?でも頑張って生きるしかない。みんなそうだから、自分もそうだから、頑張ろう。システム内の序列・生活水準・生死に直結する部分ほど、私たちは互いに触れることができないのである。

そんな世界における「友達」とは何か?損得計算や合理的思考、つまらない小市民的価値観、ささやかな小市民的生活の安定・・・・・・システムへの服従の上に築かれる「友達」という関係は何か?人間の本性の発露?まさか。「本音」を語り合えることが友情の証だとか、カミングアウトできることが信頼の証だとか、深刻な問題を「ないこと」にしてどうでもいいことを「重要問題」にして、そうやって制度化された関係が本性だなんて・・・・・・。互いの生活に干渉しないというと洗練されていて都会的進歩的に聞こえるが、そもそも私たちは深刻な場合ほど関わることを「しない」のではなく「できない」のである。

かつて「親友」と紹介された時、私は妙な感覚を覚えた。嬉しさよりも切なさの方が大きかったのである。そうか、友達の中でも「親友」なんだ、ずっと一緒にいたもんな。けど、互いの関係が「親友」になったところで、共に生きていけるわけではない。結局はシステムに屈せざるを得ない。どんな絆があったとしても、システムに立ち向かえるわけではない。二重の屈辱。相手が窮地に陥っても「相手のためを考えたら」助けることはできない。逆にこっちも助けてはもらえない、いざとなったら一人で何とかするしかない。二重の寂しさ。互いの小市民的生活を称え、ヘラヘラ笑い合う関係。相手が困った時ほど手を引っ込めねばならない関係。紙切れ如きに断ち切られる関係。この世界における「友達」とは、一体何なのだろうか?


プロフィール

遊民

Author:遊民
読みたい本が山積みなのでニートしてます。

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